A stone was dropped.







 静かな執務室でセレンは1人、黙々と職務をこなしていた。日頃の行いのお陰でディアノイアとしての仕事はほとんどない。今はイオが溜めてしまった分とアンバーがやるべき分とを片付けていた。2人は先ほど客人たちとの夕食を終えた頃だろう。欠席するのが失礼だとはわかっていたが、客人たちにとっては良かったらしい。ルピが夕食中の会話を嬉々として報告してくれた。あの白いうにょうにょは、今頃客人クーベの部屋に潜んでいるのだろう。
 城内の者のほとんどはもう慣れたようだが、やはりセレンのこの格好は奇妙を過ぎているらしい。夕食は国内外でのセレンの噂話に花が咲いたようだった。主にイオと、クーベの付きの者のマドレンという男の間でらしかったが。アンバーとクーベは昔顔を会わせたこともあってか、そこそこに会話をしたらしい。ルピの興味はセレンの噂話にしか向いていなかった。
 近頃のルピは可愛げがなくなってきたと、セレンは独りため息をついた。
 丁度手をつけていた書類が終わり、種類別に分けた山の1つにそれを置く。整頓された机を見て、セレンは満足の笑みを浮かべる。几帳面な訳ではないが、きちんと整えられているのを見て悪い気はしない。
 一息入れるかと立ち上がった時、誰かが部屋に近付いてきた。イオの足音だ。扉の前の警備兵が畏まるのがわかる。ノックされる前にセレンは扉を開けた。驚いている警備兵の顔と、驚いていないイオの顔とを見比べる。
「このような時間に兵士も連れず、どうかなさいましたか陛下」
「ちょっとな」
 まだ招いていないのに勝手にイオが部屋に入る。セレンはため息をついてから「ご苦労」と警備兵に一声掛け、扉を閉じた。イオは真っ直ぐ隣りの私室へ入ったようだ。セレンは軽く頭を押さえて後に続いた。
 火の入っていない暖炉の前のソファに腰掛け、イオがにやにやとセレンを見上げている。セレンはその顔を無視してソファの背に軽く腰掛けた。イオの顔が丁度ソファの背についた右手の横にある。
「いやぁ俺より有名なんじゃねーのお前」
「くだらねぇこと言ってんな、大体1人で出歩くなって言ってんだろ」
 セレンの言葉は右から左へと聞き流されたようだった。
「お前もいればよかったのに。齢100を越える老人説に先々代のディアノイアが実は生きていた説、カイアナイト前ヘリオット王説に」
「フードの下は日替わりだとか中身は女だとかだろ。今更可笑しくもなんともねぇっての」
 少しは機会を有効に使え、とセレンは聞こえるようにため息をついた。
「くだらねぇことばっか喋りやがって、ついさっきまでびびりまくってた奴がよ」
「んだよ、別にいーだろ。それにアンバーがいい奴って言うんだからいい奴に決まってる」
 それにしてはクーベと会話は殆ど無かったじゃないか、とか少しは国王としての自覚を持って話せ、とかそもそもそれはいったいどう言う理屈だ、とか言いたいことが次々に浮かび、結局セレンは頭を押さえる。時たま見直すようなことがあればすぐこれだ。一瞬でも心浮き立たせた自分が情けない。
「お前舐められてんだよ。気付いてんだろ。向こうにしたらお前はまだまだてんでガキなんだ。表向きは闘技大会観戦だけどな、奴らは今回お前の品定めしに来てんだよ。」
 敵意むき出してるウィスタリアのがまだマシだ、とセレンは腕を組んだ。
 若すぎる王。若すぎる補佐。若すぎる軍事責任官。いくらヘリオットが周辺の国々から一目置かれているとはいえ、つけこめる機会をみすみす逃すような国はない。長い歴史を孤立して築いてきたからこそ、ヘリオットには名ばかりの同盟国しかいなかった。名ばかりだからこそ、すぐにでも手の平を返すかもしれない同盟国の方がやっかいなのだ。今回の“査定”で基準に満たなければ、レグホーンがウィスタリアへと寝返る可能性だってある。近年ウィスタリアは同盟国を増やし、年を経るごとに強大になっていた。
 今すぐに攻められ寝返られることはないのだが、杞憂ではないのだ。慎重に行動しなければならない。
 なのにこの男は。
 腕を組んだままセレンはイオを見下ろした。途端真っ直ぐに突き上げる視線に息を呑む。あの、どこまでも深く澄んだ目。呑みこまれそうになる目。不意打ちだと心臓に悪い。
「だからなんだよ」
 イオが不適に口元を吊り上げる。
「恰好つけて背伸びして、そんなん意味ねーだろ。俺は俺だ。下っ端ひとり納得させられねーで王なんか務まる訳ねーよ」
 この、どこから来るのかわからない自信。しかも他国の宰相を下っ端扱い。それでも笑い飛ばすことができないのは、この目の所為だ。くるくると表情を変え時には色味までも変える不思議な眼の所為だ。まったく気に入らない。
 セレンはイオの顔を上から押した。喉首を晒してイオが仰け反る。ばたばたと慌てる様が面白かったが、声を出されたら外の警備兵に怪しまれるだろうとセレンは手を離した。
「何すんだてめぇ、危ねーだろ」
「知ってるか。動物の場合は腹首晒しゃ許してもらえるが人間相手じゃそうはいかない。止め刺されんのが早くなるだけなんだ。まぁ苦しまなくて済むんだろうけど」
 蒼がじっとセレンを見上げる。夜の水面のように何も映していない蒼。
 イオが無言で立ちあがり、伸びをした。振り向いたその目は、もういつもの明るい青だった。
「お前時々わかりにくいよなー。…お前、俺に苦しんで欲しいんだろ?」
 に、といつものように笑うその顔に、いつものように言い返すことが出来なかった。
 イオが出て行った後も、セレンはしばらくその場から動けなかった。

 “蛇”はある意味何でも屋だ。仕事の都合上、人を殺したことも何度かある。初めてやったのはスネイクに拾われる前だった。不可抗力だった、と思っている。理由をつけて逃げる訳ではないけれど。
 仕事でやる分には何も感じなかった。こいつにも帰る場所があって、待っている人がいて、なんて考え出したら切りがないと悟っていたからかもしれない。抵抗されたら面倒だ、早々に諦める奴はやりやすい、その程度で。初めのうちはまだ腕が悪く、抵抗されたら傷を増やしてしまっていた。のた打ち回り血まみれになる相手を見て、可哀想だと思うことはあったが。だからおとなしく首を差し出す奴の時は、滅多にいなかったがほっとした。
 自分がされたら痛いし怖い。だからされたくない。その程度のことでしかない。けれど“Artos”の仲間がもしされたら、きっとセレンは自分を抑えきるのが難しいだろう。カーフに幾度と無く言われた。お前は勝手だと。イリスに言われた。嫌いだと。ディアナには頬を張られたこともある。なんのことかセレンにはさっぱりわからなかったのだけど。
 さっきの、イオの目。月の無い、1歩間違えば落ちてしまいそうな夜の水面のような目が、何故かあの時の彼等に重なり、そしてクーベの目に重なった。
 そう、問題はクーベだ。無理があるとわかっていながら、セレンは思考をそちらに向けた。
 今回の使者の中にクーベがいると聞き、セレンは驚いた。レグホーンの、この国で言えばディアノイアつまりセレンの立ち位置にいる男が何故たかがお祭りの為だけに来訪するのか。勿論理由のひとつはさっきイオに言ったように、これからヘリオットに対しどういう態度を取るか見極める為だろう。しかしそれならクーベの配下の者を送れば済む話だ。自身で見たかったから? それだけの為に動くような馬鹿ではない筈だ。まだ表立ってはいないようだが、レグホーン国内でいざこざがあるのを知っているセレンからしてみれば、この時期にクーベが国を離れるのは危険だとしか言いようが無い。国を一番に考えるクーベは、レグホーン内で増えつつある革新派にとって目障りでしかないのだ。これを機会にクーベを引き摺り落としかねない。レグホーン国王はちょうどイオやアンバーの親と同世代だった筈だが、即位したての頃からずっと面倒を見てもらってきたクーベを疎みつつある。
 だからクーベを追いやったのだろうか。そこまで考え、セレンはひとり首を振った。それこそ馬鹿な、だ。
 レグホーン国王はクーベを疎んでいる。だがクーベから離れることはできない。自分1人では何もできないと知っているからだ。クーベという背もたれがあったから、国王の座にふんぞり返っていられたのだ。それは依存。いくら疎もうが自立したがろうが、それは夢想でしかない。結局はクーベがいなければ生きていけないのだから。
 もし、だ。セレンはふと考えた。
 もしレグホーン国王に新しい背もたれができたら。きっとそれはただの擦り寄りともすればその椅子を狙う輩かもしれないが、もしもっと座り心地の良さそうな椅子が現れたら、クーベを捨てるのだろうか。
 俯いた顔の横から赤茶の髪が一房垂れる。それを指で弄りながら、セレンはため息をついた。
 くだらないことを考えているのは自分ではないか。イオにあんなことを言える立場じゃない。
 ソファから離れ、セレンは執務室へと戻る。彼等は明日の大会の後も3日滞在する予定だ。充分だろう。上手く行けば手札が増えるかもしれない。
 綺麗に整った机の上を見て、それから時計に目をやる。この時間ならまだ書類の回収はできるだろう。
 セレンは深くフードを被り直し、部屋の外に踏み出した。途端大きな壁にぶつかり跳ねかえる。
「…どこ見てんだ」
 呆れたような声が上から降ってきた。横で吹き出したそうにしている警備兵は無視し、セレンはアンバーをどうせフードで見えないだろうが睨み上げた。
「一体何の用だ」
 真横を擦り抜けながら言ってやれば、アンバーはおとなしく後について歩く。
「おめー何さっきのメシすっぽかしてんだよ」
「お蔭で話しやすかったんだろう」
「つかまたメシ食ってねーだろ」
「元々夜は食べないんだ」
「昼も夜も関係ねー生活してる癖によく言うよ」
 セレンがわざと棘のある言い方をしているにも関わらず、何故かアンバーはセレンに付いてきた。階段を下り財政と外交と国内交通の整備に関する書類を取り上げもとい回収し兵舎まで行き市内警備の報告書を受け取り、兵舎を出ようとしたところでセレンは後ろのデカブツを振り返った。
「いつまでついてくるつもりだ」
 お前のいるべき場所はここだろう、そういう意味も含め言ってやればアンバーは知らん顔をしていた。
 勝手に引き攣る頬もそのままに、セレンはもう一度言う。
「いつまで、ついてくるおつもりですか。明日はお忙しいんでしょう?」
 アンバーが急に屈み込み、セレンの耳元に口を寄せた。
「クーベがお前と話したがってる」
 素早く、聞こえるか聞こえないかという大きさで囁かれた言葉。すぐにアンバーはセレンから離れた。セレンは何事もなかったかのように踵を返し、城へと戻った。



'08/07/22


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