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A Dew.24
ThE StRaNgEr
机に倒れこんでいるイオは、最早部屋の調度品と言った方が良い程に見慣れたものになっていた。扉を開けた途端目に入るそれにため息をつき、セレンは「陛下」と低い声を出した。イオの身体がびくりと跳ね、壁際に立っていたスイが笑いを堪えるような奇妙な表情を浮かべる。足音高く机に歩み寄り、セレンは唯一相手に見える口元でにっこりと笑みを浮かべた。イオが、身体は突っ伏したまま顔だけあげて引き攣った笑みを返してくる。セレンはその目の前に抱えていた書類をわざと高い位置から落とすようにして置き、イオの机の上をざっと見遣って1束の書類を持ち上げた。イオの顔が引き攣った笑いを浮かべたまま固まる。それを他所に、セレンはぱらぱらと紙を捲くった。
「おかしいですね。確かこの書類をお渡ししたのは4日前で、必ず今日までに済ませてくださいと私は陛下に申し上げた筈なのですが」
「……そうだったっけ」
「そうでしたね。そして私は少しでも陛下のお時間を空ける為、橋の改修工事に関する予算案の作成と城前通りの市の規制改正取締り改定案に国外修練場設立案のまとめ報告書作成その他諸々の業務を引き継がせていただきました」
なのに、と紙を指の背で叩き、セレンは束をイオの目の前に戻した。
「これは一体どういうことですか、陛下」
それからセレンは壁を振り向く。スイがはっとしたように真顔になり、姿勢を正した。
「スイ。お前もあの場に居ただろう、何故一言陛下に申し上げなかった」
「……申し訳御座いません」
おい、とイオが咎めるような声を出す。セレンが振り向くと、イオはセレンの手から書類を奪い取った。
「悪かったよ、俺が忘れてただけなんだ。別にスイの所為じゃねーだろ。昼までに仕上げとくから文句言うな」
言って腰を下ろしたイオを数秒見下ろし、セレンは机の上から未処理の書類の束を抱え上げた。口を開き掛けるイオに「昼にもう一度伺います」と釘を刺し、セレンは扉に踵を返してはたと止まった。
「明日はレグホーンからの使節が到着する日です。覚えていらっしゃるとは思いますが、今日中にできる分は全て済ましておいてください」
後で困るのは陛下ご自身ですよ、と愕然としているイオに言い残し、笑いを堪えているスイに目配せをするとセレンは部屋を後にした。
昼過ぎ、忠告のお陰もあってか大分綺麗になったイオの机から件の書類を受け取り、新しい紙の束を置いて恨みがましい目で見られてから、セレンは自室に戻った。書類を執務机の上に投げ出し、私室に入って鍵を掛ける。これで誰かが急に入ってくることはない。セレンはフードマントを脱ぎ捨て、イオが持ち込んだソファに倒れこんだ。ばさばさと髪が肩を頬を滑り落ちていく。カーテンを閉めたまま細く開けている窓から時折吹き込んでくる風が気持ち良かった。
しばらくそうした後、セレンは起き上がって服を脱ぎながら寝室へ向かった。ベッドには向かわずにそのままシャワールームへ入る。脱衣所に脱いだ物を適当に置き、セレンは中に入った。
やらなければいけないことは午前のうちに済ませておいたし、食事は机に置いておくようにとロベルに言ってある。何か問題が起きない限り、午後いっぱいセレンには時間があった。
長く伸びた髪を濡らしながら、セレンはスネイクの同じように長い髪を思い出す。褐色の髪はいつも垂れるままにされ、よくその顔を隠していた。セレンの好きな、真っ黒いスネイクの両眼も。
壁掛け棚に乗っている瓶のうちの1つを取り、中身を手の平にとって髪に伸ばす。そういえばディアナも同じ位長い髪をしていた。イリスの髪は伸びただろうか。つい先日、留まったのはほんの30分程度だったが用事でルピに“Artos”へ行かせた時には、2人もカーフも見掛けなかったらしい。ルチルは何故か居たらしいが。
湯、と言っても生温いだけの水で全身を流し、セレンはシャワールームを出る。下の大浴場になら熱い湯が満たされているのだろうが、セレンはどうもあそこが苦手だった。他に湯が出るのはイオの部屋くらいだが、今は暑いし、冬はどの部屋でも湯が出るようになる。別段困るようなことではなかった。
体を拭く前に髪を絞り、紐で纏め上げる。絞り握る度にぼたぼたと水滴が落ちた。タオルを腰に巻いただけで脱衣所を後にし、新しい服を出して下だけ身につけると、セレンは椅子に座って髪紐を解いた。後ろ手に手櫛でほぐしてやれば、湿ってはいるが髪はおとなしく背中に垂れ下がった。
椅子の背に寄りかかり、セレンは目を閉じる。面倒事にはもう慣れた。城での習慣はすっかり身につき、年寄り達や反抗的な連中の扱いも大分慣れた。ジャカレー側だった連中が何やら企んでいる様子なのも把握している。今はまだ牽制できる形までできていないので泳がしているのだが。
明後日の闘技大会に合わせて来訪するレグホーンの使節は、イオが戴冠してから初めての正式な外国からの訪問だった。織物市にも外国からの客は来ていたが、国対国の外交という点では初めてだ。決して粗相がないようにしなければならない。到着は夕方になるらしいから、朝に最後の確認をするくらいの時間はあるだろう。
肌寒くなり、セレンはシャツに腕を通した。首まで締まる型の服は苦手だったが、今はボタンを留めなくても構わないだろう。服が濡れないようにもう一度髪にタオルをあて、邪魔にならぬよう首のあたりで1つに縛る。
少し眠ろうか。そう考えた矢先、すぐ近く、具体的に言えば執務室の扉が乱暴に開かれる音がした。ため息をつき、セレンは寝室を出てフードマントを被ると鍵を開けた。
「いたのか」
「ノックをしろと言っているだろう」
困ったような顔の警備兵に手を振り扉を閉めさせ、セレンは赤髪の青年にため息をつく。アンバーはまったく気にする様子もなく、セレンの机、昼食の盆の横に紙の束を置いた。
「明日の警備配置少し変えたから目ェ通しとけよ」
「……それだけか」
わざわざ来ずとも小間使いに運ばせれば良いのに、と思いながらセレンが呆れ混じりの声音で言うと、アンバーは「おう」とさも当然かのように頷いた。
「それより、さっきからなんだこの臭い」
臭ェ、とアンバーが眉間に皺を寄せ宙を嗅ぐような仕草をした。セレンは「あぁ」とフードの上から頭を押さえる。乾けば臭いは消えるが、まだ髪は湿っていた。「声出すなよ」と念押ししてから、セレンはフードを下ろした。アンバーが目を剥く。
「おまっそれ」
「静かにしろ」
セレンが自分の口の前に人差し指を立てると、アンバーはつられたようにぱっと口を押さえた
。けれどすぐに大股でセレンの目の前に歩み寄ってきて、セレンの髪を無遠慮に掴みあげた。「引っ張るな」というセレンの言葉は、しかし聞こえなかったようだ。
殆ど赤に近い茶色に染まったセレンの髪をまじまじと見つめ、アンバーが顔を顰めた。
「くっせーなおい」
それからぱっと手を放し、その手の臭いを嗅いでまた顔を顰める。臭いを拭うように腰のあたりに手を擦りつけるアンバーを失礼だと睨みつけながら、セレンはがしがしと頭をかいた。
「本当は暗い茶色になる筈だったんだ。俺のは元々色がないから、赤味がはっきり出過ぎたらしい」
「なんだって今さら染めようなんて思ったんだよ」
まだ臭ぇ、と手の平を嗅いでいるアンバーに、セレンは「明日」とため息交じりに口を開いた。
「この姿のままだと失礼だろうが。俺だって考えてるんだ」
「意味わかんね」
勝手に窓を開けるアンバーを横目で見ながらセレンは再びため息をついた。
「だってそうだろうが、いくら髪の色変えたからって眼は変えらんねーだろ。お前が一番気にしてんの眼なんだから」
暑ィ、と襟を指で広げ風に目を細めているアンバーに、セレンは目を見開いた。
事実だった。だから驚いた。この髪と目がセレンのコンプレックスだということは以前感情に任せ口走ったことがある。勿論アンバーに対しては体格についてもだったが。けれど特に眼が、なんてことは言ったことがない、筈だ。
驚きで口を半開きにしたまま止まっているセレンに金の目をちらりとやり、アンバーが鼻をならした。
「つーかな、気付かねー方がおかしいっての。それに口じゃ色々言ってっけど、お前その髪気に入ってんだろ」
面倒臭そうに窓枠に背を預け、アンバーがセレンの方を向く。外から入る光で影が落ちているアンバーの顔の中で、その両眼だけが輝いている。
「女じゃあるめーし、見た目なんか一々気にしてんじゃねーよ。んなもん関係ねーだろうが」
言い方に自然むっとし、それからセレンの口元に笑みが浮かぶ。
「生憎と俺は繊細だからな、もしあちらさんがこの化け物じみた外見を嫌がったりしたら立ち直れないんだ」
どの口が、というアンバーの言葉は聞き流し、それにとセレンは付け加える。
「何もずっとフードを外す訳じゃないし、髪も染め続ける気はない。万が一の為だ」
セレンが余裕を持って話すと、途端にこの男は不機嫌になる。もう一度「意味わかんね」と吐き捨てるように言い、足音荒くセレンの横を通り過ぎる。扉を開ける寸前でぴたりと止まり、フードを被ったセレンをアンバーが振り向いた。にやりとその口元が歪む。
「明日ァ大騒ぎだぜ。あのディアノイア様の素顔がようやく拝めるってんだからな」
「楽しみにしておけ、騒ぎだけでは済まなくしてやる」
今はもうそこしか見えないだろう口元でセレンも似たような笑みを浮かべ、出ていくアンバーを見送った。
***
広間の一段上がったところ、玉座にイオが腰掛け、その両脇にセレンとアンバーは立っていた。玉座の前にまっすぐ伸びる絨毯の両側には正装の兵士達が一糸乱れることなく並んでいる。その後ろに重役達が同じく正装で並び、柱の前にもまた兵士が並んでいる。玉座の前で朗々とレグホーン国王からの手紙を読み上げている外交官を見下ろしながら、セレンはずっと、観察するような視線を受け止めていた。視線は絨毯の上に片膝をつき、読み上げる声に聞き入っているように見える使者からのものだ。ヘリオットにおけるディアノイアと同じ地位にあたるカンディ=クーべという男。最盛期のジャカレーに匹敵するとも言われる、相当に頭の切れるレグホーンの頭脳。セレンはかつて一度だけ、“蛇”の仕事をしている時にこの男を見たことがあった。
ただひとつジャカレーと違うのは、この男に野心はなく、心の底からレグホーンという“国”そのものに忠誠を誓っているということ。だからこそ扱いに注意せねばならないとセレンは肝に命じていた。もっとも、気になったのはクーベよりもその後ろに控えている付きの者だったが。
長々とした手紙を読み終え、外交官がするすると並ぶ列に戻った。イオが立ちあがり、声にも含ませた満面の笑みでカンディ=クーべとその後ろに控える使節達にねぎらいの言葉をかける。本当にイオはすごいと、セレンは改めて“人に愛される才能”に舌を巻いた。クーべ以外は頭を垂れているが、イオの、歓迎の意が声だけで充分伝わる一言一言に、彼等の緊張が解されていくのがわかった。クーべは相も変らぬ鋼鉄のような表情を浮かべていたが。
「…さぞお疲れのことでしょう。夕食までにはまだ時間があります。どうぞ旅の疲れを洗い流してください」
「慎んでお受け致しましょう」
満面の笑みを浮かべているイオとは対称的な声でクーべが応え、使者たちは滞在中のそれぞれの部屋へ通された。
扉が閉じるまで見送って、イオ達3人はイオの部屋へ兵士を数人従えて戻った。勿論兵士達は部屋の中にまでは入れない。3人だけの部屋で、イオがソファに倒れこんだ。くすくすとスイが笑って、水を注いだコップをイオに渡す。その水を一息に煽り、イオがぐったりとしたまま言った。
「こえーよあのおっさん尋常じゃねーってあーもー超怖かった疲れた緊張した」
「ご立派でしたよ」
「途中噛まないかどうかひやひやしたぜ」
「お前等他人事だからってな」
恨みがましい視線を向けるイオに笑い、セレンはアンバーを見る。アンバーはこの中で唯一、直にクーべに会った事があった。
もっともヘリオットからレグホーンへの手紙を運ぶのについていった程度で、会話らしい会話もなかったらしいのだが。
「おっさん見た目は厳ついけど中身はそこまででもねーよ。これから一緒に飯食うんだろ、しっかりしろ」
「んなこといったってお前、どうしようフォーク落としたりなんかしたら」
緊張が一気に解けたのか1人騒いでいるイオを尻目に、セレンとアンバーはため息をついた。
'08/07/06
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