IT BEGINS to MOVE.
早朝。とはいえまだ陽の昇る前。昨夜の宴会はつい2時間程前まで続いていたらしいが、早々に部屋に逃げたセレンには皆が眠っている、ということだけが重要だった。
音もなく身支度を整え、屋根に続く階段のある中庭に向かう。しんとした廊下には人の気配はなかった。店の連中が起き出すのはもう少し後だろう。予想通り、まだ中庭には誰もいなかった。軋みやすい階段を慎重に上がったところで、ようやくセレンは息をついた。
「なーにしてんだ?」
誰もいない、と思っていたところに急に声を掛けられて思わず肩をすくめる。カーフが寄りかかっていた煙突から離れ、セレンの前に立った。
「まさか外行く気だったか。まさか見つからないと思ったか。まさか俺を出し抜けるとでも思ったか」
「…寝てたんじゃねェのかよ」
ため息混じりにその場にしゃがみ込んだセレンの頭を、カーフがしてやったりという顔でがしがしと撫でた。その手を払うと笑いながらカーフはセレンの横に座った。どこから出したのか、湯気の立つマグカップを渡される。
「お前なー、少しは反省しろよ。何やってんの」
「…もう治ったんだからいいだろ」
「そういう問題じゃねーだろ」
呆れたように笑うカーフから顔を逸らし、セレンは液体をすすった。
あの日の夜、後ろから飛びついてきたディアナを支えきれずに階段から落ちた。避けきれなかったことをまず怪しまれて足の怪我が見つかり、衝撃で開いた傷口から血がシャツに滲んで背中の怪我まで見つかった。後からわかったことだが、どうやら背中を斬ったナイフには溶血性の毒が塗ってあったらしい。どうりで血が止まらない筈だった。ついでに落ちた時の衝撃で痣が出来た。勿論というかなんというか、ディアナとカーフには怒鳴られるわタータには叱られるわ、挙句何故かイリスが泣き出す始末で、涙目のまま包帯を巻くイリスと怒りを込めた乱暴な手つきで湿布を貼るディアナに挟まれて辟易したし、機嫌の悪いカーフと全てを知っていて面白がっているスネイクの間で大層居心地の悪い思いをした。
以来何処へ行くにもカーフかディアナがついて回ったし、当然外出禁止令が敷かれた。それでも5日は我慢したが、いい加減うんざりしてきていた。
「だからちゃんと大人しくしてたろ。怪我だって治ったんだし、もういいじゃねェか」
「拗ねるなって」
短い黒髪を布で包んだ、スネイクの右腕的存在。2つ3つしか違わないのに大人ぶったりして、セレンから見ればかなり子供っぽい部分が目立つ。“Artos”の者は皆、兄貴肌のカーフを慕っていた。なんだかんだでセレンも例に漏れない。
スネイクに連れられてセレンが“Artos”に来た時に、何かと世話を焼いてくれたのがカーフだった。ディアナと一緒にスネイクが連れて来たと聞いている。ここに来る前は旅芸人のキャラバンにいたのだと、カーフ自身が話してくれたことがあった。逞しい腕に引き締まった体躯を、自身の貧弱な身体と比べて嫉妬したこともあるが、カーフはセレンにとって憧れでもあった。
勿論本人の前では口が裂けても言えないが。
「まだまだ子供だもんなー、セレンは」
「…中身はどうだか」
「てめっそれどういう意味だよ」
殴りかかる真似をするカーフの腕を避け、一緒になって笑う。空の端が徐々に白んでくると、店に出る者達が中庭の井戸の周りに集まってきた。
「ちょっとー、朝から何やってんのー?」
カーフと一緒に頭を突き出せば、まだ髪すら結っていないディアナと、タオルで顔を拭いているイリスが見えた。まだ寝癖が残っている。
「暇なら店で寝ちゃってる馬鹿どけてきてよー。タータに見つかったらまた怒られちゃうじゃん」
「んなもんお前がやればいいだろ、馬鹿力女」
言い終わるか終わらぬかの内に、ディアナの投げた櫛がカーフの顎を直撃した。中庭から笑い声が上がる。櫛を投げられたイリスがディアナに文句を言っている。
「ってーなこの馬鹿女!お前1人で充分だろっつってんだよ」
「うっさいこの馬鹿男!さっさと働けっつってんでしょこの役立たず」
痛みに涙を滲ませたまま、顎を擦りつつ小声でカーフがセレンに囁いた。
「くっそー後でスネイクに文句言ってやる。お前も気をつけろよ、イリスまでディアナに汚染されたら俺らの居場所なくなっちまう」
「ちょっと、何か変なコト言ってんじゃないでしょうね」
「イリスー、ディアナに汚染されんなよー…ってカーフが」
「あ、この裏切り者」
「カーフ!」
ディアナが階段に駆けあがり、カーフが屋根を走り出す。それを見て笑いながらセレンが屋根から中庭へ飛び降りると、イリスがぱたぱたと駆け寄ってきた。
「セレン、もう足平気なの?あんまり無理しちゃ駄目だよ」
「全然平気だって。お前等が大袈裟過ぎんだよ」
言うとイリスは困ったような怒ったような顔をした。
「またそんなこと言う。少しは周りのこと考えてよ」
「へーへー。寝癖ついてんぞ」
「セレン!」
耳を真っ赤にして怒るイリスを笑い、セレンは井戸を回って中に入った。店の前を通った時に、タータが息も荒く寝転がった連中を叩き起こしているのが見えた。見つからないようミルクとパンをくすねて、セレンはスネイクのところへ行くことにした。
一昨日から、スネイクは棲み家の方に篭っていた。
国を囲む塀の外に鬱蒼と茂る森の中、“術師”の家はある。“蛇”の連中は至るところに張り巡らされた地下通路を通って“術師”の家へ行く。セレンは普段は屋根を伝っての移動を好んでいたが、“術師”の家へ行く時は地下道を使った。
滴る水にパンが湿気らぬようにローブの中へ仕舞いこみ、暗く湿った地下道を壁伝いに小走りで進む。しばらく進めばそのうちになだらかな上り坂へと変わった。そうなれば出口まで後1時間もかからない。セレンは足を速めた。出口である枯れ井戸の中をよじ登ると、高くなった陽が木々の隙間から漏れていた。その向こうに小さな木造りの小屋が見える。“術師”の家だ。周囲には大小色様々の蛇達が日向ぼっこをしていた。蛇を踏まぬように入り口に近付き、扉を開ける。暖炉の前でマダムが悠然ととぐろを巻いていた。スネイクは薬草を採りにでも行っているのだろう。“Artos”へ行くのならマダムも一緒の筈だから。
中に入り、マダムに挨拶をして熾き火の残る暖炉の前に腰を下ろす。マダムは片目すら開けずに、尻尾の先をほんの少し、揺らめかせただけだった。セレンはパンを噛み千切り、懐かしい匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
ここに人が来ることは滅多にない。大抵は“蛇”を通して依頼が来て、スネイクが受けるか受けないかという形になる。極稀に他国の同業者が訪ねてくることがあったが、セレンの知る限りでは数えるほどしかない。そもそもスネイクは人に会おうとしなかった。
壁中に下げられた枝や草、キノコ。棚に整然と並べられた瓶詰の粉、それにすり鉢や空の瓶。部屋の隅には申し訳程度のクッションと毛布が積んであったが、それはスネイクのものではない。ここでスネイクの作業を見ているうちに眠ってしまうセレンのための寝床だった。最近は蛇達の寝床になっているらしいが。
かさり、という草を踏む音を聞き、セレンは立ちあがって扉を開けた。
「よう」
言うと、スネイクは僅かにだが口元を緩ませた。その手にある籠を受け取り、中に入る。暖炉の前に腰を下ろしたスネイクの膝元にマダムがするすると移動した。「水を」と言われ示されるままに外の水瓶から鍋に水を汲んでくると、スネイクは熾き火をおこして香木を焚いていた。鍋を渡すと中に何かを入れ、そのまま煮始める。
「『外出禁止令』は、もう解けたのか」
向かいに腰を下ろしたセレンに、いつもより、と言ってもほとんど変化はなかったのだが、楽しそうな声音でスネイクが言った。セレンはくくと笑って答える。
「さぁ。これたってことはいいんじゃねェの」
ふ、と笑いながらも手を進めるスネイクに、「鉢を」と言われて後ろの棚からすり鉢を渡す。籠から出した草をすり潰し始めたスネイクを、セレンは膝を抱えて黙って眺めた。
褐色の長い髪の間から覗く黒い目が、じっと手元を見つめている。作っているのが薬なのか毒なのか、そんなことセレンにはわからないが、何かが徐々に出来あがっていく、というのを眺めるのが好きだった。
湯気の立ち始めた鍋にすり潰した何かを入れてかき混ぜるスネイクに、セレンはぽつりと言った。
「なぁ」
スネイクは何も答えない。いつものことと、セレンは気にせず続けた。
「カイアナイトに使われてるのって、どんな毒なんだ?」
鍋を火から降ろし、スネイクがねばりとした液体に横の瓶から粉を加えた。
「これだ」
粉を混ぜながら、スネイクは続ける。
「適量ならば発汗剤として解熱に使われる。が、熱もないのに連日与えつづければ体力の消耗と内臓出血を引き起こす。しかもあれは質が悪い」
「じゃあ、それを飲むのを止めたら治るのか」
スネイクは手を止めぬまま「いや」と続けた。
「元々が病弱だからな。治療もせず放って置いてもそのうちに死ぬ」
それから一旦手を止め、スネイクがセレンを見た。
「何故、そんなことを訊く」
「何故、って」
言葉に詰まるセレンに、スネイクは重ねて言った。
「知って、どうするつもりだ。カイアナイトを助けるのか」
今度こそ、セレンは黙りこんだ。
この5日、常に頭の片隅で自問していた。
知って、何をするかなんてわからない。兄を助けようとするイオの手伝いをしたいのか。いや、違う。そんなのはセレンには関係ない。関係ないのに、何故かイオのことが気にかかる。
カイアナイトを助け、それからイオが一体何をしようとしているのか。
自問自答を始めるセレンに、スネイクがとつと言った。
「カイアナイトは、弟に王位を譲るつもりだ」
「イオに?」
勢い良く顔を上げたセレンに、目を向けぬままスネイクが頷いた。鍋の液体を薄い板に塗りつけている。
「下手にジャカレーに立てついても殺される時期が早まるだけだ。今からカイアナイトが国を立て直すにはもう遅い。アイオライトはジャカレーから捨て置いても害はないという評価を受けていたから放って置かれた。カイアナイトが即位するのとほぼ同時にアイオライトは動き始めた」
板にねばりとした液体を塗りつけるのを手伝いながら、セレンはスネイクの言葉を待った。
「アイオライトのケイルは前ケイルの息子だ。ジャカレーが牛耳る陰で、アイオライトは着実に仲間を増やしていっている」
「でもディアノイアは、ジャカレーを追い出すには新しいディアノイアが必要だろ」
板を火にかざしてあぶりながら、スネイクは少し間を置いて言った。
「アイオライトは、もう目星をつけているようだ。だが」
板を灰にさし、香木を継ぎ足す。甘ったるい匂いが小屋を満たしていく。マダムが何か言いたげに片目でスネイクを見上げた。
「カイアナイトの容態が悪化している。今カイアナイトが死ねば、ジャカレーはアイオライトに王殺しの罪を着せて殺すつもりだ。そうすれば第2継承権を持つジャカレーが即位することになるだろう。奴の最終目的はそれだからな。始めはアイオライトを王座に座らせ操ることで国を支配するつもりだったらしいが、手間が減るに越したことはない」
「そんな…」
唇を噛み締める。カイアナイトなど知ったことではないが、イオが死ぬのは嫌だった。たったの1週間、実質5日しか一緒にいなかったけれど、今はっきりと思う。
あいつに会った時の、あの感覚。ずっと足りなかった“何か”が見つかったという、あの感覚。あいつが、ずっと足りなかった“何か”なのだ。ずっとセレンが探していた“何か”。ようやく今気付いたのに。
死ぬなんて許さない。
許す許さない、なんてセレンがどうこう言えるものではないが、それでも憤りを鎮めることができなかった。黙ったまま立ちあがり足音高く小屋を後にするセレンに、スネイクは何も言わなかった。
'07/8/22 11/04 修正
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