MOON WHITE AND OCEAN BLUE.3


 目が覚めたのは、まだ外の暗いうちだった。隣りの部屋で人の動く気配がする。慎重に音を立てぬよう動いているようだが、それでもセレンが目を覚ますのには充分だった。
 イオ、だろう。窓の外はまだ濃い藍色だ。開けたままの窓から、時々風がカーテンを揺らめかす。物を落としたような音がして、イオが息を呑んで固まる気配がした。こんな朝早く、夜明け前に、彼は一体何をしているのか。セレンは右足を庇いながら音を立てずに扉へ寄り、細く開けた。丁度隣の扉も開き、イオが出てくる。こっちを見た。目が合う。思わずセレンが扉を閉めると、少し空いてか忍ぶような笑い声が聞こえた。
「起きてんだろ。こっち来いよ」
 黙ったまま、扉を開けて部屋を出る。イオがまだ笑い顔で燭台を掲げた。眩しい。俯くとフードが光を遮ってくれた。その前に見えた反射して輝く金髪も、かなり目に痛かった。
「早起きなのな。昨日の残りならあるけど、食う?」
「まだいい」
 イオが「そっか」と答えて、テーブルに着くと残っていたパンを手に取った。セレンはどうしたものかと迷ったが、結局またイオの向かいに腰を下ろした。イオはすっかり身支度を整えている。こんな時間に何処へ行くのか。することもなくただフード越しに見つめるセレンなどお構いなしに、イオが水差しから直接水を飲んだ。時計は5時の少し前を指している。
「いつもこんな時間に起きてるのか」
「んー、いっつもって訳じゃないけど。今日出掛けるしな」
 何処に、と問いかけそうになったがそこは我慢した。イオが手についたパン屑を払う。
「昼頃には戻ってくっから。おとなしくしてろよ、お前怪我してんだから。あ、誰か来ても隠れとけよ」
 ぐ、とイオが伸びをする。
「……そだ。シャワー、あっちにあるから浴びたかったら勝手に入っとけよ。っつってもそんなんじゃ浴びれないか」
 あっち、と言われたのはイオの寝室。部屋にシャワールームがついているのだろう。贅沢な身分だ。流石王族といったところか。だが、体を洗えるというのは大きな魅力だった。今も全身がべたついていて気持ちが悪かい。例え洗えずとも、せめて体を拭くことくらいはできるだろう。
「じゃ、部屋から出るなよ」
 言って、イオは上着のフードをすっぽりと被って部屋の外と出ていった。見張りの者がいるだろうに、あんな素人の忍び足で抜け出せるほど警備が甘いのだろうか。そもそもセレンを城内に運び込んだ時点で周囲にばれていないということが驚きなのだが。それとも無能の馬鹿様、だからなのだろうか。
 完全にイオの気配が去ってから、セレンは大きく息をついた。どうもあいつがいると神経をつかう。害意も何も感じられないからこそ、緩みそうになる自分を戒めるために。セレンは水をゴブレットに注いで乾いた口の中を湿らした。テーブルを見回し、昨夜から置かれていた本に目を留める。
 なんの本だろう。セレンは一冊に手を伸ばし引き寄せた。かなり厚く、重い。表紙背表紙は薄く掠れていて読めなかった。適当に頁を開けば、細かい文字で余白を惜しむかのように長い文章が頁いっぱいに書かれていた。斜め読みをしてみたが、どうやら歴史書であるらしく、今の三権体制についての説明が事細かに書いてあった。
 どうせこんなの今は意味がないのにと、セレンは2代目国王が少し哀れに思えた。独裁を防ぐための政治体制なのに、それが逆に独裁を招いているなんて。まさかこんな風に利用されるとは、考えてもみなかったのだろう。
【……を唯一絶対のものとはするが,“ディアノイア”“ケイル”は国王を諌め正しい方向へと導く義務を負う。これらは即位の前に次国王が候補を選出し、即位と同時に各職へ就くものとする。また、任期中にいずれかがなんらかの事情により執行が不可能な状況に陥った時は、次の候補を“円卓”より選出するものとし、……】
【……“ディアノイア”及び“ケイル”候補は、当時の王の承認があって初めて職に就くものとする。……】
【……三権が同時に国を空けることは許されず、……“ケイル”は王の剣となり盾となり、国を守る戦士達の先頭に立つことを……】
【……また“ディアノイア”は王を除き“――――”に関する権利を有する唯一ものとし……】
 眉を顰める。ここだけ、まるで何かに擦られでもしたかのように滲み掠れていた。どうせ政治に関することだろうと、セレンは深く考えずに目を進めた。“ディアノイア”が持つのは政治に関する権利だから。
 頁をめくって流し読む。ある頁では初代国王にまつわる伝説が延々と述べられていたり、また別の頁では2代目国王がどれだけ聡明であったかを事細やかに説明していた。8代目の“ディアノイア”の一番の功績は、山一つ越えた隣国であるレグホーンとの不可侵条約を結んだことであるだとか、12代目“ケイル”がいかに勇敢であったかなども載っていた。
 今は確か17代目だったか、と記憶を呼び起こす。長い歴史だ。つい数代前まではちゃんと三権が機能していたのに。
 本を閉じ、目を閉じる。ため息をついて立ちあがった。短針はもう6時をまわっている。かなり分厚い本だったから、流し読みとはいえ時間がかかってしまったのだろう。耳を澄ませば窓の外から兵士の訓練をする掛け声らしきものが聞こえてきた。セレンは窓辺に寄り、そっと外を覗いた。
 日の昇り始めた街は、ところどころの煙突から煙がのぼって徐々に活気付いてきている。“Artos”はあっちの方だろうが、ここから見ることはできない。
 スネイクはもう起きただろうか。そもそも寝たのだろうか。セレンは彼が寝たところを見たことがない。いつも先に寝てしまうのはセレンだったし、朝早く起きたとしてもいつも彼は目覚めていた。セレンはカーフやディアナと、彼は眠らないのではないかと交替で見張ったりしたものだった。
 ふ、と息をつく。何か食べようかと振り向いた矢先、セレンは足音に気付いた。早い大股の足音。近付いている。セレンは素早く寝室へ滑り込み、ベッドの後ろへ身を隠した。誰なのかは知らないが、イオではない。見つからないに越したことはなかった。
 扉を叩く音がし、少し空いて「アイオライト様、いらっしゃいますか」と若い声がした。セレンは一層身を縮こませ、気配を隠す。声は中には入らず、そのまま足音は去っていった。
 ゆっくりと力を抜き、握り締めていたナイフから手を外す。イオがいないのはしょっちゅうなのだろう。普通は中に入って調べそうなものなのに、一体どういう生活をしているのか。
 そっと扉を開いて、セレンはパンをいくつかと水差しだけを取ってまた寝室へと戻った。また何時人が来るかはわからない。またノックだけで諦めるとは限らない。シャワーは諦めようと、セレンはベッドに腰掛けパンを大きく噛み千切った。
 と、なると。少し固くなったパンをゆっくりと噛みながら、セレンは窓に目をやった。
 これからイオが帰ってくるまで、何もすることがない。昼頃戻ると言っていたから,6時間程待つことになる。早くルピが戻ればいいのに。
 水差しから直に水を飲み、口元を拭ってベッドに倒れこんだ。
 暇、か。右手をかざし、巻かれた布を眺める。ヒマ。“何もしない”、なんて、久しぶりだ。それは、何もしないと落ち着かない自分の所為でもあるのだけれど。
 きゅ、と手を握り、そのまま目の上に腕を下ろした。閉じた瞼にかかる重みが心地よい。
 こんなの、久しぶりだ。とても静かな空間。それは、スネイクの部屋と良く似ていた。賑やか、というよりも、やかましい“Artos”。それはそれで楽しかったが、やっぱりセレンはあの静かな空間が好きだった。少し離れたところから聞こえてくる木々のざわめき。それを、薬を作るスネイクを眺めながら部屋の隅に座って聞くのが常だった。時折じゃれついてくるマダムの頭をかいてやりながら。最後にそれをしたのは何時だったか。そもそも“Artos”にすらまともに顔を出せなかった。
 ゆっくりと体を横向きにし、手足を縮める。
 あの時は早く戻りたい一心で急いでいたけど、結果的には良かったのかもしれない。もし怪我をしたまま真っ直ぐ“Artos”に帰っていたら、説教とからかいと過保護なまでの世話を受けることは必至だったろう。あんな簡単な仕事でしくじったなんて、格好の話のタネだ。どちらにせよルピが余計なことまで喋っているのだろうが、この上屋根から落ちて城で手当てを受けてる、なんてバレたらしばらくは外にすら出してもらえないかもしれない。
 と、なると迎えにきてもらうなんてことはできないな。自力で動けるようになるまで我慢するか。足さえ治ればなんとかなる。
 そう自己完結すると、セレンは身体の力を抜いて再び眠ることにした。





'07/7/7 11/04 修正


NEXT→