I deny you.







 闘技大会に向け、いつも以上に兵舎やその中庭には活気が溢れていた。そんな中人一倍大きな声を張り上げているのはアンバーだ。
 セレンは渡り廊下から稽古をつけているアンバーを見下ろし、相手をしている兵士に同情した。
 闘技大会にケイルは出場できない。表向きは皆に平等な大会にする為だったが、実を言えば国を護る要のケイルが万が一にも負けたりしたら、皆に示しがつかないからだ。出場できないと知った時のアンバーは、ケイルになりたてで事務仕事に追われていた頃を思い出させる荒れようだったが、どうやら気持ちを切り替えたらしい。
 稽古というには些か厳し過ぎるそれをしばらく眺め、セレンは抱えていた書類を持ち直した。闘技大会はセレンにとって織物市ほど忙しい訳ではない。もともとケイルの管轄行事だ。それに準備と言ったって、会場設置と参加者登録ほどしかない。とは言えイオには細々とした仕事が積もっていたので、セレンはそちらの手伝いをする方が多かった。
 行事は大切だが、それ以外の仕事も毎日ある。特に今はアンバーの分の書類仕事も肩代わりしてやっているので、結果的にセレンは忙しい訳ではないが暇でもない日々を過ごしていた。
 朝ではないが昼にはまだ早い頃合、執務室に戻ったら何か軽い物でも食べるかと、セレンは給仕室へ足を向ける。と、丁度向かいからラベイが歩いてくるのが見えた。
 目が合う。とはいえセレンの顔の半分はフードが影を落としていて相手からは見えないのだろうけれど。ラベイは何事もなかったかのようにセレンから視線を逸らした。少し足が早くなる。気付かなかったことにでもする気なのだろうか。
「おはようございます、ラベイ第1分隊隊長殿」
 けれどセレンは敢えて声を掛けた。するとラベイがまるでたった今気付いたかのようにセレンに目を向ける。その一瞬前の苦い表情を、セレンは見逃さなかった。
「お早い、とはもう言えぬ頃合ですがね。ディアノイア様」
 ラベイの皮肉もどきに、セレンは笑みを返す。口元は相手がセレンの表情を窺える唯一と言って言い程の場所だ。
「もうじき闘技大会が始まりますね。昨年も大会責任を任されていたと伺っておりますが、今年も順調なようで何よりです」
「兵士も国民も、皆楽しみにしておりますから。失敗する訳にはいきません」
 ラベイが窓から兵宿舎を見下ろす。相変わらずアンバーの厳し過ぎる稽古は続いているようだ。
「隊長に就任される以前は大会に参加されていたそうですが、やはり今でも参加したいと感じられますか」
「無論です。平和な世の中ですから力試しをする機会などそうそうありません。隊長とは名ばかりの事務仕事に追われる今では、相当身体も鈍っているのでしょうが」
 木剣同士がぶつかり合う鈍い音に、それでもセレンの身体は反応してしまう。身体を動かしたい。思いきり全身を使って、あの興奮を味わいたい。元々が一兵士から始まったラベイなら、その欲求は尚更のことだろう。
 ラベイがつとセレンに視線を向ける。セレンは何か言おうとしたが、「まだ業務がありますので」と有無を言わせぬ口調でラベイが一礼し、相も変らぬ固い表情のままその場を去っていった。
 ラベイの姿が廊下の角を曲がるまで見送り、セレンは再び中庭に目を落とす。今アンバーの相手をしているのは、つい先日入隊したばかりのまだセレンと大して体躯の変わらぬ少年だった。5秒と経たぬ内に少年の身体が剣もろとも後ろに弾け飛ぶ。観戦という名の休憩を取っていた兵士達から野次が飛び、少年が剣を取ってまたアンバーに向かっていった。
 二度目に少年が飛ばされる前に、セレンもその場を後にした。

***

「珍しいな、お前がこっちまで来るなんて」
 夜、1人執務室で雑務をこなしているとノックも無しにアンバーが入ってきた。セレンの言葉にアンバーは何も言わずに扉を閉める。
「丁度いい、明日にでも持って行こうかと思っていたものが」
「朝、ラベイと話してたな」
 書類の山を漁るセレンを遮り、アンバーが腕組みをする。蝋燭の灯りを受ける金の両眼は、朝とは違い静かな表情を浮かべている。
「気付いてたのか」
 再びペンを動かすセレンの手元を眺めながら、アンバーが口を開いた。
「口は悪ぃけど、あいつは悪い奴じゃねー。頭固ぇだけだ」
「急にどうしたんだよ。俺の悪口でも言ってたか」
 言い返してこないところを見ると図星らしい。小さくため息をつき、セレンは「あのな」とアンバーを見上げた。
「別に俺はラベイを嫌ってなんかねぇよ。仕事はできるし部下からの信頼もある。今じゃイオのことも気に入ってるみたいだし、充分だろ」
「立て」
 唐突なアンバーの言葉にセレンはペンを止めた。もう一度立てと言われ、意味がわからぬままに立ち上がる。執務机を挟んで向き合っている状態だ。アンバーの眉間に皺が寄り、机についているセレンの手が睨みつけられた。
「これか」
 けれどアンバーはそれ以上何も言わず、ただ机の上から書類を取り上げた。
「何なんだよお前、腹立つな。何がしたいんだ」
「てめーが馬鹿だって話だよ。ふらふらしやがって真っ直ぐ立つこともできてねーじゃねーか、さっさと寝ろ馬鹿。イオに見られたらまた文句言われんぞ」
 お前もか、とセレンはうんざりした気持ちでアンバーを見た。八つ当たりとわかっているのに口が勝手に動き出す。
「てめぇに馬鹿呼ばわりされたくねぇよ、毎度毎度ご丁寧に書類に間違い作りやがって、それも内容じゃなくて綴り、お陰でこっちは無駄な仕事が増えるんだ、文句言うくらいなら綴りのひとつでも覚えろよ」
 声が大きくなるセレンをじっと見下ろすアンバーに、余計に腹が立つ。いつもなら言い返してくる癖に、何故今に限って何も言わないのか。
「大体寝ろ寝ろ言ってるけどな、寝る時間なんてどこにあるんだよ、お前らがぐだぐだしてる所為で他所の業務に迷惑かかってんだぞ、俺がやらなきゃ間に合わないんだよいいじゃねぇかそれで上手く回ってんだから、文句言うならさっさとてめぇの仕事済ませろ馬鹿」
 耳鳴りがする。椅子に腰を下ろし、セレンは机に肘をついた。アンバーがやはり何も言わず、ただセレンを見下ろしているのを感じた。
「それ持ってさっさと出てけ。俺はまだやることあんだよ」
 視線を感じる。けれどセレンはじっとペンを見つめたまま視線を上げなかった。やがて視線が逸れるのを感じ、アンバーが無言のまま部屋を出ていく。アンバーが扉に手を掛けた途端、扉の前で警備についていた兵士が慌てる様子を感じた。
 一旦頭が冷めると、恥ずかしくて堪らなかった。自分で自分が嫌になる。さっきの怒鳴り声は警備の兵士にも聞こえただろう。
 子供みたいに感情を爆発させて声を荒げて、言ったことも勝手過ぎる。わかっているのだ、気遣われていることは。イオに会う度に言われている。その時は本当に申し訳なく思うのに、何故か今、アンバーに言われたということに無性に腹が立ってしまった。
 アンバーには気遣われたくなかった。理由なんてわからない。ただアンバーに言われた、言われる自分が許せなかったのだ。
 謝らなければと思い、追いかけたいのに身体が動かない。ただ消える赤髪を、閉じていく扉を見ることしかできない。しばらくの後、セレンは重い身体を引きずって扉の前に立って外の兵士に声を掛けた。
「今日はもういい。帰ってくれ」
 がた、と何かが扉にぶつかる音がした。しかしとうろたえた様子の兵士に、セレンは強く言い重ねる。
「帰れ。今夜は誰もこの一帯に近付くなと伝えろ」
 また荒くなる声にセレンは苛立ち、大きく息をついた。「わかったな」と念押しすれば、兵士が了解の意を示し、走って扉の前から立ち去るのを感じた。
 水差しを取り直接に水を飲む。一瞬トリカの怒る顔が思い浮かんだが、すぐにセレンはそれを振り払った。口の端から水か零れ、喉を伝う。冷たさが気持ち良い。水を全て飲み干し、セレンは私室に入って行った。



'08/05/24


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