He, he, and she.







 昼も過ぎ、夕方にはまだ早いと言った時間。セレンが中庭の刈り込みを点検していると、ベンチに掛けてグリーの大臣と話しているクーベを見つけた。近くにはルチルと、別の第7分隊の兵士、それに各々の国の護衛兵が1人ずつ控えている。セレンは2人に見える位置から、静かに近付いていった。まず第7分隊の2人が敬礼し、続いて護衛兵たちが直立不動の体勢を取る。その様子に気付いたクーベがセレンに顔を向け、「これはこれは」と笑顔で立ち上がった。グリーの大臣――ウェイテルもセレンに気付いて立ち上がり一礼する。セレンも会釈を返してから、2人の元へ歩み寄った。
「前にクーベ殿がいらしてから、随分と涼しくなりました。もうじき収穫の季節ですね」
 まったく、と2人が頷き、ウェイテルがセレンに視線を向けた。背は低く、長身のクーベと比べるとずんぐりとした印象だ。身長はセレンと然程変わらないが、横幅では到底敵いそうにない。タータといい勝負だろう。
「ここへ来る道すがら、貴国の戦士が畑を耕しているのを拝見しました。なかなか……そう、面白い試みですね」
「食料に乏しいとされる北国では、兵士が農作業をする光景は珍しくないそうです。ヘリオットは幸いレグホーンやグリー、モーヴといった、広い土地を有する国々から輸入をして民を賄えてはいますが、兵士は守る国があって初めてその用をなします。今の穏やかな世では、兵士は剣を振るう以外の方法で国を守らねばなりません」
 そう、ウィスタリアやグレーネなどでは既に行われていることだ。常に雪をかぶる山の向こうでは。ウェイテルはまだ腑に落ちないといった顔をしていたが、クーベは深く頷いていた。
「特に貴国は豊かな土壌をお持ちだ。むしろ今までその土壌を放って置いた事に驚くばかりですな」
「恥ずかしいことに。しかし辺境に農民をやるには危険が伴います。兵士に鍬鋤を持たせることを陛下もお考えになっていたと知った時は驚きましたよ」
 セレンの言葉にウェイテルが笑った。馬鹿にした笑いではなく、おかしくてたまらないといった笑いだ。
「まるで宰相の鏡ですな。どんな時も主君を立てることを忘れず、且つ国を豊かにすることを考える。これからが楽しみなお方だ」
 まだお若いのでしょう、と言われ、貴方よりはと控えめに答える。ウェイテルの目が一瞬光った。表情はにこやかなまま、低く早く、唇を殆ど動かさずにウェイテルが囁く
「あまり大人を侮らない方がいい。確かに貴公は優れているが、経験が足りない。先ばかり見ていると足元を掬われることになるぞ」
「その経験を積む為に、今こうして貴方がたから学んでおります」
 3人にだけ聞こえるような声音で言ったウェイテルに対し、セレンは普通の大きさの声で返した。急に張り詰めた空気に、護衛兵たちは気付かなかったようだ。ルチルが自分に視線を投げたのを感じたが、セレンはつられて視線を向けるような真似はしなかった。クーベがウェイテルの肩に手を置く。
「我々のような老いぼれも、貴殿のような若者から学ぶことは多い。互いに高めることができるのも、この平和な世のお蔭でしょう」
 表向きはな、と心の中で返し、セレンはクーベからウェイテルに目を移した。
 グリー、リラカ、それにレグホーンが結んでいる軍事同盟は、その弱さを補う為のものだ。国の大きさで言うならば、1番小さいリラカでもヘリオットより一回りは広い土地を持つ。ところがどうして、国の大きさと強さは必ずしも比例するものではないらしく、三国が力を合わせたところで人数を稼いだところで、到底ヘリオットには敵わないだろうことは明白だった。
 それは幾多の争いにおける経験の差であり、何より国民の意識の差だ。ヘリオットの戦士は強くあらねばならない。それが民の誇りであると同時に目標でもある。通りの子供にまでその意識が浸透していることでもよく分かる。長年の歴史を振り返ってもだ。
 ところがレグホーンのような農牧国は、守られることにすっかり慣れてしまった。いまさらいくら同盟を結ぼうと、兵士の育成に力を入れた訳でもなし、強くなることは見こめない。弱さを補うどころか、その弱さを曝け出すことになっていることにも気付いていないのだろう。
 万が一の時頼りになりそうなのはイローネだったが、レグホーンとの付き合いを続ける以上、いくら身内がいるとは言え色好い返事は期待できそうにない。セレンとしてはさっさとイローネに乗り換えてしまいたいのだが、まだ時期が来ていないこともわかっていた。怖いのはウィスタリアの動向だが、どうやらウィッテのかつての将軍が反乱を起こしたらしいし、しばらくは南に手を出す余裕はないだろう。
「若い内は頭が固かった。今ではすっかり柔らかくなったつもりだが、今度は新たなものを積めこむ余地がなくなってしまった。セレナイト殿、若い若いと高を括っているとあっという間にこのじじいのようになってしまいますぞ」
 先程とは一転して柔らかな表情になったウェイテルがセレンの肩に手を乗せた。良く言うよという言葉は喉で飲みこみ、気を付けましょうと苦笑う。クーベがほっとしたように眉根を緩め、「時間を取らせてしまって申し訳ない」と謝罪した。それは暗に、この場を去れと言っていた。
 セレンとしても長居するつもりはなく、一礼してその場を辞した。中庭を抜けるまで、ウェイテルの視線がずっとセレンの背を追っていたのには気付いていたが、セレンは一度も振り向かなかった。

***

 翌朝、セレンは馬場にいた。昨夜突然執務室にきたアンバーに呼び出されたからだ。あの男こそもっと本を読むべきだと、近頃口の減らなくなったルピを思いながらセレンはひとりため息をついた。
 ひんやりとした空気が上着の隙間から入りこみ、夏が終わったことを感じさせる。もうすぐ1年になるのかと、セレンは去年初めてイオに会った時のことを思い出した。
 厩からアンバーとソーレが出てくるのに気付き、そちらに足を向ける。遅いと言うアンバーを無視し、セレンは悠々と2人に近付いた。
「おはようございます、ソーレ殿。幾度も遠路お疲れ様です」
「この時期はいっそこちらに住まった方がいい気もしてきますね」
 イローネとヘリオットの距離を考えれば、前回の誕生式典から今回の建国式典まで、ソーレが自国にいたのはほんの1月余りだろう。ソーレ1人ならもっと早く帰れたかもしれないが、姫を連れてとなればそのくらいの時間はかかる。モーブのように文書で済ませてもいいのに、とセレンは思うのだが、イローネ、というよりソーレはヘリオットに来ることを楽しんでいるようだった。
 ところで、とセレンはアンバーに視線を向けた。
「何用でしたか」
 暇はないぞと暗に含ませ問うと、アンバーは「来いよ」と機嫌よく厩に入っていった。何かを企んでいるイオのような表情に多少警戒心が生まれたが、ソーレまでもが同じ顔をして誘うので、セレンは用心しつつ厩に入った。
 馬独特のむっとする臭いにまず圧され、薄暗い厩で目を細める。アンバーが敬礼している馬の飼育係に手を振り、来賓の馬が並ぶ列を越してイローネの馬が入れられている列に進んだ。セレンもソーレと後に続き、アンバーの横に並ぶ。アンバーが立っていたのは、ほっそりとして身軽そうな黒毛の馬の前だった。額にだけ、真っ白な毛が十字のように生えている。賢そうで穏やかな目が、セレンを見つめ返してきた。
「お前のだ」
 唐突に言われ、思わずセレンはアンバーを見上げた。アンバーが黙ってソーレを顎で指す。示されるままソーレに顔を向ければ、ソーレは悪戯が成功した子供のような顔で「贈り物です」と笑った。
「ヘリオットでは建国記念日に、贈り物をする風習がありますよね。これは俺とアンバーからの贈り物です」
 余りのことに言葉を失っているセレンの背をアンバーが叩いた。
「イローネ産の馬だ。イオが羨ましがるぞ」
「そんなこと言われても、私が受け取る訳には」
 トリカがくれた髪紐とは訳が違う。荷車用の馬1頭でさえ、大ジョッキ一杯の金貨で足りるかどうかなのだ。イローネ産の見るからに上物とわかる馬ともなれば、セレンの溜めてある金全て出しても足りないだろう。そんな高価なものを贈られても困る。
「これはお詫びも兼ねてるんですよ。先日は大変迷惑を掛けてしまいましたから」
「それなら陛下になさってください。私は何もできませんでした」
 辞退し続けるセレンの頭をアンバーが掴み、ぐるりと馬に向けた。首が悲鳴を上げる。反射的に腕を殴りあげると、アンバーが腕組みをして見下ろした。
「どうせお前にも馬がいるんだから、大人しく貰っとけ。あの栗毛は軍の馬だ」
 アンバーの言葉に、セレンは言葉を詰まらせた。乗馬の練習に付き合ってくれた栗毛にはかなり愛着が沸いていて、栗毛もセレンが行くと嬉しそうに擦り寄ってきていたのだ。けれど今回はアンバーが正論だった。あの栗毛はセレンの馬ではない。
 ソーレが十字の黒毛の鼻面を撫で、「セレン様」と優しく言った。
「こいつ、まだ名前がないんです。付けてやってくれますか」
 ソーレが場所を空け、アンバーが馬の前にセレンを押した。遠慮がちに手を伸ばし、そっと鼻面に触れる。真っ黒の瞳がゆっくりと瞬きをした。
「綺麗な馬ですね」
「とびきりの美人ですよ」
 雌なのか、と額の十字を指でなぞる。「私でいいのですか」と確認すると、「セレン様がいいんです」と返された。
「では、ポーレにしましょう」
「天の目印ですか。良い名前ですね」
 ポーレ、と言いながらもう一度鼻を撫でると、黒毛は擦りつけてくるように首を振った。
「気に入ったみたいだな」
 アンバーが満足そうに言う。セレンはソーレを振り返り、「本当に戴けるのですか」と尋ねた。
「もうお前のだ、しつけーぞ」
 けれど答えたのはアンバーで、ソーレは同意するように頷いただけだった。ありがとうございます、とセレンはソーレに言った。それからアンバーに直り、彼に対しても「ありがとう」と言う。アンバーは首の後ろをかきながら、そっぽを向いて鼻を鳴らした。


'09/03/27


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