My home is nowhere but there.
ルピが手紙を持ってきた。手紙、と言うより書き付けに近い。見慣れた字で書かれた“セレン 会いたい”と言う言葉は、イリスからのものだった。
どうかしている、とセレンは塀を越えてため息をつく。月もない夜に、クローゼットの奥から引っ張り出した“Artos”時代のフードマントは闇にすっかり紛れていた。
そもそもこの城の警備はどうなっているんだと、暗闇にぼんやりと浮かぶ影を見上げてセレンは呆れる。強化するようアンバーに言っておかねば。
どうかしている、もう一度頭の中で呟き、セレンは手近の地下道へ降りた。
しんとした暗闇にしばらくじっとしていると、段々に目が慣れてくる。徐々に蘇ってくるあの感覚。“Artos”の中でも、この道を把握しているのは“蛇”の連中だけだった。
懐かしさに胸が一杯になりながら、セレンは足を進めた。
あれほど悩んでいたのに、無視し続けていたのに、イリスの文字を見た途端に帰りたいという衝動が抑え切れなくなった。
ルピが紙切れを持ってきたのが昨日、あの衝撃的に屈辱的なソーレとの別れの翌日だった。紙切れを残しすぐに消えてしまったルピを気にする余裕もなく、まずセレンが思ったのは、迅速に片付けなければならない仕事のリストと、それを最短どれほどで済ませることができるかの計算だった。
“Artos”への道を歩きながら、こんな夜更けでイリスはまだ起きているだろうかと不安になる。あの連中は総じて宴会好きで、1週間のうち5日は何かと理由をつけてお祭り騒ぎをしているのだが、イリスは飯屋居酒屋としての“Artos”寄りだった為に、どちらかと言えば朝型だった。
“Artos”に一番近い出口を上がり、“Artos”の裏側へ回る。目の前の通用口を見て、セレンは深呼吸をした。ここを入れば裏庭で、すぐ近くにイリスの部屋がある。ここまで来たのに、あと一歩を踏み出すことができない。
入ってもいいのだろうか、そう考えて怖くなる。いつまでも仲間面をしているのはセレンだけで、元々認知度の低かった自分はすでに記憶から消えてしまっているのではないか。
ポケットに突っ込んでいた書き付けを握り締め、それでもセレンは意を決した。そもそも自分は折角服を作ってもらったのに、直接礼も言っていない。とんでもないことに、彼女の誕生日まで忘れ去っていた。
そうだ、誕生日。自分は何もプレゼントを用意しなかった。そう思った矢先、裏庭に人がいるのに気付いた。やばい、と慌てふためくセレンの耳に入ったのは、自分の名を呼ぶ声だった。
「セレン」
はたと動きを止め、中の様子を窺う。間違いなく今のはイリスの声だった。しかし今の言い方は、呼ぶと言うよりも呟くと言う表現の方がしっくりくる。
気付いた時には手が扉に掛かっていた。
キィ、と軽い音を立てて扉が開く。建物の中から漏れる光に、茶色のふわふわとした髪がきらきらと輝き、寝巻き姿のイリスがセレンの方を振り向いた。
「せ、れん?」
「……久し振り」
髪が少し伸びて、大人っぽくなった。覚えていたより少し小さいように感じたが、それはセレンの身長が伸びた所為だろう。元々大きな目が零れんばかりに見開かれ、イリスが口を覆う。居心地の悪さを感じながらも、セレンは中に入って扉を閉じた。たった5mほどの距離が、途方もなく遠く感じる。
イリスが一歩、セレンに近付いた。
「ほんとにセレン?」
まるで親と繋いでいた手が離れてしまったような子供の顔で、イリスが震える声で言った。早鐘のように鳴り響く心臓が痛い。緊張と恐怖。その間で、セレンはなんでもない風を装ってイリスに歩み寄った。近付くごとに、イリスの姿が頼りなく小さいのを実感する。手を伸ばせば触れられる位置まで近付き、セレンはフードを下ろした。イリスが息を飲む。
「なんで、どうして、どうして?」
見たものに頭がついていかない、そんな様子で左右を見渡していたイリスは、最終的にしゃがみ込んでしまった。身じろぎしたセレンの裾を、イリスの手が掴む。
「ほんとのほんとにセレン? ねぇ、本当に? どうしてここにいるの?」
俯いたままのイリスの前に、セレンは同じようにしゃがみ込んだ。顔を上げようとしないイリスの前に、セレンは書き付けを見せる。
「ルピがさ、これ持ってきたんだ。イリスの字だろ」
一瞬にしてセレンの手から紙が奪い取られた。唖然とするセレンの前で、イリスが震えながら呟く。
「違うの別にあのうにょうにょ今度見たらただじゃ置かないんだからただ聞いただけでやってみようかなって思っただけで、だって全然帰って来ないしカーフも教えてくれないし、ああもう違うの」
「ご、ごめん」
勢いに圧されて謝ると、イリスが暗闇の中でもそれとわかる真っ赤な顔で言った。
「違うの、本当に!ただのおまじないなんだから、ルピが勝手に持ってっちゃっただけなの!」
再度謝り、内心セレンはがっかりした。自分に宛てた手紙ではなかったらしい。けれど、おまじない、という言葉が引っ掛かった。
「わかったから、そのおまじないって何?」
「教えない」
即答され、黙ったセレンにイリスがごめんと呟く。気まずい沈黙が流れた後、セレンは空気を変えようと口を開いた。
「あのさ、服、ありがとう」
「……いいよ、勝手に作ったんだもん。信じられない、このぼろぼろの服のまんまお城に出ようとしてたなんて」
空気を変えたいのはイリスも同じだったのか、掴んだままのセレンのフードマントを引っ張った。
「ねぇ、大きさ大丈夫だった? 少し大きめに作ったんだけど」
「今じゃぴったりだ」
「……背、伸びたよね。きっとすぐに小さくなっちゃう。また新しいの作るね」
普通の会話をお互いにしたがっているのはわかるのだが、どうにも視線が噛み合わない。真夜中の庭の真ん中で2人してしゃがみこんでいるというのはとても間抜けな光景だろう、とセレンはぼんやり考えた。
前はもっとおっとりとした喋り方をしていた。少し会わない間に随分変わったな、と感じ、寂しさに似たものを感じる。
「そんなに忙しいの? お城の仕事って」
唐突に問われ、言葉に詰まった。気付いてか気付かずか、イリスが続ける。
「全然帰ってこないよね。皆寂しがってるよ」
「……ごめん」
忙しい。それは本当だ。時間が取れない。それも本当。けれど事実自分はここにいるのだから、そのくらいの暇や時間はいくらでも作れるのだ。いつもいつも、くだらないことを恐れて逃げていただけで。
「元気なのは知ってるからいいけどね、会えないと寂しいよ。今まで一緒だったもん」
ぽつりぽつりと呟くように言うイリスを見ることができない。申し訳ない気持ちがじわじわと全身に広がっていった。
「最後に会ったの年末だよ? その後は会えなかったし、それからずっと来てないし。私の誕生日だって」
イリスが言葉を切る。俯いているセレンからはイリスがどんな顔をしているのかわからない。急にイリスが立ちあがった。
「もうすぐセレンの誕生日だよね。その時は絶対帰ってきて。じゃないと許さないから」
上げようとした頭を押さえつけられ、危うく舌を噛みそうになる。「絶対だよ。約束だよ」そう念を押すように繰り返すイリスに、セレンは「約束する」と返した。
「約束する。絶対に帰ってくる」
イリスが頭の上で微笑むのがわかった。
「ちゃんと私に会うんだよ。じゃないと帰ってきたって認めない」
「わかった」
昔からセレンの行動を知っているからこその言葉だ。セレンは決して約束を破らない。けれど守らない。前の時、イリスに「明日には戻る」と言った時も、“Artos”ではなく術師の家、蛇小屋に戻った。
「その時には、新しい服をプレゼントするね」
「じゃ、その時に俺もイリスに誕生日プレゼント渡す」
「いいよ」
いらない、と言うイリスに顔を上げかけたが、再び強く頭を押された。
「セレンが帰ってきてくれるだけで充分だから」
胸が詰まる。もう一度「絶対帰ってくる」と言うと、イリスがようやく頭から手を離した。微笑む顔を見上げ、セレンの口にも笑みが浮かぶ。
「そろそろお城に戻った方がいいよ。あんまり寝てないんでしょ?」
イリスの言葉に立ちあがり、見上げてくる頭を撫でる。
「行ってくる」
セレンが言うと、イリスは一瞬の間を空けてから嬉しそうに微笑んだ。
「いってらっしゃい」
単純だと自分に呆れる。けれど、来る前よりも身体が軽くなっている自分に気付いた。思えば最初のあの時から、セレンに帰る場所ができたのだ。
いってらっしゃい。おかえり。そのやり取りが、今はたまらなく愛おしかった。
'08/10/15
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