It was too clear to see.







 パーティを明日に控えた夜。セレンは後少しの辛抱だと雑務に追われて執務室に閉じ篭っていた。
 来賓も皆到着し、今のところこれといった問題は起きていない。幸いなことに忙しく城中を走り回っているお蔭か、ソーレと話をする機会は一度もなかった。
 すっかりぬるくなってしまった水を飲み、セレンはペンを置いて伸びをする。やはり自分でできる分だけでもやってしまうと手間が省けて楽だった。
 イオに気付かれたらまた叱られるかもしれないが、今朝見た様子からすると執務机に向かったかどうかも怪しいところだ。聞いたところによるとさっそく姫君たちから熱いお誘いが矢継ぎ早にきているらしい。
 イオの引き攣った笑いなど滅多に見られるものではない、とその様子を想像してセレンは一人笑う。どうせなら覗きにでも行ってみるか、と思った矢先に扉が叩かれ、「お食事です」と聞きなれた声がした。
 入れ、と声を掛けると覆いを被せたトレイを持ったマティが部屋に入ってきた。ロベルは、と尋ねかけて、彼女はリラカの姫の世話係に回っていたのだと思い出す。だからと言って何故料理係が直接持ってくるのだろう。
 セレンの不審に気付いたのか、マティがにやりと笑った。
「何、お疲れのセレナイト様に特別製のスープをね」
 にやにやとしたままのマティに不審感を拭いきれないが、覆いを外した途端に漂ったスープの匂いを嗅いだ途端、そんなものは吹き飛んだ。
「大変だったんですぜ。1週間も休みを貰って女将につきっきりで仕込んでもらったんですから」
 言葉も碌に耳を通らず、スープを一口含めば塩気の効いた熱い液体が唾液を促した。タータ特製スープにそっくりの味。添えられたパンは勿論固い黒パンだ。
 どうして、とマティを見上げると、つるりとした丸い顔いっぱいに悪戯っぽい笑みを浮かべている。その顔がぐにゃりと歪んだ。舌がしびれる。取り落としたパンが絨毯を転がった。
「なに、を……」
「ちょっとした余興でさあ」
 マティの声までがいくつにも反響して聞こえる。そのままセレンの視界は暗闇に落ちた。

***

 目が覚めると無造作に編まれた黒髪が視界に映っていた。部屋は薄暗い。頭が振り向き、セレンを見下ろした。
 顔を顰めながら身体を起こす。いつのまにか私室のソファに運び込まれていたようで、机の上には食えない奴が腰掛けていた。
「……何のつもりだ」
 何を考えているのかいまいち読み辛い微笑をたたえた顔で、スイがセレンと目線を合わせる。妙に身体が軽い、と自身を見下ろすと、何故か上半身を剥かれていた。怒りより先に呆れがきて、セレンはソファの背に倒れこんだ。
「どういうことか説明してもらおうか」
 スイの頭越しに見えた窓は、ぼんやりと明るかった。正確な時間はわからないが、もう夜明け近いのだろう。薬で無理矢理眠らされた所為か、久々に長く寝たというのに体力も気力も既に尽きかけている。それとも、というよりきっとこちらが主な原因なのだろうが、昨夜マティに一服盛られたのがスイの差し金だったとわかったからだろうか。
 イオ付きの小間遣い、という職についているこの“蛇”は、今まで“Artos”で一度も見たことがなかった。もっとも“蛇”全てを、二足歩行も足無しも含めて把握しているのはスネイクその人以外にいない。だからセレンがスイを知らなかったとしてもそれはそれで受け入れることができた。
 スイはいつもの笑みのまま、机の上で足の裏を合わせた胡座の状態で座っている。
「まあ簡単に言っちゃルチルからの誕生日プレゼントなんだけどね、それは」
 不意にスイが手を伸ばし、セレンの髪を一房すくった。まるでイリスの髪色のような、淡いふわふわとした茶に染まった髪。気力というのは振り絞る物だから液体なのだろうか、だとしたら今のセレンのはすっかり干上がっているのだろう、と妙な喩えが頭に浮かぶ。
「前の染料は時間がなくてさ、俺が前に使ってたのだったんだけどありゃ駄目だったね。あんな赤くなるなんて思わなくてさー。いや悪かった」
「……いいから続けろ」
「まあアレだよ。城内の奴らはもう慣れっこになっちまってっから気にもしてないけどさ、国外じゃお前の格好は噂が噂を呼んでて、もー皆気になって仕方ない訳よ。そこでお前がフードを取っても大丈夫なようにこうして仮装、いや失礼変装のお手伝いをしてやろうって訳」
 素、だと思うが、2人だけの時のスイは普段が嘘のように饒舌だ。この雰囲気、顔でルチルと同い年というのだから驚きだ。童顔にも程がある。
「マティにも協力してもらって、ああでも頭染めんのは俺1人でやったんだぜ? お前あいつに顔見せたことねーだろ。いや大変だったなー、お前すっかりぐにゃんぐにゃんで何度床に頭落としたか……ってのは嘘だけどな。どこも痛くないだろ?」
 誰も頼んでないだろう、とかわざわざ一服盛る必要性がどこにある、とか言いたいことは山のようにあったが、そのどれもが口をつくことはなかった。言っても無駄だということが経験上よくわかっているからだ。
 いくら今まで一度も見たことがないとはいえ、スイは紛れもなく“Artos”の一員。セレンの為だなんだとは言ってるが、所詮は自分が面白いからやったに過ぎないのだろう。ルチルもマティも同じだ。
 提案がルチルで計画・実行はスイ、協力者マティという図で大方合っているのだろう。いや、これだけ綺麗に染まる染料があり即効性の眠り薬があったということは、スネイクかカーフあたりが一枚噛んでいるのかもしれない。
 誕生日プレゼントというくらいだ、彼らが絡んでいたとしても今更驚くことはないだろうと、セレンは深いため息をついた。そんなセレンにお構いなしに、スイが懐に手を突っ込む。
「まあ毛を染めるだけじゃつまらない、もといその一番目立つ眼がどうしようもないからこんなものを用意してみた」
 そう言ってスイが取り出したのは、顔の上半分を覆う型の仮面だった。ご丁寧に目の部分は糸のように細く、切れこみが入るだけとなっている。
「そっちのがフードよりもよっぽど怪しいだろうが」
 呆れ果てて思わず口をついて出た言葉に、スイがにやりと笑った。
「ところがこれで充分なんだな。お前自分がなんて言われてるか知ってんだろ」
 からかうような、というより実際からかっている口調に些かむっとしながらもセレンは頷いた。
「爺とか日替わりとか女とかだろ」
「惜しいな。今のところは女ってので城内の意見は一致してる。ま、普段のお前見てたらわからなくもないけど」
 引っ掛かるところはあるが、それが何故“仮面だけで充分”ということに繋がるのかがわからない。
 セレンは黙ったまま先を促した。
「イローネのさ、ソーレっているだろ。あいつお前に気があんだって」
 言葉は耳を通ったが、その先の器官が理解を拒否した。突然の妙な発言に言葉を失うセレンを他所に、スイが淡々と続ける。
「第1分隊のディアとー第2のギベオンとヤロアだろ、第7のセインドもだし後はラリマールもだったっけ。そうそうラベイもだったな。まだまだいっぱいいるけど」
 全部お前を女だと信じてる奴な、と言われた言葉に気が遠くなる。
「声変わりしたくらいで安心してんなって。そりゃイオ様は聞き慣れてるからすぐ気付いたろうけど、聞き慣れない奴は風邪でも引いてんのかな程度にしか思わねーよ」
 折角ついてきた自信を粉々に打ち砕かれ、セレンは言い返す気も起きない。勿論兵士や給仕の名は一通り覚えているが、その中でも割りと良く言葉を交わし、気が利くなと良い印象を持っていた連中を並べられただけに衝撃は大きかった。それにその中にあのラベイが入っていたとは。
「最近じゃお前が男か女かで兵士と給仕が喧嘩までしてんだってよ」
 ちなみに給仕はお前が男派な、と付け足すように言われたが、親しい連中に誤解されていたという衝撃が大き過ぎて慰めにもならない。
 そんなに自分の振舞いが女っぽかったのだろうか。丁寧にといつも心掛けていて、実際そうしていたが、作法も男のものに倣っていたし、服だってちゃんと男物だ。断じて女に見えるようなことはしていない、と思う。
「そこで、だ」
 現実から離れようとしていたセレンの意識は、やや大きくなったスイの声で目の前のことに向けられた。スイが顔の横でひらひらと仮面を振っている。
「せめて顔の半分でも出れば、あいつらもいい加減お前の性別はっきりわかるだろ」
 言葉と共に仮面を放られ、反射的にそれを受け取る。それにしたって怪しいのには変わりないし、第一ソーレには顔を見られた上で女と断じられたのだ。
 思い出すことでまたぶり返す屈辱感を振り払い、セレンはスイを見上げる。
「そうは言うけどな、今だって顔の半分見せてんだぞ。こんなもんでそう簡単に諦めるかよ」
 突き返そうとした仮面は、しかしそのままセレンの顔に押し付けられた。意外と視界は悪くない。
「なにすんだ、離れろ」
「いーからいーから。なかなか似合ってんじゃん。髪ちゃんとして服着れば大丈夫だって」
 何が大丈夫なんだ、とスイの腕を振り払い、セレンは髪をかきあげた。
「仮面してれば普通の服着れんだろ。お前のぺったんこな身体見りゃ一発でわかるって」
 笑い顔がどうにも信用ならないが、普段は長くゆったりとしたフードマントやローブを纏っている所為で身体の線が見えないことは確かだ。見えないからこそのあの格好だったのだが。
 いまだに自分が半裸なことに気付き、セレンは立ち上がった。一瞬視界が暗くなり、ぼんやりと霞む。薬の所為だろう。効果がこんなに後味が悪いということは、スネイクは噛んでいないらしい。彼の薬は夢もない眠りに引きずり込まれる。けれど代わりに後に尾を引かない。スイのことは気にせずに寝室に入り、セレンは服を着替えた。脱がされたという服はどこへやられたのだろう。少し気になったが後で探せばいいと思い直し、真っ白の軽く風通しの良いローブに腕を通す。振り向きざまに足音を殺して近付いてきたスイに肘鉄を食らわせた。
「危ないなーもう」
 口で言いつつあっさりと避けるスイにため息をつき、セレンはその横をすり抜けようとした。しかし試みは腕をつかまれることで遮られる。じろりと睨み上げるといつもの読めない笑みが返ってきた。

***

「セレン様、警備の交代についてなのですが」
「セレン様、晩餐の品なのですが材料の到着が遅れてしまったようで仕込みが間に合いそうにないそうで」
「ああセレン様、ポピーを見ませんでしたか? グリーの姫君の御衣装を窺いたいと、エイロピアス様が」
 10も歩く間を置かずに呼び止められ、目的の場所へ行くこともままならない。周りの空気に触発されて動転が伝染している兵士や給仕1人ひとりに答えて気を落ち着かせてやっていると、目的その人の方からやってきた。
「陛下、襟元がよれております。それにその髪はどうにもならないのですか」
「いちいち煩いんだよお前は。自分はいいよな、精々口の周りに食いカスがついてないか気にするだけでいいんだから」
 一斉に畏まり道を空けた人々の中を通って、イオが不満げに頭をかき回した。只でさえ癖毛なのに、余計に髪が乱れるということもわからないのだろうか。
 イオの愚痴を軽く聞き流し、セレンはイオが一番嫌な顔をするであろう話題を口にした。
「今夜のダンスのことですが、初めにどなたをお誘いになるかもうお決めでしょうね」
 案の定顔を歪ませたイオに、セレンはたたみ掛けた。
「もう充分姫君達と接する機会はあったでしょうに。我が国の立場としては、今後の為にもウィンリードのラシャ様にお誘いをかけていだたきたいものですが、勿論陛下のお気に召した姫君を一番にお誘いになるのが宜しいかと。それに応じてお誘いの順番も変わりますので」
 国同士の関係もあり、ダンスの相手ひとつ、話し掛ける順番ひとつとっても背後の関係を考慮しなければならない。ヘリオットは今回集まった国々の中では一番に相当する外交的地位を持っているので、所謂ご機嫌取りはさほど気にする必要はないが、セレンとしてはさっき言ったように、今回の来賓の中でマルーンと一番近しいウィンリードと交流を持ちたかった。来たのが皇子であったならイオは進んで自分から近寄っただろうが、彼にとっては生憎なことに第4皇女のラシャが来ている。
「勿論わかっておられるとは思いますが、王子達とは別の意味合いでもって陛下の為にいらしたのです。恥をかかせるような真似だけはなさりませぬよう」
 イオがますます嫌そうな顔をする。人には言えるが、セレンだって自分がもし良く知りもしない相手と踊らなければならない、なんてことになったら全力で拒否するだろう。何を好んで同年代の女と密着しなければならないのだ。
 一瞬明るい緑が浮かんだが、セレンはすぐにその像を振り払った。丁度良くイオがセレンに話を振る。
「そういうお前はどうなんだよ。誰と踊るかもう決めたのか?」
 そう言ってイオがあげた名前はすべて王子のものだった。セレンはにっこりという形容詞が一番似合う笑みを浮かべ、「そうですね、ああいった華やかな場所は苦手なのですが、もし叶うのであれば陛下と踊りとうございます」と言った。
 周りにいた兵士や給仕達が一斉に表情を変える。中でも一番おしゃべりな給仕が、横の者に「ほらやっぱり」と耳打ちするのが聞こえた。イオの顔はこれ以上歪めるのだろうか、と見れば、予想に反して「そりゃいいや」と明るい顔でセレンの肩に腕を回した。
「よし決めた、最初はお前と踊る」
 セレンの無言を呆れ果てて物も言えない状態と取ったのか、悪戯をまんまと成功させた子供のような表情でセレンの肩を二度三度と叩く。
「今更冗談とか言うなよ、本当はアンバーと踊りたかった、なんて聞かないからな」
「最初が肝心ですからね、私と踊った後は外交のことなど気にせずに好みの姫君をお誘いになってください」
 にこやかに言い放ったセレンの視線は、廊下の端に立って兵士と無駄口を叩いているように見えるスイに注がれていた。一瞬スイの目がこちらに向く。
 ここが城でなければ、この金髪とあの黒毛を泥だらけにしてやるのに、とセレンは暴力的な衝動を必死で堪えた。



'09/01/01


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