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 どうにも喉の調子がおかしい。朝からセレンは苛ついていた。もっとも原因ははっきりしている。昨夜風呂に入って、碌に髪を乾かさずに寝た所為だ。日頃の不摂生も祟ったのか風邪を引いたらしい。
 頭痛も熱もないのが救いだったが、声を出そうとすると喉がひりひりする為に、喋るのが億劫だった。
「早くこねーかなー」
 イオの執務室、書類に調印させる為に机の前でセレンが待っていると、イオがぽつりともらした。
「ソーレ殿のことですか」
「おう。昔は来るたんびに遊んでもらったんだ。前はほら、俺かなり自由だったからアンバーん家にも遊びに行ってたし」
 ソーレはアンバーより3つ4つ年上で、イローネの騎士だと聞いている。ヘリオットで言えば分隊長の地位らしい。セレンは直接見たことはない。
 イオが頬杖をついてぼんやりと遠くを見た。
「すっげー格好いいんだ、ソーレ。会いたいな」
「昼頃には到着し、陛下に挨拶されるそうです。その後はアンバー殿とブルト邸に下がられ、1週間滞在されます」
 今日、アンバーは昼から暇を貰っている。ソーレが滞在している間、夜間はブルト邸に戻ることになっていた。今は国境近くへソーレを迎えに行っている。
 イオが何を考えているかわかり、セレンは先に釘を刺した。
「おわかりとは思いますが、陛下にご挨拶された後、ソーレ殿はブルト家の客人として滞在されます。くれぐれも勝手な行動は慎みください」
 どうせソーレの滞在中に城を抜け出し、遊びに行こうとでも考えているのだろう。スイにイオから目を離さぬよう再度言っておかねばと、セレンは今水差しを取り替えに行っているイオ付きの小間遣いを思い浮かべた。
 イオの部屋を後にし、セレンは書類を抱えたまま兵舎に向かった。今朝のうちに提出するように言った書類を回収しなければいけない。
 中庭へ出て兵舎へと行く間、真上から燦燦と、どころか既にじりじりと太陽が照り付けてくる。中は薄着にしているとはいえ、こうも直接照り付けられるとじとりと肌が湿るようだった。
 活気溢れる兵舎に入れば、丁度昼食の時間らしく、練習を切り上げた汗臭い兵士達の集団がどやどやと通り過ぎるところだった。セレンに気付いた者が挨拶をしてくる。それに会釈を返しつつ、セレンはアンバーの執務室へ向かった。
 窓が開け放されたままの部屋は、ほとんど使われていないというのがよくわかる。積み上げられた紙の山から目的のものを引っ張り出し、ついでにセレンでも処理できる書類を探す。紙の束を抱え直し、セレンが扉を振り向いた時ラベイが中に入ってきた。
「こんにちは」
 セレンが挨拶すればラベイは微妙な表情で挨拶を返した。手には紙の束がある。セレンの視線に気付いてか、ラベイが紙を軽く振った。
「これもどうやら今日提出しなければならないもののようですよ」
 最近アンバーが出してくる書類の中に、妙に綺麗な字、文のものが紛れている筈だ。礼を言い、セレンが紙を受け取ろうとすると、ラベイが「よければお手伝いいたしましょうか」と言ってきた。
「そんなに抱えていては、扉も開け辛いでしょう」
 ありがたい申し出を、セレンは喜んで受けた。ラベイがセレンの腕から書類を半分ほど取り、扉を開ける。並んで歩きながら、セレンはラベイを見上げた。
「本当にありがたい。けれど貴方がたはこれから昼食なのでは」
「あの人数が一度に食堂に入ると、この時期は暑苦しくていけない。私は後でゆっくりいただきますよ」
 最近ラベイのセレンに対する態度はかなり柔らかくなっていた。初めて広間で顔を合わせた時とは格段に違う。勿論セレンにとっては嬉しいことだった。
「ところで…、いつもと声が違うようですが、風邪でも召されましたか」
「ええ、恥ずかしいことに。身体を動かす機会がない所為か、近頃どんどん不健康になっている気がしますよ」
 中庭を抜け、城に入ったところでセレンはラベイから書類を受け取った。
「もう大丈夫です。ありがとう」
「くれぐれもお身体に気をつけてください。貴方1人の身体ではないのですから」
 気をつけます、と苦笑しながら答え、セレンが場を後にしようとしたその時、廊下の反対側から兵士が1人走ってくるのが見えた。
「セレナイト様、こんなところに。もう直にアンバー様とソーレ様がご到着なされます」
 息せき切って報告してきた兵士に了解の意を告げ、セレンはラベイに一礼して足早に執務室へ向かった。

***

 広間につくと、イオが「遅い」と口を尖らせた。セレンは何も言い返さず、走った為に出てくる咳を堪える。肌どころか服まで湿ってきているようだ。本格的に体調が悪くなってきている。
 ルピに薬を取りに行かせよう、と考えた時、広間の扉が開いた。アンバーと、その後に続いて若者が歩いてくる。
 アンバーより少し背が高く、逞しい体付きの精悍な青年。赤い髪はブルト家の血を思わせた。王座の前まで歩いてきた2人が同時に片膝をつき、頭を下げる。アンバーがまず顔を上げ、口上を述べた。継いでソーレが顔を上げる。
「お久しぶりです、アイオライト国王陛下」
 声は体格に劣らぬほど朗々と広間に響いた。イオが、イローネ国王からの伝言の終わるのを今か今かと待っているのが傍目に見てもよく分かった。
 ソーレに目を移し、セレンはなるほどと1人頷いた。
 赤い短髪に日に良く焼けた肌、オレンジ味の強い金の両眼は強い意志を感じさせ、同時に人を安心させる色も持っている。鼻筋は良く通り、顔全体も整っている。確かにソーレは格好良かった。
「久し振り、ソーレ。元気そうで何よりだ」
 伝言が終わった途端、はしゃぐようにイオが言った。
「すぐにアンバーん家に行くのか?少しくらい話せるだろ」
「陛下」
 あまりにも幼過ぎる言葉遣いに、セレンは牽制の意を込めて言った。
「ソーレ殿は長旅でお疲れでしょう。あまりご無理を言っては」
 セレンの言葉を遮り、ソーレが「お気になさらず」と笑みを向けた。
「お気遣い感謝いたします。けれど心配はご無用です。頑丈なのが取り柄なものですから」
 底抜けに明るい、まるでイオのような笑みを向けられては、セレンは何も言うことができなかった。
 イオの部屋まで歩きながら、イオがソーレに話し掛ける。その後ろをセレンとアンバーはついて歩いていた。
「3年振りだっけ。またでっかくなったんじゃねーの」
「そっちこそ、あのチビ助が王様だなんて一体何があったんだか」
 周りに人気はなく、ソーレも小声な為に懐かしそうに言った。アンバーも珍しく自分から会話に加わっている。仕方ないと言えばそうなのだが、セレンは居心地の悪さを感じていた。それに今度は頭痛がしてきている。早く部屋に戻って、せめてじっとしていたかった。
 楽しげに話す3人を、遠くから給仕達が眺めている。熱い視線はソーレに向けられていた。
 セレンの部屋への分岐点にさしかかり、本気で失礼しようかと考えた矢先に急にソーレがセレンを振り向いた。
「すみません、私達だけで話してしまって」
「いいえ、お気持ちはわかりますから」
 微笑で答えると、ソーレは困ったような笑みを浮かべた。セレンはイオを向き、「私はこれで失礼いたします」と言った。
「私はまだ仕事が残っておりますし……積もる話もございましょう。邪魔をしては悪いですし」
 セレンの気持ちを汲んだのか、イオはやや残念そうな表情を浮かべたが、「じゃ、後でな」と軽く手を上げ、ソーレを促した。アンバーはとうに先を歩いている。
 尚も気遣わしげにセレンを見遣るソーレを、セレンは笑顔で見送った。
 3人の姿が廊下の角に消えるまで見送り、セレンは小さく息をつく。嘘はついていない。実際先ほどアンバーの机から持ってきた書類は、急いで机に放り出してきた為ばらばらになっているだろう。トリカは昼食の前にきたから大丈夫だとは思うが、見つかったらまた叱られてしまう。
 ゆっくりと階段を昇りながら、セレンはアンバーを思い浮かべた。子供らしい、年相応の表情を浮かべていた先ほどのアンバーは新鮮な感じがした。思えば最後にまともな会話をしたのは、彼がセレンの部屋に怒鳴り込みに来た時だ。
 そこまで思い、セレンはうんざりとした気分になった。ロベルは相変わらずまともにセレンを見ようとしないし、話し掛ける隙もくれない。どうにかして誤解を晴らしてやりたかったが、セレンにとって今まで扱ったことがない事例だけにどうすればいいのかわからなかった。
 こんなことに比べたらどこぞの屋敷に忍び込んで情報を集めたりする方がどんなに楽か。頭痛がするような気がし、セレンはため息をついた。
 部屋につき、案の定散らばっていた紙を集めて窓を閉める。一応机に向かったものの、文字が頭に入ってこず、視界も霞んできた。
 仕方ない。
 セレンは机を離れ、私室に入ってソファに倒れ込んだ。
 少しだけ。ほんの仮眠だ。自分に言い聞かせたセレンが眠りの沼にどっぷりと浸かるまで、そう時間は必要なかった。

***

 がた、と何かがぶつかる音で目が覚めた。ぼんやりとした視界へ直にオレンジ色が射し込み、セレンは目を細める。それから人の気配に気付いて飛び起きた。オレンジの正体は窓から射し込む夕陽だ。それからその夕陽の当たらぬ場所にある人影がやけにクリアに見えていることに気付き、セレンは血の気が引くのを感じた。フードが外れている。人影がじりと一歩退がった。手遅れとはわかっていたが、セレンはフードを掴んで目深まで引き摺り下ろした。自分に対する怒りで泣きそうだった。
 ほんの仮眠のつもりだったのに、長い夏の日が暮れるまで眠りこけたこと、人の気配にも気付かず熟睡していたこと、それも鍵を掛けるのを忘れるなんて。
「あ…すみません、俺」
 聞こえた声はソーレのものだった。開け放された戸口に立ち尽くしたまま戸惑っている。
「俺、ただ挨拶しようと…さっき気ぃ遣わせてしまったみたいで…」
 すみませんと繰り返すソーレに、けれどセレンは何も言うことができなかった。自分に対する怒りに満ちていたのもひとつ、それにいくら挨拶をしたかったからとは言え、良く知りもしない相手の部屋へ勝手に入る神経が許せなかった。それも他国の政官の執務室にだ。中に入れる方もどうかしている。そもそもアンバー達はどうしたのか。
 そう思った矢先、別の気配が部屋に入ってくるのを感じた。ソーレが廊下の方を振り向く。
「何してんだ」
 アンバーが立ち尽くしているソーレの後ろに立ち、セレンを肩越しに見た。
「いくら旧知の仲とはいえ、執務室に他国の者を入れるとは一体どういうおつもりですか」
 怒りを押さえつつ静かに言ったセレンに、アンバーはばつの悪そうな表情になる。
「だってお前、仕事するっつってたから普通に中にいると思ったんだよ。つーかこいつもノックくらいしただろ」
 しただろう。決まっている。だからといって気付かなかったセレンが悪いのか。部屋の中を見渡していなかったら勝手に他の部屋まで覗き込んでいいことになるのか。
 唇が震える。思いきり怒鳴りつけたかったが、その前にソーレがアンバーの肩を押さえた。
「いや、俺が悪いんだ。本当に申し訳ありません」
 深く頭を下げるソーレに、セレンは何も言わない。気にするな、なんて言える余裕はなかった。
「大体ノックにも気付かないなんて、お前昼間っから寝てたのか」
 アンバーの無神経な言い方が、いつもは気にならないのに今はセレンに突き刺さるようだった。
 セレンは無言で立ちあがり、笑みを浮かべて2人を見た。
「どうにも昼夜の区別が曖昧になっておりまして。醜態を晒してしまい申し訳が御座いません」
 部屋が次第に薄暗さを増していた。2人の姿は殆ど影にしか見えない。
「もう日が暮れてしまいましたね。ソーレ殿はケイル殿の屋敷に滞在なさるとか。夜道くれぐれもお気をつけください」
 淡々と言うセレンの声に含まれた、早く出ていけという意志を感じたのか、2人は大人しく部屋を出て行った。
 廊下への扉が閉まるのが聞こえ、セレンは落ちるようにソファに座った。
 見られた。しかも自分の不注意で。見られたということよりも、人の気配に気付かなかったということの方が、セレンの自尊心を傷付けていた。
 今まで気付かないようにしてきた気持ちが、はっきりと表に出てきている。
 鈍くなる反射。六感。落ちている体力。
 もう“蛇”として役に立たない。
 ずっと目を背けていた、“Artos”に、スネイクの元に帰りたいという気持ち。勿論城で、イオの為にディアノイアとして過ごすことを不満に思っている訳でも拒絶する訳でもない。けれど、“Artos”を忘れていた訳ではなかった。忘れることなどできない。セレンの家は今でも“Artos”であり、スネイクの傍らだった。
 ホームシックだなんて、恥ずかしくて誰に相談することができようか。何度フォッシルの元へ、カイアナイトの元へ行こうと思ったか。けれどいつも羞恥心が邪魔をした。仕事に追われることで、ずっと目を背けていたのだ。
 前にカーフに言われたことを忘れた訳ではない。けれど、一度帰ったらもう城に戻ることができないような気がした。
 ため息をつき、靄がかったような視界を払う為に頭を振る。じわじわと奥の方が痛んだ。立ちあがり、セレンは呼吸を整え真っ暗な部屋を出た。
 執務室も同じように暗い。灯りを入れて、カーテンを閉める。遠慮がちなノックが聞こえた。
「どうぞ」
 短く答えると、食事を持ったロベルが扉を開けた。
「ご夕食お持ちしました」
 中に入ってこようとするロベルを手で制す。
「今日はいい」
 自分でも予想外の冷たい声が出て、セレンは笑みを付け加えた。
「すまない。食欲がないんだ」
 固まっていたロベルの身体が解れるのが傍目にもわかった。「スープだけでも」と言うロベルに首を振り、そのまま出て行かせる。ロベルの足音が遠くに消えるのを待ち、セレンは扉を開けた。警備兵の交替の時間にはまだ間があった。
「セインド。さっきソーレ殿が来た時、何故扉を開けた」
 警備兵が硬直し、しどろもどろに答える。
「初めアンバー様とご一緒にいらしたのですが、ルベイ殿がアンバー様をお呼びになられて、自分にソーレ様を中にお通しするようお言いつけになられて、それでソーレ様はノックをされたのですが、その、お返事がなく、自分が、セレナイト様はお部屋を出ていらっしゃらないと言うと、中へ…」
「そうか。では他の当番の者にも伝えろ。例え誰の言いつけと言われても、陛下御自らかアンバー殿以外の者は私の返事がない限り中へ通すなと」
 畏まった警備兵を確認し、部屋へ戻り掛けたセレンはふと思い出して言った。
「ルチルは兵舎にいるか」
 まだ何か叱られると思っていたのだろうか、警備兵が一瞬呆けた顔をして答えた。
「ルチル殿は昨日から休暇をとって実家の方へ帰っております。明日には戻るそうですが、何かご用でしたか」
「いや、いい。ありがとう」
 今度こそセレンは部屋に戻った。
 執務室を通り抜け、今度はしっかりと鍵を確認してからセレンは真っ直ぐシャワー室へ向かう。水しか出ないとは言え、頭をすっきりさせるのには充分だった。
 服を着ている最中、鏡に映った自分の姿を見て微妙な気持ちになる。だいぶ色が抜けたとはいえ、髪はまだ桃色がかっていた。
 機会を見つけて、またアンバーの自主練にちょっかいを出してやろう。初めは負け続けるに決まっていたが、何もしないよりはましだ。
 このまま“蛇”としての自分を失うのはごめんだと、セレンは強く拳を握った。



'08/09/15


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