a certain afternoon.
部屋の隅、セレンは汗だくになっているイオをじっと眺めていた。耳に聞こえてくるのは弦楽器の優雅な音と、一定の間隔で取られるリズム。突如音楽が止み、もう何度目になるかもわからぬため息が聞こえた。
「陛下。後生ですから他国の姫君に対して足を踏むなどという暴挙はなさらないでくださいね」
「わかってるよ」
反論しながらもイオの声に張りはない。自分が悪いことをわかっているからだろう。イオの相手をしていた銀髪の老婦人がまたため息をついた。
イオの誕生日まで1ヶ月を切った。今年は例年より多くの客人が訪れることになっている。三夜にわたって行われる誕生祭は、国同士の親睦を深める為という名目でダンスパーティの形を取ることになっていた。
ダンスの指導をしている老婦人、リリーはイオの教育係を受け持っている。幼少の彼は当然遊びまわってばかりだったのだが、今回は逃げる訳にもいかない。朝夜厳しいダンスレッスンを受けて、イオは日に日に生気を失っていっていた。
「幼い頃からきちんと学んでいれば、今このように苦労なさることもなかったのです。テーブルマナーを覚えていただくのにも随分掛かりましたが、今回は2年3年も掛けることはできないのですよ」
「わーかってるってば。本当にごめんって」
その様子を、セレンの横に立っているスイがくすくすと笑いながら眺めている。セレンはイオがダンスの練習に集中できるようにと、彼の仕事を肩代わりしてやっていたのだが、息抜きにとイオの様子を覗きに来ていたのだ。イオは本当に必死だったのだろう、汗を拭って息をついた今、ようやくセレンがいるのに気がついた。
「何しにきたんだよ」
「いえ、練習は進んでおられるかと思いまして」
隠したつもりだったが、思いのほか声に笑いが混じってしまった。イオがあからさまに不機嫌な表情になり、セレンを睨んだ。
「さあ陛下、折角セレナイト様が陛下の分までお仕事をなさってくださっているのですから、そのお気持ちを無下になさらないでくださいまし」
けれどすぐにリリーに身体を引き戻され、しぶしぶとダンスの練習に戻る。スイがとうとう顔を背けてくつくつと笑い出した。
今まさに音楽が始まろうとした瞬間、イオが「そうだ」と急に生き生きした表情になった。
「リリー、確かに俺も練習しなきゃいけないけどさ、セレンだってパーティに出るんだからダンスの練習しなきゃいけなくない?」
これぞ名案とばかりに輝かしい笑顔でリリーを見下ろしたイオは、氷よりも冷たいだろう「陛下」と言う声で瞬く間に色あせた。
「他人の心配をなさる余裕が陛下におありですか。そのようなことを考える程の余裕があるのであれば、夕食まで休憩は必要ないようですね」
「ちょっとリリー、そりゃないよ」
どうにも強気の態度に出れないイオを見て、リリーは彼の母親のような存在なのかと妙に納得する。セレンにとってはタータがそれにあたるが、彼女に面と向かって逆らうなど余程のことでない限り、誰にもできないだろう。
「ほら、リリーも疲れてるだろうし、少しくらい休憩した方がいいって。俺その間にひとりで練習してるからさ」
嘘臭さが前面に押し出されているが、セレンはリリーがため息をつきながらも微笑んだのが見えた。
「ではお茶を持ってきましょう。きちんと練習できているかどうか、しっかり見させていただきます」
手厳しい言葉に、イオがあからさまに落胆した表情になる。リリーはセレンに一礼し、横を通りぬけて足音も無く滑るように部屋を出て行った。扉が閉まった途端、イオはがっくりと肩を落とし近くの椅子に腰掛けた。
「随分とてこずっておられるようですね」
「っとに何しにきたんだよ、笑いに来たなら帰れ」
憤然たる表情のイオに歩み寄り、セレンは隠すことも無く笑った。
「仕事も一段落着いてしまって、時間が余ってしまったのです」
「だったら寝るとか飯食うとかあんだろ。つか珍しいな、お前がこんな真昼間にうろつくなんて」
ああでも、とイオが窓を振り仰ぐ。窓の外では白く大きな雲が、太陽をすっかり覆い隠していた。
「割と涼しいもんな」
「兵士達の訓練もはかどっているようでしたよ」
ここへ来る前、書類の関係で寄ってきた兵宿舎の様子を思い浮かべてセレンは言った。いつもは上半身をあらわにした男共がうろうろしているのだが、今日はちゃんと服を着ていた。
そういえば、とふと思い、セレンはイオに言った。
「アンバー殿は練習なさらないのですか」
「あいつは姉ちゃん達にみっちり仕込まれてるからな」
可哀想に、と付け足すイオに、ブルト家内の勢力図が目に浮かぶようだった。
「つーか本当にお前いい訳?言っとくけど踊らないなんてのはなしだからな」
じろりと見上げるイオに、セレンはついつい吹き出してしまった。どうやら厳しい訓練の仲間を増やしたくて堪らないらしい。
「私と踊りたい方が果たしておられるかというのが今のところ問題ですね。誘う方も誘われる方も戸惑われてしまうでしょうに」
セレンが、自分は男とも女とも見られているということを冗談にしていると気付いたのだろう。イオも尖らしていた口を緩めて笑った。
***
襟をくつろげ、夕暮れの中庭でセレンは息をつく。アンバーに用があって兵宿舎へ赴いたのだが、彼は不在だった。仕方なくラベイに伝言を頼み、今は城へと続く庭をひとり歩いていた。
陽が落ちれば、比較的湿度の低いヘリオットの気候では暑さも気にならない。もっとも夏はこれからが本番だろうから、まだまだ油断は出来ないが。
すれ違う兵士や官達と挨拶を交わしつつ自室に戻る途中、妙に不審な動きをしている金髪を見つける。後ろからこっそり近付き、「陛下」と声を掛ければ、何とも形容しがたい音をあげてイオが飛びあがった。
「驚かすなよ」
「これは失礼いたしました。ダンスの練習はもう終わったのですか」
この様子を見る限り、抜け出してきたと見るのが正しいだろう。案の定イオは「終わらせたんだ」と口を尖らせた。
「後に回すとご自分が困る羽目になるといつも申しておりましょう」
「うっせーなー、大体なんだよお前、ちゃっかりさっき逃げやがって。お前が代わりに踊れば全部丸く収まるだろ」
ぐちぐちと垂れ流される文句は聞き流し、立ち話もなんだと並んで歩く。どうせ小腹の足しになるようなものを取りに行く途中だったのだろう。
「あーもー、去年まではよかったなー、誕生日なんて兵宿舎で馬鹿騒ぎで済んでたもんな」
馬鹿騒ぎ。その言葉にはたと歩みを止めた。大切なことを忘れている気がする。イオが足を止めたセレンに気づかないまま、数歩進んで言った。
「そういやお前も誕生日夏って言ってたよな。いつ?」
サアっと血の気が引いた。茶色のふわふわとした髪、嬉しそうに笑った緑の目。「絶対だよ」と上から降ってきた声。
「セレン?」
訝しんだイオが立ち止まってセレンを振り向いた。
「今日は何日でしたでしょうか」
「7月の、16だっけ。何かあったのか」
「ええ、少し約束がありまして。すみませんが先に失礼させていただきます」
今から地下を走れば今日の日付には間に合うだろう。ああそうだ、イリスへのプレゼントもまだ用意していないではないか。
心は既に廊下になく、イオの存在もすっかり頭から吹き飛んでいて、セレンは灯りのともされはじめた廊下を駆けた。
'08/11/30
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