国を囲う塀の外に建設された闘技場に、今年も数多くの見物人が詰め掛けていた。
セレン達は一段あがった場所にある貴賓席に掛けていたが、正直下の一般席の方が良く見えるのだということをセレンは身を持って知っている。もっとも言うだけ無駄なので、傍目から見ても興奮しているイオには言わないで置いた。アンバーはイオの後ろで立っている。セレンからみたイオの奥に、クーベとマドレンが座っていた。周りは勿論警備兵がぐるりと囲んでいる。
毎年カーフに誘われたが、来たのは2回だけだった気がする、とセレンは思いを馳せた。自分が戦えないのに戦っている奴らを見て、何が面白いのかという気持ちだった。今も正直暑いだけだ。
早く終わらないだろうか。うんざりとしながらセレンは弾け宙に舞う剣の眩しさに目を細めた。
「ヘリオットの戦士はやはり素晴らしい」
表彰式、一般部門と兵士部門それぞれの勝者にイオがメダルと賞金を与えている様子を見ていたクーベがぽつりともらした。
「決勝戦は見事でした、あんなに年若い者でも素晴らしい才能を持っている。我が国も見習いたいものです」
クーベが言っているのは、セレンも何度か見掛けたアンバーから“特別訓練”を受けていた少年のことだろう。セレンも彼が決勝まで残ったのを見た時は驚いた。道理でアンバーが得意げな顔をしているはずだった。
「この平和な世の中では、必要のないものでしょうがね」
セレンが答えてやれば、クーベは「とんでもない」と強く否定してきた。マドレンが驚いた様子で振り向く。アンバーはイオの横についていた。
「失礼。しかし、いつまでも平和は続かぬものです。貴国だってウィスタリアといつ争いになるやも知れぬではありませんか」
「願わくば避けたいことですが」
口元だけで笑って見せる。マドレンの視線が妙に気になった。思えばマドレンは昨日もクーベ以上に観察するような視線をセレンに向け続けてきた。気持ちの良い物ではない。
クーベがイオに目を戻し、言った。
「東のマルーンという国をご存知ですか」
「ええ。噂程度には」
東の島国、マルーン。他国との交流は一切無い為全てが謎に包まれている国。人口も、生活も、何一つわからない。言語は独自の物を使っているというのがわかっているが解読はされていない。豊かな海資源を有する為に近隣諸国から幾度と無く襲われたが、その何れをも絶大な強さで撃退したという伝説を持っている。
「あの小さな国が今まで独立し続けてこれたのは一重にその強さ故です。いくら国が大きくても兵が弱くては意味がない。貴国のその長い歴史も、歴代の猛者たちによるものでしょう」
フードの下で、セレンは眉を顰めた。クーベの言葉に含まれるものを感じ取ったからだ。
レグホーンの土地は広い。ヘリオットに比べるとあまり豊かとは言えない土壌を、その広さで補っているという印象を受ける。そしてその大部分で酪農を行っている。人口だけで言うのなら、ヘリオットとそう変わらないのだ。
ヘリオットは小さいながらも豊かな土壌を有する為、周辺国から幾度と無く狙われてきた。しかし強い兵士、それに攻められにくい土地に位置していることから長い歴史を築くことができた。一方のレグホーンはヘリオットと同盟を結ぶまで散々酷い目にあってきた。同盟を結んだ途端に他国は後ろのヘリオットを恐れてレグホーンを攻めることをやめたほどだ。
代わりとしてレグホーンは、毎年ヘリオットに優先して良い肉牛、乳牛を輸出してくれている。狭く山間に位置する土地ゆえに酪農には向かないヘリオットにとっても、レグホーンとの同盟は利害が一致したといえた。
マドレンが聞き耳を立てているのがわかり、セレンは嫌な気持ちになった。聞こえてませんよ、自分は表彰式に夢中ですよなどという様子を作っているのが明瞭だ。
セレンはクーベに改めて向き直った。
「小さいからこそ、身を護る為に強くならざるを得なかったのでしょう。私のような戦士に向かぬ者は、昔から肩身の狭いを思いをしてきたものです」
セレンの冗談が通じたのだろう、クーベが笑った。マドレンが、顔は観客に手を振る勝者へ向けながら、一瞬嘲るような笑みを浮かべたのを、セレンは見逃さなかった。確かにマドレンは良い体格をしている。
「世は戦士だけで成り立っている訳ではありません。だからこそ我々のような者も存在するのでしょう」
穏やかに言うクーベは、昨日の厳しい表情とは比べ物にならなかった。セレンは「失礼」と一言断り、すっかり微温くなってしまった水を飲んだ。陽は傾きつつあったが、夏に近付きつつある日差しの強さは、いくらセレンが寒がりとはいえ厳しいものがあった。
「気に障ったのなら申し訳ないが…貴方のその格好については我が国でも噂になっていましてね」
「私の耳にも届いていますよ。最近聞いた中で1番面白かったのは、私が実はウィスタリアの間者というものでした」
何気ない風を装っているが、マドレンの意識は完全にこちらに向いている。クーベも興味を隠しきれないようだ。
「もしよければ、なのですが、何故そのような格好をしているのかお尋ねしても?」
「昨夜の食事の場で、そのお話は出なかったのですか」
セレンの問い返しにクーベが一瞬決まり悪げな様子になった。クーベ自身はしていないが、その向こうのマドレンとイオとの会話を聞いていた筈だ。
「特に理由を隠している訳でもないのですが…皆噂をするだけで直接確かめようとはしないのです」
セレンは何気ない風を装ってフードを持ち上げた。マドレンの驚きの表情がクーベの肩越しに見えた。
クーベの深い緑の目にセレンが映っている。赤茶色の長い髪が顔の大部分に被さって、右目は完全にその奥に隠れてしまっている。左目は爛れた皮膚によって潰れている。まともな部分は鼻から下、フードを被っていても見えていたところだけだった。
すぐにセレンはフードを下ろし、こちらに戻ってくるイオを眺めた。
「化け物、などと言われましてね。これでも気にしているのです。それに皮膚が弱いので、少し日に焼けただけでも爛れたようになってしまう」
「そう、でしたか…申し訳ない」
心底済まなそうに頭を下げるクーベにセレンは微笑んだ。
「冬はいいのですが夏はいけない。暑くて暑くてたまったものではありませんよ」
***
クーベ達はその後の2日、街の視察をしたり兵士の訓練の様子を見たりして過ごした。1日中付き合わされているイオは目に見えて憔悴している。何度か付き合わされかけたが、セレンは笑顔で本来イオがやる筈の仕事の山を指して見せた。代わりにアンバーが引き回されているのを何度か見掛けた。
そして3日目の夜。明日の朝には使者たちが帰るという時に、セレンの執務室にアンバーがクーベを連れて来た。
「夜分申し訳ない」
開口一番クーベが言った。アンバーは閉じた扉に寄りかかり腕を組んでいる。セレンは執務机を立ち、クーベに2、3歩歩み寄った。
「どうかなさりましたか、クーベ殿」
言ってセレンはアンバーに視線をやる。アンバーは我関せずといった様子だ。クーベがもう一度深く頭を下げ、それから低い声で言った。
「アンバー殿から聞いておられたと思いますが、どうしても貴方と話をしたかった」
何かを思いつめているような表情にたじろぐ。セレンはアンバーを見遣り、クーベを私室へといざなった。アンバーはついてくる気はないようで、セレンに見向きもしなかった。
一先ずクーベをソファに座らせ、セレンは向かいに腰を下ろした。
「お茶でもあればよかったのですが」
セレンの言葉にクーベはまた頭を下げた。
「このような時間に突然押しかけてしまい、本当に申し訳ない。本当はもっと早くに話したかったのだが…」
「…マドレン殿が常に近くにいた?」
口篭もった後を継いで言ったセレンの言葉に、クーベが驚いたように顔を上げた。それからほっとしたように思いつめたような表情を解く。しかしそれはすぐに厳しいものへと変わった。
「本来なら会って間もない貴方にこのような話をするのは間違っている。それはわかっております。初め私はアンバー殿に話をするつもりでした。気分を害されたのなら申し訳ないが、私は貴方を信用することができなかった」
無理ないだろうとセレンは心の中で思った。むしろこのような怪しい格好をしている自分を信用する方がおかしいのだ――そこまで思ったところでセレンの頭に癖だらけの金髪が浮かんだ。
クーベが続ける。
「しかしアンバー殿は貴方に話すよう勧めた。私はアンバー殿を、アンバー殿が信用している貴方を信用する」
何故クーベがここまでアンバーを信用しているのかわからないが、アンバーにもイオを同じような独特の魅力がある。それに惹かれたのだろう。
何も言わないセレンを続けろという意味にとったのか、クーベが口を開いた。
「時間がないので率直に言わせてもらう。ウィスタリアがマルーンに接触を図った。我が国では貴国との同盟を破棄しようとする動きがある。万が一ウィスタリアとマルーンが手を組んだらヘリオットに勝ち目はないからだ。ヘリオットよりの周辺国もウィスタリアへ靡いてしまうだろう。確かにヘリオットは強いが数には勝てまい」
クーベが一旦言葉を切り、自らを落ち着かせるかのように深く息をついた。
「レグホーンはグリー、リラカと軍事同盟を結んでいる。それにヘリオットも加わって頂きたいのだ。貴国が加盟してくれればイローネも加盟に承諾してくれるだろう。そうすればウィスタリアも迂闊に手を出すことができなくなる」
クーベの言葉を、セレンは黙って聞いていた。そしてゆっくりと口を開いた。
「それで、何かヘリオットに利がありますか」
よほど意外だったのか、クーベが言葉を失った。セレンは続ける。
「確かに、もし同盟を結ぶことが出来れば牽制にはなるでしょう。しかしそれでは争いを避けることはできない。拡大するだけです。しかも盟主国内が不安定な状態だと言うのに、とてもではないが貴方の言を信用することはできません」
セレンは立ちあがり、執務室へと続く扉に手を掛けた。
「私が聞いていた貴方はもっと思慮深く聡明な方だった。自国を想うのは勝手ですが、貴方の場合想いだけが一人歩きしている印象を受ける。一度頭を冷やされたらいかがですか」
「私は真剣に」
立ちあがり声を高くするクーベに、セレンは扉を開けて出ていくように促した。
「グリー、リラカと同盟を結んだのは8年前だったと記憶しています。その頃はまだ私の知る聡明な宰相がいたようだ。対外に尽力するよりも、まず国内を安定させることを優先するべきでしょう」
淡々としたセレンの口調に、完全にクーベは失望したようだった。足音も荒くセレンの横を通り過ぎようとする。すれ違う直前、セレンは低い声で囁いた。クーベの方がかなり背が高いため、囁きというよりも呟きに近かったが。
「あなたは監視されている。後日落ち着いた頃、改めて話させていただきたい」
一瞬クーベが動きを止め、けれどすぐに何事もなかったかのように通り過ぎていった。振り返り、セレンはアンバーに言った。
「部屋まで送って差し上げてください」
片眉をあげることで了解の意を示し、依然足音高いクーベの先に立ってアンバーが執務室を出て行った。すぐ後にセレンは続き、唖然としている警備兵の後ろで囁く。警備兵の身体が跳ねあがるように緊張した。
「もちろん今夜私を訪れる者はいなかった。いいな」
セレンの言葉に含まれるものを感じ取ったのか、警備兵は上ずった声で「はい」と言った。
クーベが来た時からあった妙な気配は、既に消えていた。