重苦しい鉛色の空が、朝からヘリオットの上を覆っていた。
「……様、セレン様」
声にはっと顔をあげる。ノックと共にロベルが呼ぶ声が聞こえた。
「済まない。入れ」
外に声を掛ければ、遠慮がちにゆっくりと開いた扉からトレイを持ったロベルが入ってきた。いつからいたのかわからないが、扉の前に立っている兵士が訝しげに部屋の中をうかがっているところを見ると、どうやらロベルは何度かセレンを呼んだらしい。
小さく頭を振り、セレンはたった今まで読んでいた書類に目を落とした。レグホーンの使者が闘技大会に合わせて来訪する、それに関するものだ。ロベルが机の端にトレイを置き、「セレン様」と伏しがちな顔を珍しく上げた。
「あのう、お召し上がりになりたいものなどございましたら、どうぞ遠慮無くお言いつけください」
何かを思いつめたような真剣な表情に、セレンは驚いて「どうかしたのか」と尋ねた。
「どうかも何も、セレン様、以前にも増して何もお召し上がりにならなくなっておられるじゃありませんか。料理係の子らもあの手この手を使って少しでもセレン様が元気になられるようにと考えてはおりますが、ちっとも良くなられなくって、このままではセレン様が倒れてしまわれます」
口下手なロベルが珍しく自分の考えを話しているということにセレンは驚いた。しかもこんなに長く、どもりもしないで。呆気に取られているセレンに、ロベルがなおも続けた。
「私共にできることなんてほんの些細なことしかございませんが、それでもお力になりたいのです。今のセレン様、とても見ていられなくって」
ぽたり、と机に水滴が落ちる。柔らかな焦げ茶色の瞳が、縁いっぱいに涙を浮かべていた。
「ロベル、何も泣くこと」
「も、申し訳御座いません」
慌てたセレンが伸ばした腕は宙を掻き、ロベルは顔を両手で覆ったまま「失礼します」と濡れる声で部屋を飛び出て行った。警備の兵士がぽかんと口を開けたままロベルを見送るのが、扉が閉まるまでずっと見えていた。扉が閉まってしまえば、部屋の中にはセレンと、ロベルが置いていった良い匂いのするスープと白いパンが残されていた。
半ば呆然としたまま浮かした腰を椅子に下ろし、セレンはぐしゃりとフードを掴んだ。
ともすればぼうっとしがちな自分を抑える為、セレンはあちらこちらから仕事を掻き集めそれに没頭していた。あの夜以来、セレンはアンバーとも、イオとでさえまともに顔を合わせていない。合わせられない。朝会で顔を合わせても会話はなく、セレンは始まる直前に広間へ入り終わった直後に出ていくを繰り返していた。
自分が今しなければならないことが、こんな紙切れを向き合うことでないことくらい痛いほどにわかっている。今すぐにでもアンバーの元へ行って謝らなければならない、謝りたいのに、いつもなら呼んでもいないのにやってくるイオが来ないのをいいことに、セレンは部屋に篭り続けている。給仕にまで心配を掛けて、周りにもわかるくらいに自己管理ができていない自分が恥ずかしい。ルピでさえ、このところ姿を見せなくなっていた。
いつの間にか鉛の空は水滴を垂らし、窓に当たって幾筋もの後を残していた。
雨は嫌いだった。空気が重くなり、身体に纏わりついてきて気持ちが悪いからだ。けれど雨の日に出掛けるのは好きだった。フードを被り全身をすっぽりと隠していても、さほど怪しまれないから。
何かがある時は、大抵雨が降っていた。覚えている最初の記憶が雨ならば、スネイクに拾われた時も雨だった。カーフと初めて喧嘩をした時、最初の“蛇”としての仕事も。イオと出遭ったのも雨が降る日だった。
今日も何かがあるのだろうか。何となくそんなことを考え、セレンは首を振った。くだらないことを考えるよりも、今は一つでもできることをしよう。
そこでセレンは書類を脇に除け、ロベルが置いていったトレイを引き寄せた。さっきまで湯気を立てていたスープが、今は人肌よりも微温くなっている。一体どれほどの時間自分は物思いに耽っていたのか。呆れ、セレンはもう一口スープを含んだ。
塩気が足りない。“Artos”のスープは、もっと塩気が利いていて黒パンと良く合った。固い黒パンをあのスープに浸し、柔らかくしてから食べるのが、セレンが今一番望んでいる食事だった。それが無理だとわかっているからこそ、余計に。
美味しいのに美味しくない。そんな微妙な気持ちでスープを喉に無理矢理流しこむ。食べる程に食べたくないと感じた。
とうとうセレンはスプーンを置き、トレイを端に押しやった。皿の上には半分残ったスープと、一口二口ほどが千切られたパン。またロベルが泣くのだろうかと重苦しい気持ちになりながら、セレンがため息をついた時、また扉が叩かれた。
「どうぞ」
ため息と共に言い、セレンはさっき除けた書類を引き寄せる。どうせまた外交官が、グリーへの使節の件で考えればわかるようなことを尋ねに来たのだろう。
「お時間少々宜しいですか、ディアノイア様」
細く開いた扉からするりと入りこんできた人影が、扉を閉じ鍵を掛ける。俯いている為顔が窺えない。セレンは少し椅子を引き、懐に手を突っ込んだ。
誰だ、と問い詰める前に人影が顔を上げた。息を飲む。にやり、と真っ白な歯が覗く。黒の短髪に褐色の目。
「元気、じゃ、ねーみたいだな」
カーフが、セレンの前に立っていた。
「どうして、どうやってお前」
「いやー良い部屋貰ってんじゃん。ラピが言ってた通りだな」
思わず立ち上がるセレンを他所に、カーフは水差しを持ち上げしげしげと観察する。その水を直に一口飲んでから、カーフが驚きのあまり言葉を失っていたセレンに歩み寄った。机を挟みカーフと対峙する。すっと腕が伸び、セレンの額を指が弾いた。
「った、何」
「ばーか」
突然の攻撃に突然の罵倒。ただでさえ状況が飲みこめないと言うのに、セレンは目を白黒させて額を押さえた。カーフが机を回りこみ、セレンの真横に立つ。フードの上からぐしゃりと頭を掻き回され、そのまま押されてセレンは椅子に落ちるように座った。肘掛の両側にカーフが手をつき、セレンを真正面から見る。呆れたような困ったような、それから少し怒った表情。
「ガキで意地っ張りで自分勝手でチビでガリで、どうしようもない大馬鹿だよ、お前は」
いつもつけているターバンはなく、服は何故か兵士の物だ。少し、大人びて見える。聞いてんのか、とカーフが頭をセレンの額にぶつけた。
「俺らにゃな、お前に帰って来いなんて言うことできねーよ。ディアノイアなんてやめちまえなんて言えねーし、連れ戻すこともできやしねー」
けどな、とカーフが続ける。セレンは目の前の褐色の目をただただ見つめていた。
「お前がふらふらになってんの放っとくなんざ、もっとできやしねーんだよ、馬鹿」
ぽん、と頭に手が置かれた。じわりと目の奥が熱くなり、息が詰まる。優しく頭を撫でる手が、優しい声と重なって語り掛けてくる。
「まだまだガキなんだから、帰りたくなったら帰ってくりゃいいじゃねーか。それで腹いっぱい食って笑って寝て、それからまた行きゃあいい。お前はてめーで考えてるほど器用じゃねーし、大人でもねーんだ」
大きく息をつき、気を少しでも緩めれば滲みそうになる視界に必死に堪えて唇を噛み締める。頭上の声が笑い混じりのため息をついた。
「っとに可愛げねーな、お前。こういう時くらい兄貴の胸貸してやんのによ。ほれ泣け泣け」
抱き寄せてくるカーフを押し退け、顔を思いきり拭う。「馬鹿言ってんじゃねーよ」と顔を上げ、セレンはカーフを見上げた。
「大体どっから入って来たんだよお前、その服どうした、しかもたとえ俺が馬鹿だったとしてもチビ関係ねーしこれから伸びるし、そもそもお前の方がよっぽど馬鹿だっての」
「あ、またてめーそういうこと言うし、ちったー年相応にだな」
ふざけてカーフが落とした拳骨を避け、セレンはその手を掴む。言い掛けた言葉を一度飲み込み、手を離してからゆっくりと言った。
「スネイクに、言われて来たのか」
「あいつは何もしてねーよ。っとに、こっちがいくら聞いても答えやしねーんだから」
絶対全部知ってんだぜあいつ、とカーフが口を曲げた。その仕草に笑いながらも、セレンは少し淋しさに似たものを感じていた。
そっか、と呟くように言ったセレンの頭に拳骨が狙い違わず落とされた。そのまま頭を押さえつけられ、頭上でカーフが言う。
「気になるんならな、てめーで聞け、馬鹿」
それからカーフが離れ、セレンの前で仁王立ちになった。
「料理係のマティ。掃除係のシオン。第7分隊のルチル」
カーフを見上げる。腕組みをしてセレンを見下ろすカーフが、いつもの、あの相手を安心させ信頼させる笑みを浮かべている。
「俺が知ってて信用できる“蛇”だ。ルチルはお前も知ってるだろ。何かあったらあいつらに言え。すぐ飛んできてやるよ」
マティとシオンとルチル。特にルチルは2年前まで“Artos”にいて、親しくしていた。まさか城の中にいるとは思いもよらなかったが。これでカーフの侵入経路がわかった。
自慢気なカーフの腹を小突き、セレンは立ちあがった。
「さっさと警備につかないと怪しまれるぞ、カーフ」
「何お前、いつから気付いてたんだよ」
久々に会ったというのにあまり変わらぬ目線が悔しい。廊下に誰もいないのを確認し、セレンはカーフを押し出した。服は兵舎からルチルが拝借するか何かして、カーフと入れ替わったのだろう。今月は第7分隊が城内警備の担当だった。もっとも、先ほどまで警備についていたのはルチルではなかったが。
扉を閉める直前、カーフの耳に口を寄せる。早口で囁いた言葉に一瞬驚いた顔をしたカーフはすぐニッと笑い、「またな」と言い、それから思いついたように「あんま女ぁ泣かせんじゃねーぞ」と付け足してから扉を閉めた。時計を見上げればもうじき警備が交替するころだ。その前に給仕が食器を下げにくるだろう。
ロベルは来るだろうか。すっかり冷めきったスープを見て、セレンはため息をつきそうになる自分を抑える。それから小さく息をつき、皿を持ち上げると冷たいスープを一気に飲み干した。その手で乾き始めたパンを掴み、千切ることもせずそのまま齧り付く。最後の一口を飲みこみ、セレンは口元をぐいと拭った。そして立ちあがりトレイを持ち、扉に歩く。廊下には誰も、警備兵の姿すらなかった。トレイを持ったままセレンは廊下を歩く。角まで来たところで、セレンは人がうろうろとしているのに気付いた。
「あ、セレン様」
ロベルがセレンに気付き、びくりと肩を震わせる。近付いてくるセレンに怯える様子が窺えた。セレンとほとんど変わらぬ身長のロベルの目の前に立ち、セレンは一言「済まない」と言った。逃げ場もなくただおろおろと泣き出しそうだったロベルの動きが止まる。セレンはロベルに微笑み、言った。
「夕食には熱い紅茶と、そうだな、サンドイッチが食べたいと料理係に伝えてくれ。ジャムがたっぷり挟まった、甘いサンドイッチがいいと」
「え、あ、はい」
状況がまだ飲みこめていない様子だったが、ロベルはようやくセレンの手にあるトレイに気付いたようで、どもりながら怯えながらもトレイをセレンの手から受け取った。「ありがとう」と言えば、はぁ、と間の抜けた声が返ってくる。それが可笑しく、セレンはすれ違いざまにロベルの肩を叩いて兵舎に向かった。
出会い頭に謝ろう。許してくれるだろうか。きっと何のことだとつっけんどんにそっぽを向いて言うのだろう。そのまま何事もなかったかのようにセレンを無視するのだ。セレンはそれが何を意味しているか知っている。
あまりにも単純な自分に呆れるよりも、今は爽快さの方が大きかった。
雨は今だに降り続ける。遠くの空で雲が割れるのが見えた。