陽の昇る前に起床、点呼を取り、組み手から始まる早朝稽古は、城で行われているものと何ら変わりはない。冬の陽は暮れるのは早いが昇るのは遅く、兵士達が朝食を摂る頃になってもまだ辺りは薄暗かった。広場で兵士達と共に朝食を、と望んだのはセレン自身であったが、寒さにフードマントをかき合せる。気遣うラベイに笑んでみせ、セレンは湯気の立つマグカップを口に運んだ。
一口含めば果物のような香りが鼻を抜け、セレンはほっと息をつく。セレンの分の食事を運んでくれたのはルチルだった。どうやって隠していたのか、“Artos”でお馴染みのあの酒をカップに垂らしてくれたらしい。
無駄に気は回るくせに、どうして女の影がないのだろうかとしばしば疑問に思うところだが、そういった話題はセレンの領分ではなかった。今度“Artos”に戻った時、ロゼ辺りに仄めかしておけばいいだろう。
とはいえ年が明けたら、しばらく自分は国を空ける。慌しくて、“Artos”に戻る暇は恐らくない。
せめてモーヴへ発つ前に一度帰りたかったが、と胸中で嘆息していると、食事が終わったのだろう、兵士達がわらわらと動き出した。
どうやら隊ごとに当番が割り当てられているようで、皿洗いへ向かう者、汚れ物の入った籠を持って川へ向かう者、広場の片付けをする者など、元の貴賎に関わらず動き回っている。セレンの皿も、マグカップを残して下げられた。
陽がきちんと昇るまでの間はラベイからの報告を受け、すっかり明るくなってから、セレン達は徒歩で畑へと向かった。
農民と兵士が共に働く様は些か奇妙に思われたが、彼等の表情に違和感は欠片もない。子供たちが大人の合間を縫い駆け回り、歳の近い若者同士が共に鍬を振るっている。
平和だと、セレンは心から思った。
「良い光景でしょう」
穏やかな声で言われ、セレンは静かに頷いた。ラベイが目を細めている。視線の先には、子供に囲まれ困ったように、でも嬉しそうにしている兵士の姿があった。
ありがとうございます、と唐突に言われた。足を止め、セレンはラベイを見上げる。初めて彼と面を突き合せたのはイオの即位式の時、城の大広間だった。その時は彼の不躾な振舞いに、歳若いという印象を持っていたが、実際彼は三十路を過ぎ、6つになる娘を持っている。元々ヘリオットは年功序列を気にしない風が所々に見られたが、この若さで第一分隊隊長を務める腕前は相当のものなのだろう。
感慨にふけるセレンに、ラベイが続けた。
「私は、隊長になってからというもの、市街の夜番に出ることもなく、城内ばかりを見ていました。いつの間にか、何故自分が兵士を志したのかを忘れていました」
ラベイの家は下級貴族で、代々城に人材を派遣していたが、それは主に文官であった。逆に武官ばかりを輩出してきたのが、アンバーの家であるブルト家である。ラベイが静かに目を伏せた。
「ここへ来て、初めは戸惑うことばかりでした。けれど平民と接するうちに思い出しました。護るべきものが何であるかを。勿論第一には陛下がおられます。けれど、家族だけでなく、彼らもまた我々が護るべき存在である、ということをしかと確認しました。その機会を与えてくださったこと、心より感謝しています」
朝の空気にラベイの言葉は静かに響いた。背後では兵士や農民、子供の声が、耳障りでない雑音を立てている。頭を下げるラベイに対し、セレンも深く頭を下げた。
情報を扱う“蛇”は、しばしば法を踏みつける。“蛇”にとって兵士は決して味方ではなかったし、それは兵士にとっても同じだろう。けれど今、城で1年を過ごし、セレンもまた知った。城に住まう者仕える者も、同じ人であることを。目障りで醜いだけでなく、誰かの為に泣き笑う、普通の人であることを。
住まう世界が異なれば、住まう者までもが別の生き物でるかのように感じることは、とりたてておかしいことではない。知らないのではなく、忘れがちなのだ。
城へ来てよかった。今、セレンは深くそう思った。
***
昼過ぎには向こうを出、行きより早く、夕暮れの前にセレン達は城へ着いた。イオやアンバーに小言を言う気にはなれず、セレンは向こうで仕上げた書類をイオの机に積み上げて、執務室へ戻り報告書を書き上げる。インクが乾くのを待つ間、他の書類へ目を通していると、一際分厚い書類を見つけた。大胆な署名はヴェルデライト・ブルト。第50分隊隊長であり、一番遠い北の国境を護る、アンバーの父だ。昨年の即位の時は、イオの詮議が行われると言うことで急遽呼び戻されていたのだったか。
表紙を捲り、セレンは文字を目で追う。アンバーの悪筆は、どうやら父親譲りであったらしい。読み終えた後、セレンは目を閉じ息をついた。
冬。年末。昨年はなかった大きな行事。新年、織物市の準備が始まる前に、国境警備に当たっていた隊が帰ってくる。今回入れ替わるのは第21から第25分隊までの5隊だ。代わりに第49から第45分隊までの5隊が帰ってくる。勿論忘れていた訳ではないし、その為に必要な書類や準備も手配していた。
だが改めて眼前に突き付けられると、喉元が塞がるような感覚は拭えない。今城にいる兵士達と良好な関係を築けているからこそ、初の顔合わせとなる彼らが自分にどういった反応を示すかが面倒に思えてならなかった。
幸いなのは、警備特化隊である第7分隊、ルチルが城に残るということ。第1分隊は元より城を離れることはない。
近頃は暇を見つけて弓矢を教えてもらっていたので、今第7分隊に去られるのはできれば避けたかった。
確か、隊の入れ替えの折りにはヴェルデライトも城へ出てくる筈だ。記憶に残る、熊のような大男。初見は一方的であったが、色々な意味で恐ろしかったことを覚えている。それは去年再び見えた時も変わらなかったが。
ロベルが夕食を持って入ってきた。礼を告げるとはにかむのは、何度やっても変わらない。どもりがちなのもあり、照れ屋なのかと思っていたが、夏の誕生式典の折にペペルに絡まれた時のあの表情を見る限り、そうとも限らないらしい。
女はどうして、アンバー然りカーフ然り、強い男に惹かれるのだろう。決して自分が弱いとは思わないが、見た目が貧弱なのは知っている。好きで貧弱な訳ではないのに。湯気の立ち上るスープを眺め、セレンは頬杖をついた。
もしも自分がカーフだったら、と思ったことは幾度かある。そうすれば、あの緑の瞳は自分を追ってくれるだろうに。
思っても仕方がないこと、だとはわかっているが、それでもつい考えてしまうのだ。
スプーンの代わりにマグカップを取り、セレンは少し早い夕食を摂った。