MOON WHITE AND OCEAN BLUE.4





 眠る、とはいっても完全に寝入る訳にはいかず、結局セレンはイオが帰ってくるまでまどろみ続けていた。
「よー、寝てんのかー?」
 そう言いながらイオがひょこりと顔の覗かせた時は、だから気配に気付いて身支度を済ませた後だった。に、と笑うイオにセレンは無言を返し、誘われるままに寝室から出る。テーブルには新しいパンと果物、それに水差しが載せられていて、さっきの本は片付けられたのか見当たらなかった。
 セレンは部屋に置いたままの水差しを思い出したが、さっさと座ってしまったイオを見て後で良いかと腰を下ろした。服こそ着替えていたがイオの頭は埃っぽく、輝きが薄れていた。顔も少し汚れている。
「どした?」
 じっと眺めるセレンの視線に、イオが小首を傾げた。
「シャワー、あんなら浴びてこいよ」
「あー。あ、つーかお前浴びてねーだろ。やっぱ1人じゃ無理っぽい?」
「……いつ人が来るかわかんねーのに、入れる訳ねーだろ」
「誰か来たのか?」
 イオが何気ない様子で言ったが、その一瞬前に蒼が鋭く光ったのをセレンは見逃さなかった。少し黙りこむ。正直に言うべきか、とぼけるべきか。感づいている、ということを匂わせた方がいいのか。一瞬迷った挙句、セレンは答えた。
「1回、ノックしてた。中入んねーでそのまま行っちまったけど」
「……そっか」
 心なしかほっとしたような表情でイオが言い、それからぱっと切り替わったように笑った。
「どうする? 先入る?」
「……は?」
「あ、それとも洗ってやろーか。まだ動くと痛いんだろ?」
「……さっさと入ってこい」
 からかわれてる。そう思い怒鳴りつけたセレンをイオは気にする様子もなしに、「怒んなよ」と笑って立ち上がった。
「じゃ、お先に。先食っててもいーからな」
 イオの後姿を見送った後、セレンは苛立ちにまかせて拳を机に叩きつけた。同時に全身に痛みが走ったが無視した。からかわれたということよりも、感情のままに返した自分に腹が立った
 らしくない。自分らしくもない。浮かんだ言葉をそのまま口にしているようなイオと話していると、何故か調子が狂う。巻きこまれる。自分のペースが保てない。苛立つ。余計に苛立つのが、それでも自分はイオの言葉に反応してしまうということ。確かに調べようとは思った。でもそれはあくまで自分が主導権を握らねばならない。なのに一々振りまわされてどうする。
 気に入らない。イオも、自分も。
 目に付いた水差しから直接水を飲む。氷入りの水は冷たく甘く、熱くなったセレンの頭を冷やしてくれた。静かに水差しを置き、揺れる氷を眺める。一旦落ち着くと、取り乱した自分が恥ずかしくて仕方が無かった。
 何故だろう。何故ペースを巻きこまれてしまうのだろう。感情的になってはいけない。常に冷静でなければいけない。常に冷静でいることが出来たからこその周りの評価なのに。“蛇の目”である自分が、あんな子供に。
 しばらくそのまま氷を見つめため息をひとつついて立ちあがると、セレンは足音を立てないようにしてイオの部屋の前に立った。右にあるセレンの寝室よりも少し凝った扉。ゆっくりとドアノブを回し、開ける。寝室だと思っていたそこにベッドは無く、代わりに背の高い本棚と木の机が置いてあった。やはり絨毯は赤く、壁は白い。セレンのいた部屋より小奇麗に感じた。
 するりと中へ入り、音を立てぬよう扉を閉める。左に2つ扉があった。今度こそ寝室と、おそらく浴室だろう。微かに水音が聞こえる。机の上に置かれた見覚えのある本を見て、セレンは近付きその表紙を撫でた。さっき読んだ分厚い本。
「……?」
 本の下に挟まれた、折りたたまれた紙切れ。慎重につまんで引き出し広げる。地図のようだ。向きを変えようと持ち替えた時、中にあった紙切れがはらりと落ちた。拾い、裏返すと何かが書いてある。走り書きのようで、インクは伸び掠れ、読みにくい。だが何かの名前のようだった。
 地図に目を落とす。所々赤く線の引かれたそれは、どうやら城前広場周辺の地図。線の引かれているのは料理屋、食事処のある場所だった。もう一度紙に目をやる。1番上のはわからないが、2番目のはどうやら【ヘビ】と書いてあるようだ。その下には裏路地の名前が書き連ねてあり、いくつかは取り消し線が引かれていた。
 蛇。何故蛇なのだろう。紙を見直し、1番上に何が書かれているのか読み取ろうとした時、セレンは水音の止まっているのに気付いた。慌てて紙を元に戻し、本の下に挟む。本棚の前に立ったところで、扉が開いてイオが出てきた。
 濡れた髪は元の輝きを取り戻し、癖のあった髪も今は真っ直ぐ、先から水滴を垂らしている。肩に真っ白のタオルを掛けたイオは部屋にいるセレンを見て一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐにへらりと笑った。
「どした?」
「意外だな。本読むのか」
「んー。あるだけでほとんど読まね。セレン字ぃ読めるのか」
「まあな」
 髪を拭きながらイオがセレンの横に立った。1歩離れ、セレンは本棚を見上げる。分厚く大きな本がぎっしりと詰まっていた。赤、青、緑の背表紙は、けれどどれもくすんだ色をしている。知っている題名もあれば、聞いたことすらないものもあった。その中にいくつかスネイクの部屋で見掛けたのもあった。
「読みたかったら勝手に取ってっていーぜ。俺は読まないし」
 言い、イオがセレンを見る。
「シャワーそこな。青い方が水、赤いのがお湯。タオルは棚に入ってる」
 言いながらイオが扉を指し、セレンはおとなしく従った。


***


 熱い湯が傷口にしみ顔を顰める。ほとんどは屋根から落ちた時に出来た擦り傷だが、背中の切り傷はまだかさぶたが出来あがっていなかったらしく、触ると血がついた。右足首は赤紫に変色していたが、折れてはいない。1、2週間もすれば支障はなくなるだろう。濡れて顔身体に張りつく髪をかきあげ、セレンは曇る鏡を乱暴に拭った。
 深く濃い赤の瞳が、真っ直ぐに見返してくる。銀色がかった白く長い髪が細く小さな体に纏わりついている。体のところどころについた赤茶けたかさぶたの下に、白く薄く盛りあがった傷跡がそこら中に走っていた。
 赤い目。白い髪。これが、フードを被る理由だった。
 確かに赤味を帯びた目の持ち主ならいるだろう。だが、ここまではっきりと濃い赤、加えて生まれつきの白い髪は、嫌でも人目をひいた。この所為で幾度嫌な思いをしてきたことか。スネイクに会うまで、この目もこの髪も、嫌悪の対象でしかなかった。
 きゅ、と蛇口を閉めて髪を絞る。イオはこの白い髪を見た筈だ。歳に合わぬ白い髪を。何も言われないのはありがたかったが、逆に気持ち悪かった。
 タオルに手を伸ばし、脱衣所に出る。さっきまで着ていた服はなく、新しい服が置かれていた。棚に積まれたタオルの間に手を突っ込むと、さっき隠したままの状態でナイフが手に触れた。
「出たのか? こっち来いよ、薬塗るから」
 音で気付いたのだろう、イオが言うのが聞こえる。身体を拭いているとタオルに背中の血がついてしまった。セレンはとりあえず下だけ身につけるともう一度髪を絞り、着替えとナイフを持って脱衣所を出た。
 イオは椅子に座り、救急箱らしきものを漁っていた。扉を閉める音で彼が振り向く。真っ直ぐ目が合った。
「…へぇ。髪、それ銀色? 灰色だと思ってた。綺麗だな」
 へらりとした笑みのどこにも、嫌悪感は見られなかった。ほっとしている自分に驚く。恐怖嫌悪の視線は嫌と言うほど浴びてきたが、何故かイオにはそんな目をして欲しくなかった。馬鹿らしい。そんなことを考える自分が馬鹿らしい。だが、事実そうだった。
 セレンは髪を拭きながらイオに近付いた。イオが椅子を空ける。
「座れよ。で、後ろ向いて。うわ、また血ぃ出てんじゃん」
「五月蝿ぇよ」
 おとなしく椅子に座り背を向ける。もう警戒しようという気はなかった。
「……タオル、汚れちまった」
「あ? いーよ別に。それより痛かったら言えよ」
「ああ」
 汚れたタオルを奪われ、それで背中を拭かれる。傷口に引っかかり痛みが走ったが、我慢した。冷やりとする布切れが傷口を撫でる。消毒液だろう。染みるが、優しい手付きのお蔭でそこまでというほどではなかった。
「……慣れてるのか」
 傷口を痛めない慣れた手つきを意外に思い尋ねると、「まーな」と軽い返事が返ってきた。
「遊んでるといつのまにか怪我しちゃってんだよな。で、慣れた」
「自分でやるのか」
「おう。その方が早いし」
「……そうか」
 ガーゼをあてがわれ、布で固定される。セレンは作業の邪魔にならぬよう髪を前に垂らした。丁寧にきっちりと、けれどきつくはなく布が巻かれていく。
「…よっしお仕舞い」
 言うと同時にイオが背中を叩いた。傷口だけならず、その振動で全身に痛みが走り息がつまる。前屈みになったセレンを見て、イオが慌てて前に回った。
「ごめん大丈夫か」
「てめ、考えろ馬鹿」
 涙目で言うと、イオが悪いと笑って「じゃー次足な」と湿布を出した。まだ涙の滲む視界で、セレンは足元にしゃがんでいるイオの頭を見下ろす。金髪はまだ少し湿っているようだったが、元のように好き勝手に跳ねていた。
「……なあ」
「んー?」
 ぽつりと呼び掛けると、イオの生返事が返ってきた。
「なんで、俺を拾ったんだ」
 イオが立ちあがり、布と湿布を片付ける。目を落とすと、やはり丁寧に右足が固定されていた。
「だからさ、人が倒れてたら普通手当てするって」
「血まみれで、明らかに危険だったとしてもか」
「別に危険じゃなかったけどなー。でもほっとくよりずっとましだろ」
 振り向いたイオの目の前に、ナイフを突きつける。動きが止まった。
「こんなことされるかも・って、思わなかったのか?」
 イオの表情は変わらない。ただじっと、ナイフではなくせレンを真っ直ぐに見つめている。ふと、イオが笑った。
「だって、本気じゃないだろ」
 視線が絡み合う。深い、蒼の瞳。しばらくそうした後、セレンは身体の力を抜き、椅子に座りこんだ。
 負けた。敵わない。それがわかると、どうしようもない笑いが込み上げてきた。
「お前、変」
 突然笑い出してそう言ったセレンを、イオが呆気に取られた顔で見ている。
「道に落ちてる奴に言われたくねぇよ」
「変だよ、お前。すっげぇ変」
 何故だか、笑いが止まらなかった。





'07/07/16 11/04 修正


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