The after story.







 もう二度と酒は呑まない。これから先付き合いで呑まねばならないような場面はあるかもしれないが、自らの意志で呑むことは決してない。決して呑むまい。
 夕方ようやく目を覚ましたカーフに聞かされた昨夜の全貌に、回復し掛けた体力気力を全て奪われたセレンは、明け方近くに城の自室へ戻ってベッドに倒れこんだ。
 まだ夜は明けないが、そろそろ兵宿舎が賑やかになる頃だろう。ルチルのことを思い出し、セレンは大きなため息をついた。記憶にないとはいえ、自分がしでかしたことが消える訳ではない。できるなら顔も会わせたくなかったが、運の悪いことに今日は執務室前の兵士がルチルになっている。
 何もかも最悪だ、とセレンは枕に顔を埋めた。

 9時少し前、セレンが会議室へ行くと、珍しいことに既にイオが席についていた。
「お帰り。どうだった?」
「陛下のお心遣いのお蔭で、心行くまで羽を伸ばすことができました」
 道すがらに読んでいた書類を机に置き、セレンはイオを振り向いた。イオが不思議そうな顔になる。
「にしちゃ何か疲れてない?」
「気の所為でしょう」
 フードマントを脱いで椅子の背に掛け、セレンは「ところで」と紙の束を持ち上げた。
「じきに第2兵宿舎への視察が行われる予定でしたが、陛下とアンバー殿はもうご覧になったようですので、行くのは私のみということでよろしいですね」
 反論は許さない、といった口調で言ってやれば、イオはセレンを凝視したまま口を魚のように開けたり閉じたりしていた。
「お前、髪」
「かなり伸びていたので切りました」
 肩上で揺れる黒髪を指でつまみ、セレンは平然と言った。唖然としているイオのあまりの間抜けさに、セレンは思わずため息が漏れた。
「……俺、お前は願掛けか何かしてんだと思ってた」
 ようやくイオの口から出た言葉に、セレンは「違います」と答える。アンバーがエメルドと連れだって会議室に入ってきた。同時に動きを止めて同じ顔をした2人に、セレンは席につくよう促す。
「始まる前に目を通しておいてください。来年の予算案をまとめたものです」
 それぞれの席に置かれた紙を示しながらセレンが言うと、アンバーはもう慣れたのか、「おう」と短く答えてイオの右に座った。エメルドはセレンとアンバーを見比べていたが、何も言わないことに決めたらしく、黙って自席に腰を下ろしていた。
「似合わねーな」
 給仕にそろそろ茶の準備をするよう指示した時にイオが言った。給仕を送り出してから、そして新しく入ってきた重役達に挨拶をしてからセレンは振り返る。
「黒髪」
 しみじみと言われては流石に戸惑う。茶や金だとすぐに色が落ちていってしまう為に濃い色を選んだのに。
 イオが話題にしたことで、触れるのを戸惑っていたのだろう重役達が今度は不躾にセレンを見た。
「短いと癖が出るから、髪を伸ばしておられたのですか」
 ジャスパーの言葉に思わず苦笑する。確かに、今ではイオのことを言えないくらいセレンの髪はあちこちに跳ねていた。
「それもありますが、不精者なので切ることすら面倒だったのですよ」
 初めはなんとなく伸ばしていた。スネイクの影響だったのかもしれない。そのうち切ろうとするとディアナに猛反対されるようになり、惰性で伸ばすようになった。昨夜ふと思い立って髪を切り落とした時の、ディアナの顔が忘れられない。
 全員揃ったのを確認してからセレンも自席、イオの左に座る。退屈だけれど必要な話し合いの場だ。さっさと終わらしてしまおうと、セレンは口を開いた。

「それにしても、アンバー様といいセレナイト様といい、休み前と後で随分と変わられましたな」
 話し合いがあらかた片付いた頃、エメルドが愉快そうに言った。カルボが同意するかのように頷く。それからセレンの方へ視線を向けた。一瞬の探るような視線を、隠したつもりだろうがセレンは見逃さなかった。
「如何でしたか? 私の知る限り、初めての休暇であったと思いますが」
 朗らかな訊き方に合わせ、セレンは笑いながら答える。
「悲しいことに、半日以上を酔って眠ったまま過ごしてしまいました」
 エメルドが、意外だとでも言うように眉を上げる。
「セレナイト様はお酒を嗜まれるので?」
「少々。もう当分はご免ですよ」
 苦笑いで察してくれたのだろう、場が笑いに沸いた。
「アンバー様は、相変わらずのようですね」
 ジャスパーが笑い混じりに言うと、アンバーが顔を顰めた。
「だから俺は帰りたくなかったんだ。さっさと嫁に行けばいいのに」
「そうは言っていても、いなくなったら寂しくなるのが兄弟姉妹というものですよ」
 フェルラムのしみじみとした言葉に、セレンは彼の家族構成を思い出す。確か姉が1人いて、エメルドの嫁になった筈だ。そしてエメルドの妹は市街のパン屋へ駆け落ち同然で嫁に行き、今は継子2人と計4人で暮らしていると聞く。そこのパン屋はセレンも良く知っていたので、あの優しいおばさんが駆け落ちした、と知った時は驚いた。
 そういえば、あそこの兄妹は元気だろうか。ふと思い出し、昨日聞いておけば良かったと後悔した。
「セレナイト様は、ご兄弟などは?」
 突然話を振られ、セレンは一瞬場を見回した。アンバーは興味の欠片もないらしく冷めた茶をあおっていて、イオがセレンに気遣うような視線を向けている。それ以外の人々は、皆一様に興味津々と言った様子だった。
「なんとなく、弟妹がおられそうだという印象を持っていましたが」
 エメルドが再度尋ねてきたことでようやくセレンは合点がいった。皆、セレンの個人的な話を聞きたいのだ。どこへ帰るのかも分からない休暇の後で初の顔会わせ。色々聞き出すには今が絶好の機会だと踏んだのだろう。
「上にも下にもいますよ」
 口元だけ笑顔で答えてやると、アンバーがつまらなそうに鼻を鳴らした。
「家でも仮面は外さないのですかな」
 カルボの冗談交じりの言葉に、イオの目元が僅かに細められる。テーブルの下で握り締められているイオの手をそっと撫でてから、セレンは「ええ」と答えた。
「外すのは自分の部屋でのみ、見せびらかすようなものでもないでしょう」
 さあ、とセレンは席を立ち、自分の前の書類を抱え上げた。
「年末に向けて、仕事は日を追うごとに迫ってきますよ。新年をご自宅で迎えられたいのであれば、ご自身の職務を果たしてください」
 ジャスパーとエメルドが顔を見合わせ苦笑いをする。カルボはともかく、この2人はいつも期限直前まで仕事を溜めていた。
 雑談が始まった中、セレンはイオを振り向いた。
「黒髪が似合わないというのであれば、陛下は何色をお望みですか」
 一瞬場が静まりかえる。「そうだなあ」とイオが立ち上がり、セレンの横に並んだ。アンバーも同様に立ち上がってイオの一歩後ろにつく。
「やっぱ、元の色が一番似合うよ」
 言って歩き出したイオの後、アンバーの横に並び、セレンは小さく笑った。

***

 執務室の前では、丁度ルチルが警備の交替をしたところだった。休憩に出る兵士を見送ってから、ルチルがセレンを振りかえる。
「お帰りなさいませ、セレナイト様」
 扉の反対に立っていたセインドが、同じように姿勢を正してセレンに向き直った。セレンの髪を見てか、セインドの顔に珍妙な表情が浮かぶ。ルチルはセレンの散髪を知らなかった筈なのだが、見た目には平生と変わらぬ様子のまま敬礼の姿勢を取っていた。
 ルチルの顔を見て、セレンはカーフ、それにイリスから聞いた話を思い出す。顔から火が出そうな程だ。なんでもない風を装って執務室へと入ったが、きっとルチルには気付かれただろう。城の中、人目のある時は、どの“蛇”も立場を守ってくれるのがせめてもの救いだった。
 けれど私室へ入った途端、セレンは人目が無いのをいいことに頭を抱えた。テーブルの上には昨夜飲んだ――と言われた――酒の瓶が鎮座しており、その横には畳まれた紙が置かれている。スイやそこらの仕業だろうが、紙を読んでセレンはソファに身を沈めた。
「……野郎」
 独りだというのに思わず悪態が口をつく。紙に書いてあったのは、その酒の正しい呑み方。湯や紅茶に少し垂らして飲むものだということ。
 なのにセレンは原液をのまされた。悪酔いをして当たり前だ。
 今度の乱取りの時は覚えていろ、とセレンは扉の前に立っているだろうルチルを壁越しに睨みつけた。



'09/04/14


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