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A Dew.29
something was approaching.
一晩ぐっすりと眠ったお蔭か、翌朝はすっきりと目覚めることができた。まだ喉の痛みはあるが、頭痛も熱っぽさもない。ちょうど兵士達の朝稽古が始まる頃だと、セレンは散歩がてら兵舎へ行くことにした。
着く前から妙に活気があるとは思っていたが、中庭へまわった時に謎が解けた。朝は身体慣らしの素振りの後にいくつか班に分かれて勝ち抜き戦をやっているのだが、今日は班がひとつ多い。
ソーレがヘリオットの兵士に混じって朝稽古をしていた。円の中央にいるところを見ると、どうやら勝ち抜いているらしい。呆れて物も言えずに稽古を眺めていると、セレンに気付いた兵士が「おはようございます」と振り向いた。それにつられてか野次喝采を飛ばしていた連中も一斉にセレンを振り向き挨拶をする。円の中にいたアンバーとソーレも動きを止めた。
「おはようございます。朝から精が出ますね」
言いながら近付いていくと、ソーレが汗を拭って爽やかに微笑んだ。苦手なタイプだと確信する。
「おはようございます、セレナイト様」
まさか城に来ているとは思わなかったが、これで一番嫌な手を使う必要がなくなった。昨日の事について話したかったが、最悪の場合アンバーに伝言を頼まねばならなかったからだ。
後はどうやったら2人きりになれるかだ。
笑みを浮かべたままセレンはソーレに近付く。
「今朝はどうしてこちらに?」
「すみません。どうにも身体を動かさないと落ち着かないので、アンバー……殿に連れて来ていただいたのです」
アンバーがそっぽを向いて鼻を鳴らした。
「姉貴共に絡まれんのが嫌だったんだろ」
違う、と慌てる様子を見ると図星だったらしい。アンバーには2人の姉と妹が1人いた筈だ。3人とも母方似で美しいと聞くが、アンバーが姉妹の話が出た時に良い顔をしたのは見たことがない。
「昨日だってげっそりしてたじゃねーか」
「そっちこそ、自分がからかわれないからって安心してたんじゃないのか」
言い争いを始めた2人を周りの兵士達が笑っている。珍しく口が良く動くアンバーがおかしくて、セレンも笑った。我に返ったかのようにソーレがセレンを振り向く。陽の下で見ると、アンバーよりもソーレの髪の方が僅かに茶色がかっているのがわかった。
「そうだ、セレナイト様はどうしてこちらに? アンバー殿にご用事でしたか?」
「いえ、目が早く覚めたものですから。散歩でもしようかと思いまして」
正直に答えると、アンバーがどうだかとでも言うようにセレンを一瞥し、それから兵士達に「いつまで遊んでんだ」と怒鳴った。
「さっさと馬の手入れに行け、朝飯抜きにされたいのか」
笑いながら散っていく兵士を見送り、アンバーがソーレを振り向いた。
「どうせならうちの奴らに馬乗りの手本見せてやれよ。それとも帰って姉貴共と遊ぶか」
「本当にお前可愛げなくなったな。図体どころか態度まででかくなりやがって」
先に歩き始めたアンバーの後ろにそう文句を言い、続こうとしたソーレを呼び止める。
「騎馬兵においては右に出る者がないと称されるイローネの馬術、是非拝見したいものです」
セレンが言うと、ソーレは照れたような嬉しそうな表情を浮かべた。
「どうぞ見にいらしてください。イローネの名に恥をかかせるような真似はいたしませんよ」
謙遜しない、ということは相当の自信があるのだろう。「楽しみにしています」と伝え、セレンはアンバーに駆け寄っていくソーレを見送った。
***
セレンは馬に乗ったことがない。一度だけカーフに誘われたことはあったが、セレンはどうやら馬に嫌われる性質であったらしく、好物だと言う人参をやろうとしただけで危うく蹴り殺されそうになった。カーフがしっかりと手綱を握っていたにも関わらずだ。以来馬に近付いたことはない。
朝義の後、アンバーについて馬場へやってきたセレンは、鞍を着けられ並べられている馬を見て顔が引き攣った。
「お前馬乗ったことあんのか?」
「ない。街にはほとんど馬はねぇし、大抵が荷車を引かせる用だったからな」
嘘ではないが本当でもない理由を述べれば、アンバーは然程の興味を示す様子もなく軽く相槌を打っただけだった。
突然馬場の一角でどよめきがあがり、セレンは顔をそちらへ向けた。
高さの違う柵が適当に並べられている場所で、ソーレが馬を駆っていた。ソーレの合図に合わせて、馬が軽々と柵を飛び越えている。突然ソーレが馬の向きを変え、馬場の柵に向けて駆け出した。ぶつかる。ひやりとした瞬間、馬は馬場の柵を飛び越えた。一瞬の後、兵士達から歓声があがった。
「相変わらずすげーな」
呟かれた言葉に振り向くと、アンバーが顎でソーレを指した。ソーレは馬に乗ったまま、馬場の入り口へと戻ってきていた。
「喧嘩じゃ俺のが勝ってっけど、馬だけは1回も勝ったことねーんだ」
悔しそうに言うアンバーを見上げていると、ソーレがセレン達の傍にまで来て馬を降りた。セレンはアンバーの方へ一歩退く。馬が鼻を鳴らしてセレンを見下ろしていた。睨まれているような気がする。
「来てくださったんですね」
どこか嬉しげなソーレに、セレンは笑みを向けた。
「お見事でした。ご自分の馬でもないのに、よくあそこまで操れますね」
「ちゃんとわかってやれば、こっちの言うことも聞いてくれるんですよ。馬にも心がありますから」
ソーレが鼻面を撫でると、馬は気持ち良さそうに手に鼻を押し付けた。そのままソーレの肩に首筋を擦りつける。首を撫でてやりながら、ソーレがセレンを振り向いた。
「セレナイト様、馬に乗ったことはおありですか」
「ねーよ。ちょうどいい、お前乗せてやれよ」
セレンが答える前にアンバーが言った。驚き見上げるセレンに、アンバーがこともなげに言う。
「乗ったことねーんだろ。こいつに教えて貰えよ」
「私は……」
断ろうとするセレンの腕を掴み、アンバーが馬の前に突き出した。
大きい。セレンは唾を飲んだ。汗の浮かぶ首、地面をかく蹄、ガラス玉のような目。恐怖で固まるセレンを前に、ソーレがアンバーを見る。
「おい無理強いは」
「ほらよ」
ソーレの言葉の途中でアンバーがセレンを持ち上げた。
「馬鹿何して、セレナイト様、そこに足乗せて、そうそう、落ち着いて掴まって」
言われるままに鐙に足をかけ、馬に跨る。掴まると言われても、一体何処を掴めというのか。
頭が真っ白になりかけたセレンの手を取り、ソーレが手綱を握らせる。馬が不服だとでも言うように頭を振った。
「大丈夫、力を抜いて……怖がらないでください、馬はとても敏感だから」
ソーレが馬の首を優しく叩きながら言っているのが聞こえたが、セレンは不安定なその場所から落ちないようにするので精一杯だ。笑いを堪えようともしないアンバーを睨む余裕など何処にもない。
「大丈夫大丈夫、どうどう……おかしいな、さっきまでは珍しいくらい気性が穏やかだったんですが」
首を傾げるソーレの言葉でセレンの恐怖が倍増する。脳裏に前足を高く上げた馬の姿がよみがえった。
少し歩いてみますか、とソーレがセレンを見上げたのと、妙に甲高い不快な音がしたのはほぼ同時だった。途端、馬場中の馬が一斉に頭を上げて落ち着きをなくす。一瞬の後、セレンが乗っていた馬が突如いななき暴れ出した。
棒立ちになった馬の首に慌ててしがみつく。ソーレとアンバーが馬の脚を避けて退いた。セレン、とアンバーが怒鳴る声が後ろに流れて行く。馬はその場から逃げるように走り出していた。
セレンが乗っていた馬だけではない。他にも何頭かの馬が暴れ出しているようで、兵士達が右往左往している。フードが飛ばないように頭を下げ、セレンはますます強く馬にしがみついた。こんな状態で振り落とされたらそのまま蹴り殺されてしまいかねない。
「うろたえんな、他の馬ァ連れて外にでろ!」
アンバーが指示を怒鳴りつける声が聞こえる。セレンの乗っていた馬が立ち止まり、その場でセレンを振り落とすかのように暴れ出した。何人かの兵士が馬を止めようと寄ってきたが、馬の勢いに気圧されて近付くことができないようだった。
「腹から足離すんだ、身体起こして手綱引け!」
駆け寄ってきたアンバーの言葉を実行できたらどんなにいいか。今のセレンには馬から落ちないようにするので限界だ。
と、目の端で何か赤いものが動いた。次の瞬間セレンの身体はソーレの腕の中にあり、馬から下ろされていた。
ソーレがセレンを下がらせて、尚も暴れる馬の手綱を引く。その途端に馬は大人しくなり、やがて完全に停止した。アンバーが駆け寄ってきてセレンに手を伸ばす。
「大丈夫か」
馬から離され、血相を変えたアンバーに尋ねられたが、声が出てこなかった。頷いて馬を振り返れば、ソーレが馬の首を優しく撫でてやっているところだった。
近くの兵士に手綱を預け、ソーレがセレンに近付く。
「お怪我はありませんか。本当に申し訳がございません」
「悪ぃ、本っ当に悪ぃ」
口々に謝られ、セレンは深呼吸をしてから無理矢理微笑んだ。
「いえ、ソーレ殿がおられなければ、私は今ごろ振り落とされ、馬に踏み潰されていたかもしれません。本当にありがとうございました」
「そんなこと、傍にいたのにあんなことになってしまって」
責任を取るとでも言いかねない表情に、セレンは重ねて言う。
「馬が暴れたのはソーレ殿の所為ではないでしょう。きっとあの音が原因です」
「音?」
セレンの肩を掴んだままだったアンバーが眉をひそめた。
「馬が暴れる前、妙な音が聞こえたでしょう?」
セレンの言葉に、2人が顔を見合わせた。
「聞いてねぇな。どんなんだった」
2人の反応に戸惑いながら、セレンはあの音を思い返しつつ言った。
「甲高くて不安になるような長い音で……そう、まるで笛のような」
セレンの肩を離し、アンバーが顎に手をあてた。笛、と声を出さずに呟いたのが、口の形から見て取れた。
「それが何なのかはわかんねーけど、お前はもう城に戻れ。その笛ってのが原因だとしたら、お前が馬に乗った途端に鳴ったのもおかしいだろ」
「笛とは限りませんし、そもそも私がここへ来ると決めたのは今朝ですよ」
いや、とソーレが口を挟んだ。
「万が一ということも有り得ます。俺……自分が城までお送りします」
「そんな大袈裟な、ご心配要りません」
断ろうとするセレンの言葉を遮るように、アンバーが頷いて言った。
「馬が何頭か逃げたらしいし、俺はそっち見なきゃなんねぇからな。頼んだ」
そしてソーレから手綱を受け取り、アンバーは馬を引いて馬宿舎へ向かって行った。あとにはセレンとソーレが残される。行きましょう、と促すソーレに頷き、セレンは馬場を出た。
「本当にお怪我はないのですね。良かった」
「もう気になさらないでください。私がちゃんと馬を扱えていれば、あのような事にはならなかったのですから」
道すがら、ソーレが再度申し訳なさそうな表情で言ってくるのに、そうセレンは返した。セレンの方が背が低い為歩幅も狭く、ソーレはセレンに合わせて歩いてくれている。
大きいな。
横を歩くソーレを見上げ、セレンは自分の足元に目を落とした。
背は伸びている。イリスが縫ってくれたというこの服は、初めのうちは少し大きめだったのが、今では丁度良いサイズになっている。けれど、セレンが成長期のうちはもっとも身近なイオやアンバーも成長期ということで、その実感が全くと言って良い程沸いてこなかった。おまけにアンバーの成長率は勢いが良過ぎる。
同年代の兵士達とすれ違うたびに、セレンは悔しさを感じていた。
「あの、セレナイト様」
「セレン、で構いません。長いでしょう」
人もないことですし、と笑いながら返してやり、セレンは馬場へ来たそもそもの目的を思い出した。奇しくも今は2人きりだ。どうにかして城につく前にそちらへ話しを持っていかねば。
「では、セレン様。その、昨日のことなんですが……」
計らずも向こうから話題を振ってきた。昨日の自分の行動にまた羞恥心が蘇り、セレンはきつく口を結んだ。彼の目線からは、セレンの顔は口元さえもフードに隠れていることだろう。悔しいことに。
「……俺、や、自分は、誰にも言いません」
「……と、仰いますと?」
意外、でもなかったが、セレンはソーレの言葉を促した。ソーレは言葉を選んでいる風だったが、続ける。
「あの、イローネはそんなことないし、だからと言って勿論ヘリオットのことを遅れているだとかで貶す訳でもないのはわかって欲しいんですけど、セレン様が隠したいのならそれはセレン様の自由だと思います」
セレンは無言で続きを待つ。確かにイローネは、王位を女性が継いだり、異国の者でも能力があれば高く買うという、他国と比べても珍しい革新的な特徴を持っている。王族近衛兵が皆鷹を模した仮面を着けているというのも特徴のひとつだ。セレンの風体も、イローネであったならばそれほど目立たないのかもしれない。それが何故、頭の固かったヘリオットと長く付き合いを続けているのかは不思議だったが、そんなのは過去の為政者の都合による物なのだろう。
城が近付いてくる。ソーレはまっすぐ前を見ているようだ。
「とても勿体無い気はしますけどね」
城の前、扉の前で立ち止まってセレンはソーレと向き合った。穏やかな笑みを浮かべているソーレは、確かに頼りたくなるような雰囲気を持っている。
「兵士達の態度を見て、よくわかりました。セレン様であれば、例え男でなくとも皆喜んであなたに従うでしょうに」
「……はい?」
何かがおかしい。こめかみを嫌な汗が伝った。爽やかな笑みを浮かべ、ソーレが一礼した。
「為政の立場にあるからといって、女性を棄てることはありません。あれほどの美しさを隠すのは勿体無いですよ」
自分はアンバー殿を手伝ってきます、と言い残して去るソーレの後に、セレンは呆然と残された。
二度も言わなかったか?彼は。男でない、女性、と。
既に小さくなったソーレの後姿に、セレンは叫び出したい衝動に駆られた。
'08/10/01
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