レグホーンの使節を見送った後、セレンは執務室へ行く間もなくイオに彼の部屋へと拉致された。驚いた顔のスイの目の前を半ば引き摺られるようにして通り過ぎ、イオは私室へセレンを連れる。扉を閉じた途端、イオは何の前触れもなくセレンのフードを剥いだ。
「何だいきなり」
訳がわからないセレンを尻目に、イオがセレンの両肩に手をついたまま大きなため息と共に頭を落とした。しかしすぐに勢い良く顔を上げ、セレンの髪をむんずと掴んだ。
「お前な、本っ当に心臓に悪い。なんだったんだよあの顔、しかもこの髪、何考えてんだ」
怒鳴りつけられるように言われ、セレンは脱力した。イオは先日の爛れた顔が心配だったらしい。まさか本当に火傷をしたとでも思ったのだろうか。
イオの手を払いのけ、セレンは見せつけるように頭を押さえ大きなため息をついた。実際本当に頭痛がしてくるような感じがした。
「どうせ“くる”とは思ったんだよ。俺だって俺みたいのが接待してきたら何考えてんのか気になるし中を見たくなる。あれは化粧。髪は染めただけ。もう1週間もすれば色は落ちる」
「だからってな…」
どうやら本気で心配していたらしい。セレンは呆れてものが言えなかった。イオはまだぶつぶつと文句を言っている。一言教えてくれさえすれば、といった類のことだ。
「おまけに変な噂増えてるし、本当にお前俺より確実興味持たれてんだろ」
「変な噂?」
増えている、という言葉が気になり聞き返す。イオが意外そうな顔をし、言った。
「聞いてねーのか」
それから何かを思いついたような表情になり、口の両端を吊り上げる。その顔でセレンは、イオにどんな噂が流れているのかを教える気がないことを悟った。けれど表情だけでその内容が碌でもないことなのはわかる。頭痛が増したような気がした。
***
クーベの来訪から1週間と経たないうちに、今度はイローネからの来訪者がくることになっていた。とはいえ正式な外交ではない。来るのはアンバーのまた従兄弟、イローネの騎士ソーレという男だった。
表向きはただの親族訪問とのことだったし、実際2、3年に一度、ソーレはヘリオットを訪れている。しかしこの時期に来るというのは、やはり先のレグホーン来訪に対抗しているのだろう。
クーベ達が滞在している間にすっかり怠け癖がついたらしいイオの後始末に追われ、セレンは噂とやらを確かめる機会どころか食事の時間すらままならなかった。
4日振りにようやく落ち着いて時間通りに食事をすることができ、セレンは机に並べられたセレン用の昼食を幸せな気持ちで眺めた。冷たいスープに温かい紅茶、ジャムたっぷりのサンドイッチ。食事はエネルギー摂取の手段だが、仕事に追われながら妙な時間に無理矢理喉へ流し込むのと、こうしてゆったりとした気分でちゃんと昼食の時間に食べるのとではやはり違う。ありがとうと支度をしてくれたロベルを見上げると、ついと視線を逸らされた。気のせいではない。
「どうかしたのか」
尋ねると、ロベルは「何もございません」と目を逸らしたまま答えた。気になったが、ロベルはそのまま一礼して部屋を出て行ってしまった。
折角の幸せな気分がもやもやとしてしまったが、とりあえずセレンは目の前の食事に取り掛かることにした。どうせロベルは片付けをしにまた来るのだ。
そう思い、セレンがサンドイッチを頬張ろうとした途端にトリカが箒その他の掃除用具を持って部屋に入ってきた。
「あら珍しい、こんな時間にお食事ですか」
「普通はこの時間帯に昼食を取るんだ」
帰って別の時間にもう一度くるという考えはないらしく、トリカはずかずかと中に入ってくる。美味しそうですねとスープを覗きこむトリカに、セレンはため息をついた。
「ほらほら邪魔ですよ、食事ならちゃんとお部屋でとってくださいな。ここはお仕事をする場所でしょう」
勝手に食器の乗ったトレイをセレンの目の前から取り上げ、私室の方へ移動させるトリカの後におとなしくついて行く。どうせ文句を言っても無駄なのだ。少しは敬いの気持ちを持ってもらいたいものだと、セレンは恨みがましくオレンジの髪を睨みつけた。
ソファの前のテーブルにトレイを置き、トリカがぐるりと部屋を見渡す。元々物が少ないから乱雑という訳ではないが、部屋はなんとなく埃っぽかった。
「ちょっとセレン様、お掃除ご自分でなさるっていうからお仕事部屋だけで我慢してたのになんですかこの有様」
「後でする。そんなに使わないんだから毎日する必要もないだろう」
言い訳がましいのはわかっていたがセレンが言うと、トリカは「いーえ」とセレンを振り返った。
「使わないんなら尚更です。少し気を抜いたらすぐに埃が積もっちゃうんですよ。お忙しいのはわかりますけど、空気の入れ替えついでに2日に一回はお掃除してください」
口答えは許しません、とでも言うように腕を組むトリカは、何故かディアナよりもイリスに重なった。セレンには甘いイリスだったが、整理整頓に関してはタータの教育が効いたのか人一倍厳しかった。
努力する、と無難な答えをすれば、トリカは仕方ないとでも言うような表情で腕を解いた。
「今日中にですよ。陛下やアンバー様のところからお仕事盗ってこなかったら、そのくらいのお暇は充分にあるでしょうに」
言い方に棘があるように感じたが、どうやら許してくれたようで、トリカは「すぐに終わりますからね」と言い残して執務室へ戻っていった。
言葉通りスープを飲み終わる頃には掃除も終わり、トリカがひょっこり顔を出した。
「ちゃんとやってくださいよ。後で見に来ますからね」
「そうだトリカ」
言い残して立ち去ろうとするトリカを呼び止め、セレンは気になっていたことを聞いた。
「ロベルの様子がおかしかったんだが……何か知らないか」
一瞬きょとんとした表情だったトリカは、すぐに風船が割れたように笑い出した。
「すみません、ちょっとあの子、そうね、失恋しちゃいまして。そっとしておいてあげてください」
あっけらかんと言うトリカに、逆にセレンが気まずくなった。恋愛がらみになると、途端に女が気難しくなりいつも以上に理解不能になるのを身を持って知っている。“Artos”の女衆も、よく部屋の隅に集まりカーフや他の男共を指してはくすくす笑っていたものだった。幸いなことにセレンは対象にならなかったらしいが。
笑い過ぎて涙まで浮かべているトリカは、「あの子傷付きやすいんであんまり触れないであげてくださいね」と言い残して扉を閉じた。
気まずさと意外さに挟まれながら、セレンは黙々と食事を口に運んだ。
普通失恋したと言えば慰めるものではないのか。トリカのことだから当然慰めたのだろうが、人にそれを笑い話として話すとは思わなかった。
それとも笑い話にするのが普通なのだろうか。少なくとも男衆の間では慰めると称して宴会を開き、笑い話にして忘れようとする傾向があった。
なんとなくすっきりしない気持ちで、セレンは食器を片付けにきたロベルを立ち去るまで眺めた。相変わらず目を合わそうとしない。そそくさと立ち去るロベルを見送り、掃除でもするかと立ち上がりかけた矢先にまた訪問者があった。ノックもせずに部屋に入ってくるのはこの城に2人しかおらず、扉が壊れんばかりの勢いで開ける者といったら1人しかいない。
「何の用だ」
形だけでも問い掛けてやるセレンを無視し、アンバーは扉を叩きつけるようにして閉めた。そのままアンバーがセレンに詰め寄る。アンバーの肩越しに、勢いが良すぎた為に跳ね返るようにして扉が開くのが見えた。しかしすぐに怒りに満ちたアンバーの金の両眼に気圧された。
「聞いたか」
低く怒りに満ちた声表情に、セレンはいつもの軽口を叩くことができない。辛うじて「何をだ」と問い返すことができた。
「あいつらずっとにやにやするばっかりでまともに答えやしねぇ。ようやく聞き出したと思ったらこれだ。あの野郎面白がってあることないこと言いふらしやがった次見たらただじゃおかねぇあの馬鹿」
独り言、なのだろうが視線はずっとセレンを睨み下ろしている。じりじりとセレンは後ずさった。下手につついたら爆発しそうなアンバーには、できれば近付きたくない。けれど一歩下がる毎にアンバーは一歩詰め寄ってきた。こめかみを嫌な汗が伝う。腰が執務机にぶつかった。
“あいつら”はともかく、アンバーの言う“次見たらただじゃおかないあの野郎”がイオだろうという確信が、何故かセレンにはあった。
「っとにありえねぇ」
セレンにとっては倍も長く感じられた数秒の後、アンバーが大きなため息と共にふらりと横にずれて机に手をつき項垂れた。滅多に見れない頭頂部が見える。その状態のままアンバーがぼそぼそと言った。
「この前お前が兵舎に来た時あったろ。夜。あん時見てた奴が…」
一層アンバーの声が小さくなり、セレンは耳をアンバーに寄せた。
「……俺がお前にキスしたとかなんとか」
思わずセレンは声をあげていた。それに重ねるようにアンバーが続ける。
「しかも前々からそういう噂があったんだと。絶対煽ったのはあいつだ。絶対そうだ」
怒りに満ちているのに泣きそうな情けない表情を浮かべたアンバーは、きっと今後見ることはないだろう。
「どれもこれもお前がそんな男だか女だかわからん妙な格好してる所為だろうが」
急にアンバーが怒鳴り、セレンの肩が掴まれた。痛い程の力だ。言い返そうとしたが、先にアンバーが続けた。
「お前の所為で俺ぁ家帰ってもにやにや笑いされるし姉貴共にゃからかわれるし挙句開き直ったあいつらにまでからかわれてんだぞ」
肩を掴む手を振り払おうとしたが、セレンの力では敵わない。セレンはアンバーを睨み上げ怒鳴り返した。
「こっちこそ迷惑だ、誰がお前なんかと」
「そりゃ俺の台詞だろうが、なんで好き好んでお前みたいなガリチビと噂されなきゃなんねーんだよ」
大体なぁ、とアンバーが肩を掴む手により力を込めた。セレンはほとんど机に寄りかかって仰け反った状態になっている。アンバーの身体の後ろで、警備兵が興味深そうに部屋の中を覗き込んでいるのが見えた。その後ろにも、通りかかったのだろう兵士や給仕の姿が見えてセレンは眩暈がするようだった。
「いい加減にしろ」
一際大きな声で怒鳴りつけ、アンバーの脛を蹴りつける。一瞬手が緩んだ隙を逃さず、セレンはアンバーから離れ、扉を指差す。蜘蛛の子を散らすように人だかりが消えた。
「さっさと出て行け、そして用がない時は二度とこの部屋に来るな。お前のくだらん話に付き合っている暇は私にはないんだ」
セレンが俺ではなく私と言ったことで、アンバーは我に帰ったようだった。舌打ちが聞こえ、金の両眼が半開きの扉を睨みつける。不運な兵士の1人がその視線をまともに浴びて、小さな悲鳴と共に消えた。
足音高く出て行くアンバーを見送り、廊下で響いた怒鳴り声を聞いてセレンは頭痛を覚える。
もしやロベルの失恋とやらはアンバーに対してだったのか。だったらトリカが大笑いしたのにも頷ける。
頭を押さえたままセレンはため息をついた。情けない気持ちと、少なくともトリカはくだらない噂を信じていないようだという安堵がないまぜになる。
弁明してロベルの誤解を解いてやりたいが、できれば夕食の時間がこなければ良いのにとセレンは願わずにいられなかった。