I was there, but I'm not there.
ヘリオットの三大祭事といえば、他国でもそれなりに名が知れている。初夏の織物市、夏の闘技大会、それに秋の建国式だ。ヘリオット産の織物は実用的にも工芸品としても評価が高く、毎年多くの商人、それもヘリオットと交流している数少ない国々の商人達が訪れる。闘技大会はもっとも人気の高い祭で、一般部門は国を問わず多くの者が賞金を夢見て参加するし、兵士部門も試合模様が公開される為多いに盛りあがる。建国式はあまり国民には関わりがないが、交流のある国々の代表を招いたパーティが開かれている。
その三大祭事のうちの織物市が、目前に迫っていた。
ばさり、とぐったりしているイオの前に書類を置き、セレンはため息をついた。傍に控えるイオの小間使いが水差しを持ったままセレンとイオを見比べている。
「陛下、これが追加分の市開催中の滞在を求める商人達の申請書です。お目通しと署名、押印を明日までにしておいてください。それと一昨日お目通しを願った分は勿論もう終わったことと思いますがお渡しいただけますか。できる限り早く許可証を渡してやらなければ宿泊施設に混乱が生じます」
「なぁセレン、前々から不思議だったんだけどお前なんで常にそんな元気なわけ」
俺もう体力切れかかってんだけど、と机にもたれかかったまま恨めしそうに見上げてくるイオを無視し、セレンは目的の書類を取ってざっと目を通した。
「警備兵の配置についてはアンバーと検討中です。今回はグリーとリラカの商人を新たに許可するので、イローネ商人との関係も考慮に入れつつ特に城門前の兵を例年より多く配置することになるかと。闘技大会も近くなっておりますし、そちらの準備についても進めていかなければ。そうそう、レグホーンとの境にあたるムース河に掛かる橋の改修工事も、今のところは順調に進んでおりますが」
「わかった、わかったからちょっと待て。俺が今やらなきゃいけないのはどれだ」
セレンは深くため息をつき、山のように積んである書類の中からいくつかを抜き出してイオの目の前に積み上げていく。山が高くなる度にイオはうんざりとした表情をあらわにしていった。
「これが明日までに終わらせなければいけない分、こちらが遅くとも明後日までには終わらせていただきたい分、そちらが来週までの分で残りは暇を見つけて済ましておいてください」
ついでに他の分も仕分けをし、どこに暇があるんだと喚くイオを無視してセレンは小間使いを振り向いた。
「スイ、陛下が逃げ出しそうになったら遠慮なく椅子に縛り付けろ。眠りそうになったら水を掛けても構わん。それでも手に余るようなら下からカイアナイト様をお連れしろ」
元気良く了解の意を示した小間使いを恨めしそうに見ているイオを一瞥し、セレンは持ってきたのよりも多くの紙の束を持って部屋を出た。
廊下の窓から、兵宿舎の中庭で兵士達が訓練に励む様子が見える。アンバーの姿は見えないが、中で警備の配置やら何やらの書類仕事をこなしているのだろう。途中会った兵士にアンバー宛ての書類を渡し、財務官付きの小間使いに言伝てを頼み、セレンの抱えた書類は執務室に着くまでに減ったり増えたりを繰り返した。
執務室につけばイオの部屋にあったのと大して変わらぬ山がセレンを迎えてくれた。そこに持ってきた書類を足し、セレンは水差しを手に取る。今朝取り替えられたそれは、昼を過ぎた今すっかり汗をかいてしまっていた。
「失礼します。お水取り替えに来ましたよー」
「トリカ」
名を呼びながら振り返れば、ノックもそこそこに入ってきたトリカが新しい水差しを持って執務室に入ってきた。
「あ、今飲むところでしたか。はいどうぞ」
セレンが持っていた水差しを取り上げ、トリカが横のカップに持ってきた水を注ぐ。一挙一動がてきぱきとした様子は、見ていて気持ちがよかった。
「ていうかセレン様、今直に飲もうとしてましたよね。何の為にコップがあると思ってるんですか」
渡されたコップに口をつけた途端トリカに文句を言われ、セレンは苦笑する。トリカは気にする様子もなく、「空気入れ替えますよ」とセレンの返事を聞く前に窓を開けた。丁度吹いてきた風にカーテンが翻り、慌てた様子でトリカが窓の隙間を細くした。けれど間に合わなかったようで、机の上に乗っていた紙がばらばらと部屋に散らばった。
「ごめんなさい、ああもう嫌になっちゃう」
謝罪と愚痴を同時に言いながら紙を拾おうとするトリカを制し、セレンは自分で紙を拾い集めた。元通りの順に直し、束を机の上に置く。
「本当にすみません、大丈夫でしたか」
「気にするな。外に出ていってしまった訳ではないから」
いっそなくなってしまった方がよかったかもな、とセレンは思ったが、すぐに首を振りまだ部屋の中にいるトリカを見た。
「どうかしたか」
何か訝しげな様子のトリカにそう言えば、トリカは数秒首を傾げたまま何か迷っている様子だったが、やがて口を開いた。
「それ、冬物ですよね。乾くの遅いって洗濯係が愚痴ってるんですよ。そろそろ暑くありませんか」
それ、とトリカが指したのはセレンのフードマントで、イリスお手製のこれは確かに保温に優れた冬物だった。暑いとはあまり感じなかったが、これからは鬱陶しく感じることもあるだろう。
「良かったら適当なの見繕ってきましょうか。うち実家仕立て屋なんで」
お安くしときますよ、と笑うトリカに、セレンは笑いを返しながらも首を横に振った。
「私は寒がりなんだ。まだ当分はいらないよ」
なあんだ、とトリカが水差しを置いていた棚の上を拭きながら言った。結露の垂れた水滴を拭いた跡が濃い茶色になり、すっと消えていく。
「残念。ディアノイア様がうちのお得意様になった、なんてことになったら両親が喜ぶのに」
「生憎私は皆に嫌われているからな、余り喜びはしないだろう」
椅子に掛けながら言ったセレンの言葉に、トリカは「そんなことありませんよ」と振り返った。
「だって私は好きですよ。それにこの前家に帰った時、親にセレン様は良い人なんだねって言われましたもん」
棚を拭く手を止め、トリカが身体ごとセレンに向ける。
「皆に嫌われてるなんて思い込みですよ。そりゃ皆に好かれてるなんて言えませんけど、私ら掃除係とか給仕の子らとか、特にセレン様と直に話したことのある子はちゃんとわかってますから、セレン様が言われてるような人じゃないってこと」
その言葉に今まで聞いた自分の噂が一気に頭をよぎり、セレンは少しうんざりした気持ちになった。くすくすと笑い、トリカが続ける。
「実はものすごくおじいさんだとか他国のスパイだとか、夜な夜なネズミを食べるからご飯食べないんだとか、言ってる人はいますけどね」
気にしちゃ駄目ですよ、とトリカが扉に手を掛けた。
「そのうち皆気付きますから。あ、そうだ後でロベルに何か軽いもの運ばせますね。駄目ですよ食事はちゃんと取らなきゃ、怒られるのあの子らなんですから」
また夜に、と言い残し、トリカは執務室を出て行った。いつも感じることだが、トリカがいなくなった後は妙に部屋が静かになる。まるで“Artos”の宴会を抜け出して自室へ移った後のように。小さく息をつき、セレンはペンに手を伸ばした。
最後に“Artos”へ行ったのはいつだったか。カイアナイトの薬も、後半はルピに取りに行かせていた気がする。
淋しい、帰りたいと思うこともあったが、そんな感傷に浸る暇はなかった。忙殺されるとはこういうことをいうのだろうか。確かに城の生活は行き届いていたが、今の余裕ができたセレンには、“Artos”の塩気がきいたタータ特製のスープだとかこっそり台所からくすねてきたパンだとか、炉端にいるといつも出てくる酒を垂らした紅茶だとかがふとした拍子によみがえるほどに懐かしかった。
帰りたい。一度思うとその思いがより強くなった。目の前の紙切れに集中しなければと思いつつも、セレンは今ごろ緑が美しいだろう術師の家を思い浮かべてしまう。
深いため息が知らず知らずのうちに漏れ、セレンはペンを机に投げ出した。
昼下がりの風が細く開いた窓から入りこみ、カーテンをゆらゆらと揺らしていく。セレンは頬杖をついてぼんやりと目の前の紙の山を眺めた。減らしても減らしても何時の間にか積み上げられている紙の山。それでも最近は徐々に低くなりつつある。なくなることは決してないのだけれど。
もう一度ため息をついた時、セレンは隣りの部屋、私室で何か物音がするのに気付いた。明らかに人の気配だ。
鈍っている自分の勘に舌打ちをしかけ、セレンは音を立てずに椅子を立ち私室への扉の前に身を寄せる。相手はどうやら1人、気配の位置からすると暖炉の傍に立っている。おそらくそこから入ったのだろう。この昼日中に侵入するなんて、何を考えているのか。
中に入るべきか、もう少し様子を窺うべきか。真昼間の侵入者にセレンが対応を迷っているうちに、気配は消えてしまった。
完全に気配が消え、戻ってくる様子もないとわかってからセレンは扉を開けた。暖炉には久しく火が入れられた様子もなく、寝室への扉も閉じられたままだ。今朝方部屋を出たときと唯一違うのは、テーブルの上に置かれた見慣れぬ包み。慎重に近付き、麻紐で結わえられたそれを観察する。包みを持ち上げようとした時、その下から白く長いものがにゅるりと出てきた。
《何 驚いてる》
「ルピ」
からかうように噛みつく真似をしたルピの頭を指で小突き、セレンは包みに目を戻す。さっき動かした拍子に、包みの隙間から紙切れが出てきていた。
たった数行の、手紙とも言えないようなメモが書きつけられたそれに目を通し、セレンは包みを解いた。出てきたのは真っ白のフードマントが2着。今セレンが着ているのと殆ど変わらないデザインだが、それよりずっと軽く通気性も良さそうだ。
《イリスが作った。ラピが持ってきた。ラズは留守番》
するするとセレンの腕に登り、ルピがセレンの耳元で囁く。
《セレンが何を聞きたいかルピは知っている セレンがどうしたいかルピは知っている けど教えてやらない どうすればいいのか ルピは教えない それはセレンが知っている》
楽しそうに歌うように言うルピの言葉は頭に入らず、ただセレンは俯いてフードを強く握り締めた。
'08/05/08
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