Why wouldn't you learn from that?







 今日は朝から鈍い色の雲が天を覆っていた。空色は遠くの方で僅かにちらつくばかりだ。執務室でグレーネからの親書を読んでいたセレンの心は、窓から見える灰色と同じくらい重かった。
 グレーネからの親書とは名ばかりで、内容を端的に言うのであればそれはペペル個人からセレン個人に宛てられた、認めたくはないが恋文のようなものだった。認めたくはないのだが、ただの友人相手にさえ“麗しの月”だの“夜露に濡れる花のよう”だのという表現は普通使わないのだということくらい、いくらそっち方面に疎いセレンでも知っている。
 いっそ破り捨ててしまいたかったが、セレンはその衝動を抑えると今度はモーヴからの親書を開いた。ペペルのとは違い、こちらは誕生式典へ出席できなかったことへの謝罪と、建国式にはかの国の宰相を遣わすことが実に丁寧で形式に則った文章で書かれていた。
 セレンはインクにペンを浸し、ペペルからの手紙はうっちゃったままモーヴへの返礼を書き始めた。
 イオの誕生日から、約一月半が経過した。春から推し続けてきた第2兵舎の設立案が一月前にようやく通り、冬になる前に建設が始まったことは、セレンにとって一息つくことのできる出来事だ。意見が通るのは遅いが実行は早い。それがヘリオット上層部の長所であり、短所だろう。セレン自身もまさかこんなに早く建設に入れるとは思っていなかった。
 宿舎建設は兵士達自身に行わせる為、今の兵舎は随分閑散としている。もっともそれは今までに比べてのことなので、むさ苦しいことに変わりは無い。それでも国境警備に当たっているのを除いた25分隊のうち10隊が国壁の外へ出てしまっているので、残りの兵士達は妙に寂しそうに見えた。
 せめて冬の内に土を耕し終えれば、春には作物を植えることができるだろう。初めの数年は農民の手助けが必要になるが、兵士の中にも農民出身の者はいるし、これからもっと農民出の者が増えることになる。長い目で見ればこの試みは必ず利益を産む筈だ。
 返礼文書に蝋で封をし、セレンは次の書類に取りかかった。
「セレン」
 その途端ノックも無しに扉が開かれ、城内だというのに胸当ても肩当てもつけない身軽な格好でアンバーが入ってくる。唯一その身分を示す腰布とその飾りが、申し訳なさげに揺れていた。
 もうせめて来賓がいる時さえ正装してくれれば良いと半ば諦めているセレンは、そのだらしない格好を咎めることもなく「何用ですか」と尋ねた。
「何苛ついてんだよ。それよりほら、ラベイからだ」
 尖った声音にかそれとも丁寧な言葉にか、アンバーが片眉をあげつつも手にしていた筒をセレンの机に置く。薄い紫に似た色合いの紐で結ばれた筒は、紙を丸めたものだった。
 アンバーの目の前でそれを開き、几帳面な字で綴られた文章に目を通す。第2兵舎の設立の為に向かった兵士の監督はラベイに頼んでいたのだが、中には作業が滞りなく進行していること、大工の指示に今では文句1つ言わず兵士達が従っていること、文句ばかり言っていた貴族出身の兵士も土いじりに抵抗を示さなくなってきたことなどが記されていた。
 もし監督していたのがアンバーであれば、兵士は文句を聞こえるような所で漏らしはしなかっただろう。表向きは忠実に従っていただろう。けれどその中で、不平不満が募っていった筈だ。行き場のない不満を消化するのは極めて難しく、嫌な雰囲気が広まったことと思う。
 けれどラベイは元から不平不満を聞くのが職の1つになっていたようなもので、兵士達は存分に反抗してくれていたようだ。ラベイには苦労をさせてしまったが、結果はセレンの思い描いた通りになった。
 今度存分にねぎらってやらねばと思いつつ、セレンは去っていこうとしたアンバーを呼び止めた。
「何故貴方がこれを持ってきてくださったのでしょうか」
 貴方、の部分を強調しながら問うてやれば、アンバーの足が動きを止めた。重ねてセレンはその背に言う。
「今日は涼しいというのに随分汗をかいていらっしゃるようですね。先程私が鍛錬場へ伺った時には、アンバー殿の姿を見掛けなかったと思ったのですが」
 何も言わない後姿に、セレンは笑顔で締めくくった。
「現場主義は頼もしい限りですが、城を空けるのであれば一言残してくださいと、陛下にもお伝え願います」
 勿論朝議のすぐ後からイオとアンバーが姿をくらましていたのは知っていた。厩から馬が2頭いなくなっていたのも確認済みだ。宿舎建設の様子が気になるのはわかるが、2人してセレンの目を盗むようにこっそり出て行ったということが問題なのだ。特にイオは。
 気味の悪いものでも見るかのような目でアンバーがセレンを振り向き、「またあの蛇か」と顔を歪める。ルピがセレンに告げ口をしたとでも思ったのだろう。最近ようやく気付いたのだが、アンバーは蛇が苦手なのではなくルピが苦手なようだった。
 違うと一言短く答え、セレンは「そもそも」とラベイの手紙を指の背で叩く。
「再来月には視察することが決まっていたではありませんか。何も今見に行かなくても良いでしょうに」
 流石にアンバーも決まりが悪くなったようで、顔を背けて首筋を擦っている。いつもの癖だ。
「だってお前、馬乗れねーじゃん」
「私を誘ってくださらなかったから言っているのではありません」
 違うのか、と言わんばかりの表情に、セレンは深くため息をついた。
「とにかく、お二人ともご自分の立場というものをもう少し配慮して行動してください」
 わかっているのかいないのか、とりあえず頷いただけといった様子のアンバーに、セレンはため息を抑えることができなかった。

***

 翌朝は打って変わって晴れ渡った空が広がっていた。本来ならばセレンは昨日のように、部屋の中からその空を眺めていた筈なのだが、何故か目の前には書類の山ではなく、つやつやとした大きな目玉をした栗毛の馬がセレンを見下ろしていた。
 荒い鼻息に早くも心が挫けそうになる。離れた場所では兵士達が馬を駆ったり手入れをしたししながら談笑しているのが見えた。
「慣れるしかねーからな」
 栗毛の鼻面を叩き、アンバーがセレンにも同じ事をするよう促す。恐る恐る手を伸ばせば、栗毛は不服そうに首を振った。慌てて手を引っ込めると、「それじゃ意味ねーだろ」と呆れられる。
「わざわざ一番大人しい奴選んだんだからびびってんじゃねーよ。そんなんじゃいつまでたっても乗れねーだろが」
「そんなこと言ったって」
 怖いものは怖いのだ、という言葉は飲みこみ、セレンは再度手を伸ばした。
 今までは他国がヘリオットを訪ねてきていたが、今後はヘリオット側から各国を訪ねる機会もある。外交官よりもっと上、国の代表が招待される機会だ。アンバーに交渉は向かないし、かといってイオを1人で行かせるのは気が進まない。となるとセレンがその役目を負うことになるのだが、そうなると乗馬の技術は不可欠だった。
 セレンに秘書がいればそれを向かわせることもできたのだが、イオとアンバーにはスイやラベイがいても、生憎セレンにそのような存在はない。
 だからセレンは昨日あの後、どうせ暇なら馬術を教えてくれとアンバーに頼んだのだ。それをこうも早く後悔する羽目になるとは思わなかったが。
 ごわごわとした感触が手の平に伝わり、セレンは逃げ出したくなる衝動を堪えてアンバーがしたようにその鼻面を叩いた。よしとアンバーが言うのが聞こえ、伸ばした倍以上の速さで手を引っ込める。
「次、こうして足引っ掛けて一気に乗るんだ」
 言葉と共に、アンバーが軽々と栗毛の上に飛び乗った。馬上からセレンを見下ろし、「わかったか」と飛び降りる。
「乗ったら足は絶対に締めるな。馬は腹押したら走るし、手綱を引いたら止まるようになってる。だから鞍に座ったら足に力入れるんじゃねーぞ」
 その言葉に以前の出来事を思い出し、できたら苦労しないと内心で答える。けれど中々動こうとしないセレンに業を煮やしたアンバーは、ぐいと手綱を引っ張って柵の近くへ移動した。
「最初柵に登って、そっから乗れ。そっちのがやりやすい」
 興味津々と言った様子でこちらを窺ってくる兵士達が憎い。言われるままに柵へ登り、セレンは鐙に足をかけた。
「そのままそのまま、しっかり掴んで一気に跨るんだ」
 セレンの手に鞍を掴ませて、アンバーが手綱を持ったままセレンの側へ回りこんできた。「せーの」の言葉と共に腰を掴まれ、体が一瞬宙に浮く。直後セレンは栗毛の上に跨っていた。
「乗れんじゃねーか」
 アンバーの顔が眼下にある。上出来だと笑うアンバーがセレンの腿を叩き、手綱を寄越した。受け取る為に鞍から手を離したが、ぐらりと揺れる上体に慌てて手綱ごと鞍を掴む。
「軽く歩くからな。慣れろ」
 けれどアンバーはそんなセレンを気にもせず、自分は轡に近い部分を持って馬の腹を手で叩いた。栗毛が軽く鼻を鳴らし、それからアンバーに引かれるままに歩き出す。
「馬に合わせて体揺らせばバランス取れんだろ。……鞍掴んでどうすんだ、しっかり体起こせ」
 アンバーは厳しかったが、無理強いをすることも無茶を言うこともなかった。乗馬の訓練をしている間は、セレンをそこらの兵士と同等に扱った。1週間もするとアンバーの手なしでも馬を歩かせることができるようになったし、馬場の他の兵士達から乗馬のこつを教えてもらえるようにもなった。
 勿論日中を乗馬の訓練に割いている為に本来の職務がたまったが、それは反省させることも兼ねてイオに回していたので、セレンの負担はそれほど変わらなかった。
「随分上手くなったな」
 ある日の馬場、栗毛を歩かせていると、黒毛に乗ったルチルが馬を寄せてきた。近くに他の兵士はいない。アンバーは今日は鍛錬場の方へ顔を出していた。
「お蔭様で」
 正直すぐ近くに並ばれると怖かったのだが、下手にセレンが動かすよりも馬の歩くままにさせた方が安全だろう。セレンの返答に笑いながら、ルチルが空を仰いだ。
「ラベイさん、随分楽しそうだったぜ。すっかり逞しくなっちまってたよ」
 そう言えば第7分隊は、一昨日建設当番から帰って来たのだと思い出し、宿舎の建設が始まってからもう一月経ったのかと感慨深くなる。自分達が住まうことになるのだからと、宿舎建設は各隊順番に行わせていた。交替は5隊ずつ、向こうには10隊いるから5隊が向かえば5隊が帰ってくることになる。一月ごとの交替のため、第6から第10分隊は最初に帰ってきた隊ということになった。今向こうには第1分隊から第5分隊、第21分隊から第25分隊の約1000名がいる計算だ。
 あのどちらかといえば文官よりの外見が泥まみれになっている姿を想像ができず、セレンはルチルと一緒になって笑った。
「しっかしよく考えたな。兵士に農民の真似事させようだなんて」
 ふと真面目な顔になったルチルがセレンを見た。フードは下ろしているが、セレンは今ではすっかり手放せなくなった仮面をつけている。セレンは視線に振り向かず、前を見つめた。
「俺がウィスタリアの情報買ってるの、知ってるだろ」
 ルチルが頷くのを確認し、セレンは続けた。
「ウィスタリアでは普段兵士に農作業をやらせてるんだ。北国で食料が乏しいってのもあるらしい。勿論狩りは兵士が専門でやってるらしいが、向こうじゃ兵農一致が当たり前なんだと」
 これらはすべて、セレンが“蛇”から買う事で手に入れた情報だ。きちんと対価を払えば誰でも客になれるのはいいところだと思う。
「近年ウィスタリアは、徐々にだが力を蓄えてきている。あそこらに山賊がいたのは有名だが、最近じゃすっかり姿を消したそうだ」
「仲間にしたか、もしくは実戦練習も兼ねて駆除したかってとこか」
 厳しい面持ちのルチルに頷き、セレンは北に首を巡らせた。
「向こうは土地が痩せてるから、戦の準備にはまだ数年かかる。最後に取り込んだウィッテの制定もまだ済んでないからな。だから今のうちにヘリオットも準備しておかなきゃいけないんだ。戦なんてないのが一番だろうけど、レグホーンも何かやらかしてくれそうだし、備えておいて損はない」
 だからセレンとしては、外交を上手く進める方向へ持っていきたいのだ。ヘリオットの武勇は轟いているが、だからこそもしヘリオットに剣を向けようとする国があれば全力で向かってくるに違いない。過去の栄光に縋っていては、ヘリオットは潰されてしまう。そうなれば一番の被害を受けるのが民間人だというのは、ウィッテの様を見たことのあるルチルが良くわかっているだろう。
 しばらく無言で馬を歩かせた後、ルチルがぴたりと黒毛を止めた。少し遅れてセレンも栗毛を止め、後方のルチルを振り返る。
「どうかしたのか」
 セレンの問いに、ルチルは「いや」と微笑した。何故かその表情が寂しげに見えて、セレンは言葉を失う。
「なんて顔してんだよ」
 笑うルチルに言い返さず、セレンは首を巡らせ西を見た。“Artos”のある方向だ。イオの誕生日から二月近く経ったということは、セレンが最後に“Artos”に帰ってから3ヶ月近く経ったことになる。
「もうすぐ建国記念日だな」
 セレンの言葉に「もうそんな時期か」とルチルの答える言葉が聞こえた。
 ヘリオットでは、建国記念日には親しい人と過ごしたり、世話になった相手へ贈り物をする習慣がある。城では毎年盛大な祝いが行われていたが、民間人にとっては仕事も休みになる“家族の日”だった。
 昨年まではセレンも“Artos”で、皆と共に宴に参加していた。昨年までは。
 今年はどうあっても無理そうだと、各国からの祝辞へ返事を書きながら思ったのを覚えている。今年、ではない。恐らくは今後ずっと。
 別に当日でなくたって贈り物をすることはできるし、“Artos”へ行くことはできる。兵士達だって当日に暇を貰えるのは運の良い隊だけで、他は順繰りに休みを回されることになる。国境警備に出ている兵士などは、2年経たねば家へ帰ることすらできないのだ。そう考えればセレンは恵まれているのだろうが、やはり意識の問題があった。
「第7、15分隊は警備担当だからお客が来てる間は出っ放しだけど、代わりに明日から丸1週間暇貰えんだ」
「知ってる」
 ルチルの言葉に短く答え、「判を押したのは俺だ」と付け加える。ルチルがまた馬を寄せてきた。
「言えばいいのに」
「何を」
 足りない言葉にそう返せば、ルチルは横目でセレンを見下ろして言った。
「休みが欲しいって、陛下に」
「阿呆」
 間髪入れずに返し、セレンは栗毛を止めて下に降りた。
「例え休みを貰えたとしても、後で困るの俺なんだよ。あいつら書類仕事すぐ溜めるし、間違い多いし、俺だって得意な訳じゃないのに」
 ルチルも黒毛を降りながら「けど」とセレンを呼び止める。横に並びながら、ルチルがセレンの肩を掴んだ。
「またいっぱいいっぱいになるのもお前だろ。ガキの癖に」
 反論しようとした矢先、視界の端に赤毛が映ってセレンは口を閉じる。素早いもので、ルチルはとっくにセレンから数歩離れた位置に移動していた。
 わかってるよと口の中で呟き、セレンは栗毛を引いてアンバーの方へ歩いていった。


'09/04/16


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