建国式は無事終了し、年明けにヘリオットがレグホーンを訪問すること、春にはイローネを訪問すること、そして初夏には織物市に合わせて来訪するモーブの宰相の案内で、かの国を訪れることなどが約束された。
誰が行くのかはまだ明確にしていないが、イローネはともかく他の2国は自分で赴こうとセレンは決めていた。問題は自分の容姿だったが、それは仕方ないと腹を括っている。イオを遠方へやる危険を冒すより、またアンバーに事務的な話し合いをさせるよりはよほどましだと思ったからだ。
アンバーと言えば、とセレンは星の瞬く夜空を窓越しに見上げた。先々日まで、誕生日に合わせて実家に下がっていたアンバーは、いつものように疲れ果て戻ってきた。普通は実家に戻ればトリカのように、心身ともに充実して帰ってくるものだと思う。もっともアンバーを疲労させたのは、噂に聞く素晴らしい姉君達というのは周知の事実だった。
身支度を整え灯りを消し、セレンは私室の窓を開ける。11月の夜は冷たく、セレンは上着の首元をしっかりとかきあわせた。星は瞬いているが月はなく、眼下はほぼ真っ暗と言える。セレンは窓枠に手をかけて、身体を外に躍らせた。
久々に走る地下道は、けれど相変わらず真っ暗で、所々で水音がするのも変わりない。自然と浮き立つ心に口元をほころばせながら、セレンは“Artos”への道を駆けた。
“Artos”への出口の前で、セレンは一旦足を止めて深呼吸をする。ここをあがれば店の裏手、男棟と女棟が向かいあう中庭への入り口へ出る。中央にある井戸で顔を洗い水遊びをし、時にはカーフとディアナの鬼ごっこを皆と笑いならが見ていた中庭に。
息を整え襟から首を覗かせたルピに頷き、セレンは通路を上がった。すぐに上げ戸に突き当たり、細く開けて周囲を窺ってから身体を上げる。もう中庭のすぐ裏だ。
今の時間であれば居間で宴会をやっている筈だ。気付かれずに自分の部屋へ戻ることができる。扉の取っ手に手を掛けた瞬間に何かを感じたが、その何かを認識する前に扉が勢い良く引かれた。
「久し振りだなーこの家出小僧」
「相変わらずひょろっけーな。背ぇ伸びた?」
あれよあれよと中へ引き摺りこまれ、セレンは人だかりの中心にいた。すぐ横ではセレンの腕を掴んだカーフが、セレンを見下ろして笑っている。その向こうではディアナが、反対側ではイリスが同じように笑っていた。
「おかえり、セレン」
「うちでこそこそしようったってそうはいかないよ」
ラピラズロゼなど、何人かは既に酔っているようだ。ビスカがイリスに寄りかかり、セレンの頭を殴ってくる。
「驚いた? ざまーみろっての、ばーか」
手荒い歓迎に呆れ懐かしくなり、セレンは顔が緩むのを止められなかった。イリスが脇から、「スネイクもいるんだよ」と教えてくれる。
セレンが今日、夜のうちに“Artos”へ戻ることは、誰にも知らせていなかった。唯一知っているのがイオと、その場に居合せていたスイだけだ。まず間違い無く、スイが日時を彼等に教えたのだろう。スネイクは尋ねられない限り答えをくれないし、答えをくれるとも限らないから彼等がスネイクから聞き出したとは思えない。
通路を通って居間へ入り、そこでも盛大に歓迎を受ける。宴会の好きな連中ばかりだから、とりあえず酒が飲めればいいという考えだろう。すぐにラピラズは酒の方へ散って行ったし、イリスもタータの手伝いがあるからと厨房へ行ってしまった。セレンはカーフの腕をすり抜け、炉端に座るスネイクの元へと急いだ。
あちこちで馬鹿笑いが響いているというのに、この炉端だけはあの小屋のように静かだった。スネイクがセレンを見上げて小さく微笑み、「座れ」と短く言った。
マダムを挟んで反対側に腰を下ろすと、ディアナがマグカップとつけ合わせを持ってきた。礼を言いつつ受け取り、記憶と寸分も違わないスネイクを見て、セレンはようやく心が落ち着いたのを感じた。
「色々ありがとう。随分助かった」
「ああ」
そっけない返答も懐かしい。テーブルの上で曲芸を始めたカーフを横目で見ながら、セレンはマグカップに口をつけた。仄かな甘みと果物のような香りに安心し、一口飲みこむ。途端喉を焼かれるような感覚がして、思わずセレンは咳き込んだ。ディアナが机を叩きながら身体を折り曲げ笑っている。ディアナだけでなく、その場のほとんどが笑っているのを見てセレンはそっぽを向いた。
夏、セレンの誕生日では時間がなかったというのもあり、セレン自身は酒を呑まなかった。今口にしたのが2度目だ。初めて飲んだのはここに来たての頃、カーフに騙されてだったが、もう2度と飲むまいと思ったものだ。
けれど飲めないと思われるのも悔しくて、セレンは液体を舐めるようにしてゆっくり飲んだ。心構えができていれば、味と香りに文句のつけようはなかったし、喉越しもまあ悪くはない。
ちびちびと酒をすするセレンを見てスネイクが小さく笑っているのに気付き、セレンは「なんだよ」と噛みついた。
「お前が、初めて酒を飲んだ時のことを思い出した」
水は要らないのか、とからかわれ、セレンは近くの薪を暖炉に突っ込んだ。ちろちろと火の粉が舞い、マダムが気怠るそうに尻尾を避ける。
カーフがディアナと組んでジャグリングを始めた。イリスが飛び交う酒瓶を避けながら、空いた皿を片付けていく。宴会の時くらい、一緒になって騒げばいいのにと思うのだが、もう性分になってしまっているらしい。イリスが片付けを忘れて馬鹿騒ぎをするのは、カーフやディアナ、ラピラズやロゼ、ビスカといった、特に気心知れた若い衆だけで騒ぐ時だけだった。
余計なことをカーフが言いでもしたのだろう、ディアナの投げた瓶が弧を描かずにカーフへと飛んでいく。どっと笑いが生まれるのを見ながら、セレンはまた酒をすすった。
「やっぱ、いいな」
呟きは、喧騒に殆どかき消される。消されていなかったとしても、スネイクは何も言わなかったろう。それでもいつだって彼は聞いている。どんなに小さな声でも、短い言葉でも、彼が聞き漏らすことはなかった。
「城はさ、悪くはない。でも時々、ここが堪らなく恋しくなるんだ。俺の家はここなんだって思える。帰る場所があるから頑張れる」
「あの日、小屋を出て、カイアナイトに薬を届けに行った日、俺は二度とここに帰らないつもりで出て行ったんだ。今は本当に馬鹿だったって思う。カーフには2回も説教くらったし、自分の馬鹿さ加減に悲しくなるよ」
酔いが回ってきたのだろうか、身体が火の所為だけでなく温まってくる。スネイクが無言でマダムの腹を撫でている。
「覚えてるか? あんたが俺を拾った日を」
ああ、と短い返事が返ってきた。顔がこちらを向くことはない。
「あの時からずっと、あんたの横が俺の帰る場所なんだ。……あんたに会えて良かった」
多分、初めて言うことだ。スネイクに会えて良かった、なんて。マダムが尻尾を伸ばし、セレンの膝頭を撫でていった。
「俺、明日の夜までは休みなんだ。イオは良い奴だよ」
そうか、とスネイクが笑った。その後すぐに、音もなく立ちあがる。奥の部屋へ行くのか、それとも小屋へ戻るのか、それはわからなかったが、セレンは人の間を抜けて消えたスネイクの姿を見送った。
「もう一杯いかがですか? セレナイト様」
横から酒瓶を突き出され、セレンは思わず「ルチル」と声を出した。青い目が悪戯っぽく笑う。半分ほどになったセレンのマグカップに酒を注ぎ、ルチルがセレンの横に座った。
「お前、今日は夜番じゃなかったのか」
「だからこうして見回りに来てるんだろ」
よくよく見れば、ルチルは兵士の鎧を脱いだだけの軽装だ。重く邪魔な鎧と剣は、部屋にでも置いてきているのだろう。
「職務怠慢だな。見回りはセインドと組んでいたんじゃなかったか」
「固いこと言うなって。セインドなら今ごろ表の店で一杯やって、俺がいないことも気付いてないさ」
あの野郎、とセレンは酒をあおった。スイから話を聞いて以来、ディアやセインドなど、セレンを女と勘違いし続けていた連中にはどうも良い感情が持てなかった。勿論仕事に私情は挟んでいない。けれど先のディアとの手合わせの時、少々本気を出してしまったことは否定できなかった。
空になったマグカップへ間髪入れずに酒が注がれる。いつのまにかカーフが、ルチルと反対側の隣りに座っていた。スネイクがいる間は、炉端はスネイクの居場所。けれど彼がいなくなれば、皆遠慮はしなかった。
「もう二度と飲まないとか言ってなかったか?」
「何年前の話だよ」
カーフのわき腹を肘で小突くと、少々勢いが強過ぎたのかカーフが呻いて上体を倒す。その上にディアナがのしかかり、カエルの鳴き声のような音が下から聞こえてきた。
カーフはまた、赤い紐を結ばなかったのか。ふとそんなことを思う。カーフだけではない。ディアナもイリスも、結局赤い紐を結うことができなかったのだろう。彼等の赤い紐の行方を全て知っているセレンは複雑な気持ちになって、マグカップを一気に空けた。
大切な家族だから、幸せになって欲しいと切に思う。けれど彼等の幸せは絡み合っていて、彼等の願いが今の形のままで成就されることは決してないことをセレンはわかっていた。
だったらせめて、このままで。
つまみを持ってこちらへくるイリスが増える。イリスだけではない。灯りもルチルもカーフもディアナも、向こうでじゃれているロゼとビスカまで。
頭がぼうっとしてきて、セレンはそのまま意識を手放した。
***
目が覚めると煤けた天井が見えた。狭い。身体を起こすと激しい痛みに脳が揺さぶられる感覚がして、セレンは前のめりに身体を倒した。ひどく喉が乾いている。水差し、とサイドテーブルに手を伸ばしたが、そこにある筈のテーブルはなく、セレンはバランスを崩して床に落ちた。目が回る。ルピが呆れたようにセレンの手首を舐め、床に転がっていたカーフが寝返りを打った。
“Artos”の、セレンの部屋。ようやくここが城の私室でないと理解し、セレンはベッドに寄り掛かった。何故か部屋にはカーフとディアナ、ラピラズ、ロゼとビスカが落ちている。狭い。
よく今人の上に落ちなかったものだと感心し、セレンはベッドに手をついてゆっくり立ちあがった。頭がくらくらする。水が欲しい。壁に手をつきつつ人踏まぬように注意し、セレンはドアノブに掛けてあったフードマントを取ると部屋を出た。
昨夜、炉端でスネイクを見送った後、ルチルが横に座ったところまでは覚えている。素足に床板が気持ち良い。その後何があったのか、まったく記憶にない。
井戸のある庭へ出ると、イリスが洗濯物を干しているところだった。ふわふわとした茶色の髪が、陽光を反射して光っている。思わず目を細め、太陽の高さに驚いた。イリスが振り向き、陽だまりのような笑顔でセレンを見る。
「おはようセレン。酷い顔」
イリスの声が頭の中で反響し、セレンは顔を顰めた。笑い声が一々頭をぶん殴ってくる。
「何時だ」
「もうお昼過ぎ。みんなはまだ寝てる?」
ああ、と返すのがやっとだ。これで頷きでもしたら、セレンは立っていられないだろう。水、と呟くと、イリスが踵を返して井戸に駆け寄っていった。
備え付けの木彫りのコップに注がれた水を飲み干し、セレンはようやく息をつく。もう一杯、今度は自分で注いで飲んだ。イリスが洗濯籠をまとめ、翻る洗濯物を満足そうに眺めている。
「店は?」
「人がいなくて回らないよ。今日は夜から開けるんだって」
イリスの抱えた籠を持とうとしたが、瞬間立ちくらみを起こして目を瞑ってしまった。イリスが笑って言ってくれた「居間で待ってて」という言葉に甘え、セレンは女棟へ戻ってくイリスを見送る。その姿が見えなくなってから、セレンは水を頭から被った。
炉端、セレンはタータにもらったミルクとパンを齧りつつ、昨夜の馬鹿騒ぎの欠片も残らない居間を見回した。ほどなくイリスがやってきて、床に置いてある皿からパンを取る。
「飯まだなのか」
「食べたいの」
大口を開けてパンを頬張るイリスに、セレンは自然頬を緩める。ミルクも注いでやってから、自分は容器から直接飲んだ。
「昨日、何があったんだ? 全然覚えてないんだ」
イリスが一息ついた所を見計らってセレンが尋ねると、イリスは呆気に取られたような顔をした後で「覚えてないの?」と訊き返してきた。
「スネイクがいなくなって、ルチルがきて、その後は覚えてない。カーフが来たような気もするけど……」
「何それ」
呆れたような怒ったような、困ったような顔のイリスにセレンは肩身が狭くなる。そんなに呑んだ覚えはないのだが、自分でも記憶が飛ぶとは思っていなかったのだ。
大きなため息をついた後、イリスが昨夜の出来事を話してくれた。
「私が混じったのが、カーフたちがここに座った30分くらい後だったのかな。その後しばらくお酒飲んだりお喋りしたりして、その間ずっとセレンは普通だったのに」
「全然覚えてない」
信じられない、というような視線が返ってきたが、記憶にないものはない。セレンは先を促した。
「その後どれくらいだったっけ、ルチルが仕事に戻るって言った時、急にセレンがルチルにしがみついてね。『行くな』って駄々こね始めたの」
そんな記憶は全くない。平生でもそんなこと欠片も思わない。笑うイリスと対照的に、セレンは血の気が引くのを感じた。
「面白かったなあ。ちっちゃい子みたいですっごく可愛かったよ。それで初めてセレンが酔っ払ってるって気付いて、ルチルから引き剥がしてセレンの部屋に場所を移したの」
なんでそこで呑むのを止めてくれなかったのか。呑ませるのを止めなかったのか。イリスがミルクを一口飲み、続けた。
「私は手伝いがあるから途中で戻ったんだけど、最後に見た時はロゼとキスしてたよ」
思わずパンが喉につまった。むせるセレンの背を叩き、イリスがミルクを差し出してくる。それは遠慮しつつ、セレンは「何だって?」とイリスを問い質した。
「ロゼと俺が?」
平然と頷くイリスに、セレンは目の前が真っ暗になるのを感じた。よりによってイリスに見られるとは。それも記憶がない間の痴態を。
「ロゼってお酒入るとキス大好きになるから。セレンてば、ディアナにしがみついてすっごく嫌がってた」
面白がったラピラズがセレンのこと押さえつけてて、ちょっと可哀想だったな。口ではそう言っているが、イリスの表情を見れば最後まで見れなかったことを悔やんでいるというのが丸わかりだ。
増したように感じる頭痛に頭を抱えながら、セレンは聞きたいような聞きたくないような気持ちで「それで?」と訊いた。
「片付け終わってから覗いた時には、皆もう寝てたよ。起こすのも悪いからそのままにしちゃった」
その、イリスが行ってから再び戻るまでの間に何があったのかが問題なのだ。何故セレンだけベッドで寝ていたのか、何故ビスカがラズと抱き合う形で寝ていたのか、何故ディアナの顔に泣き跡があったのか、など。
居間に窓はない。いつもが嘘のように静かだ。時折人の動く気配がしたが、居間にはセレンとイリスだけだった。
貴重な休み、だというのに、今夜にはもう城へ戻らねばならない。半日以上を寝過ごしたというのが悔やまれてならなかった。
スネイクに会いにでも行こうか、それとも部屋へ戻って馬鹿共を叩き起こそうかとセレンが思案していると、イリスがセレンの髪で遊び始めた。遊ぶ、と言っても編んだり結んだりをする訳ではない。ただ指を絡ませたり、梳いたりを繰り返すだけだ。
「あんまり伸びてないね」
好きなようにさせていると、不意にそう言われた。最後に会ったのが3ヶ月程前だから、目に見える程伸びている筈もない。
「イリスは切ったんだな」
前見た時は肩の下まで伸びていた髪が、今は顎の高さで揃えられている。「邪魔になっちゃって」と自分の髪を指に巻きつけたイリスが、セレンの髪をさらさらと流した。
「本当はね、伸ばそうと思ってたの。でも長いの似合わなくって」
俯きがちになっていくイリスに、セレンは微妙な気持ちになった。イリスが髪を伸ばしたがる理由がわかるからだ。
「短い方が、イリスは似合う」
長いのが似合わない訳じゃない。そう言ってセレンはイリスの頭を撫でた。俯いたままのイリスに、セレンは冗談めかして「それに」と言った。
「あいつは髪の長い人が好きなんじゃなくて、好きになった人が偶々長い髪をしていたってだけだろ。長い髪が好きなんだったら、俺やビスカも惚れられてることになるぞ」
残酷なことを言っている。髪を伸ばしても、イリスがあいつに好かれる訳じゃない。本当は、好かれて欲しいなんて欠片も思ってないけれど。
「無理しなくても、イリスはイリスのままが一番良い。イリスは他の人になりたいのか?」
首を横に振るイリスの頭をもう一度撫でて、セレンはしばらくそうしていた。