新年の色合いが濃く残る、ある日の朝。国境警備にあたっていた隊が帰ってくるのが昼頃と聞いていたセレンは、先に面倒な書類仕事を片付けてしまおうと、イオを探していた。
執務室は見た。馬舎も見た。食堂にはいなかったし厨房にも顔を出していないという。ならばと兵舎に向かう途中、俄かに進行方向がざわめいた。
咄嗟にそちらへ駆けだしたが、耳に入ってくる音にセレンは懐へ手を伸ばす。鈍い音、金属のぶつかり合う音、怒鳴り声。到底穏やかではない。ナイフがそこに収まっていること、ざっと見回した辺りに人がないのを確認しつつ、セレンは手近の木に飛びあがって塀の向こう、兵舎を窺った。
どうやら喧騒は兵舎の裏手で起きているようだ。セレンはそのまま塀を飛び越え、音のする方へと走った。騒ぎを聞きつけたのだろう兵士に交じらないように進めば、見覚えのある金髪が目に入る。同時にその金髪に向けられた剣も。
考える前に、セレンはナイフを投げていた。甲高い音と共にナイフが弾かれたが、セレンはそのまま2本3本と得物を投げる。そうしてイオに追いつくと、セレンは彼の腕を引いて手近の兵士に押し付けた。セレン、とイオが名前を呼ぶ。セレンはナイフをすべて弾いた闖入者を見て、思わず仮面の下で眉をひそめた。
「ヴェルデライト殿ではありませんか。これは一体何事ですか」
アンバーの父、先々代のケイル、そして現第50分隊長ヴェルデライト・コルテ・ブルト。彼は今日の昼頃に帰還する、4年間の国境警備を終えた隊を率いている筈なのだが。
セレンの詰問にヴェルデライトが剣を下したが、地に伸びている兵士や明らかに殴られただろう様子の連中を見たセレンは、ナイフを構えたままにした。だから、後ろからかけられたイオの「落ち着けセレン」の言葉は無視した。
けれど人垣の向こうから聞こえてきた声でヴェルデライトの顔に浮かんだ表情に、脱力せざるをえなかった。
「親父ってめー何してやがんだ何しやがんだクソ野郎!」
罵倒と共に現れたアンバーの両眼は怒りに燃えている。対するヴェルデライトの顔には、執務室を抜けだそうとしたところを見つかったイオと同じ表情が浮かんでいる。アンバーの登場で戸惑っていた兵士達が列をなし、父親に詰め寄る上司に向かって姿勢を正した。
「大体てめー昼に着くんじゃなかったのかよ他の連中どうしたんだ」
「父親に向かってその口の利き方はなんだ」
「城では身分弁えろっつったのそっちだろ」
「では私を『親父』と呼ぶのはお控え願えますかな、アンバー様?」
言いくるめられているアンバーと言いくるめているヴェルデライトを見てセレンが呆気にとられていると、イオが横に並んでセレンのナイフを持った手を抑えた。
「恒例なんだよ、あれ」
「あれ、とは?」
尚も言い争っている親子を見つつ、セレンはとりあえずナイフを仕舞う。気の付く兵士が弾かれたナイフを拾って渡してくれた。
イオが介抱されている兵士を目で示しつつ、どこか面白がっている口調で答える。
「北の警備隊の交代って2年ごとだろ? その度に親父さんが、なんていうのかなあ……こう、殴りこみにくるんだよ」
「……殴りこみ」
「そ。で、この後は大抵……あ、始まった。腑抜けてるって言って説教が始まるんだ」
イオの示す通り、さっきまで威勢の良かったアンバーがヴェルデライトの前で直立し、大人しく叱責を受けている。他の兵士達も同様だ。聞こえてくる言葉をまとめると、顔見知りだからといって油断するな、中年1人抑えられなくて国を守れるのかと、まあこんなところだろう。
よくよく見ればヴェルデライトにのされた連中は、どれもこれも若い。一方見物に回っていた連中は古株だ。ヴェルデライトの乱入を見て、しきたりを知らなかった連中をちゃっかりけしかけたのだろう。
朝から妙に疲れた気がして、セレンは深くため息をついた。
「なあヴェルデライト、その辺にしとけよ。前よりはこいつらの動きも良くなってんの、わかってんだろ?」
説教に飽きたらしいイオがそう声をかければ、ヴェルデライトが今気付いたとでもいうような顔で「おお」と顔を綻ばせた。
「確かに、前のように型にはまった対応をしなかった分成長したみたいだがなあ」
顎に手をあてて唸るヴェルデライトにイオが歩み寄り、その少し後ろにセレンも続く。いつも以上に不機嫌そうなアンバーのこめかみが擦れているのを見れば、視線に気付いたのだろうアンバーがヴェルデライトを顎で示した。
「ぶん殴られた」
「流石のアンバー殿も、身内には弱いということですか」
彼が姉たちを苦手をしていることは周知の事実だ。予想通り苦い顔になったアンバーに小さく笑っていると、イオと談笑していたヴェルデライトが突如セレンを振り向いた。
「あいつらはともかく、君の動きは中々のものだった。あのナイフにはひやりとしたぞ」
「ヴェルデライト、君じゃなくてセレンだよ、セレナイト。もう忘れたのか?」
呆れたようなイオの言葉に、ヴェルデライトが苦笑いをする。
「まだ呆けてはおらんよ。しかし、前に見えたのは春先だったか、随分背が伸びたみたいだなあ」
直後のヴェルデライトの行動に、セレンは勿論、アンバーもイオも、周りで見ていた兵士達に至るまで言葉を失った。
ぽん、と置かれた手が、ぐりぐりとセレンの頭をフード越しに撫でる。仕上げとばかりに2度軽く頭を叩き、ヴェルデライトが手を下した。
「愚息だけでは心許無いが、セレン殿もいるなら小僧は安全だな。まだ身体はできていないようだが、子供ならば仕方あるまい。年は幾つだ? 小僧共と変わらないんだろう?」
瞬間、兵士達がぴたりと静まり返った。フードマントにちょくちょく色の変わる髪のセレンの姿は、今や城内では当たり前の存在として受け入れられている。けれど素顔や素性は一切明かされておらず、忘れた頃にあちらこちらで噂がされるのみだった。
つまり、直接セレンに素性に繋がることを問いただしたものは少ない。答を返されたものは皆無だ。
セレンはフード、更にその奥の仮面の下で瞠目し、それからふと気が抜けた。
「今年で16になります」
瞬間ざわりと兵士達が抑えた声をあげたが、ヴェルデライトは「そうかそうか」と笑って腕組みをしただけだった。
「セレン殿の噂は北の端にまで届いている。道すがらの民の顔は明るい。良く国を治めている。思ったより若かったが、中々どうして良く働いているじゃないか」
「国を治めるのは陛下です。私は補助にすぎません」
けれどヴェルデライトはからからと笑い、セレンの肩を軽く叩いた。
「国は1人で治めるもんじゃないだろう。小僧、いいモン見つけたなあ」
「だろ」
にししと笑うイオを見ては、ヴェルデライトの口調を注意する気にもなれない。久方ぶりに撫でられた頭が落ち着かなくてフードの位置を直していると、アンバーが腕組みをしたまま見下ろしてきた。
「……16、か。にしちゃ小せーな」
「個人差、というものをご存知ですか。貴方と一緒にしないで頂きたい」
何を言うのかと思いきや、かけられたのは予想外の言葉で、セレンの居心地の悪さは吹っ飛んだ。わざとにこやかに返してやれば、機嫌を損ねたのを悟ったのだろう、アンバーがそっぽを向く。それは放っておくことにして、セレンはヴェルデライトに向き直った。
「貴方が連れてくる予定だった隊は、それでは報告通り昼頃に着くのでしょうか」
「おお、昼過ぎには着くだろう。ところでラベイの姿が見えないが、奴は?」
「彼は別所に。話は無事に引継を終えてからと致しましょう」
それからセレンは、こっそり兵士の中に紛れようとしていたイオを呼びとめた。
「おや陛下。そちらは城とは反対の方向ですよ」
「いやちょっと帰ってくる連中を迎えに行こうかと」
「入れ違いになっては大変ですから、陛下は執務室でお待ちになられるのが良いでしょう。待つ間に机の山を片付ければ時間を有効に使えますよ」
げんなりとした顔のイオを城に追いたてれば、もう見慣れた光景だ、兵士達が笑いながら見送ってくる。ちらりとアンバーを振り向けば、怒ったふりをしながらも頭をヴェルデライトに撫でられていた。