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 新たな王。新たな政治。そんなもの国民にとっては大した意味をなさない。国民は衣食住と身の安全が確保されると知ると、先日行われた突然の即位への関心をこちらが拍子抜けするほどに失ってしまった。
 新体制が始まって一月が過ぎた今、セレンは未だ旧体制から新体制への引継ぎ業務に追われていた。ジャカレーは優秀な為政者だったが、些かその為政は旧式すぎた。今までとは違うということを国内外に知らしめる為には、袋だけでなく中身も変えなければならない。
 歴史だけはあるヘリオットは近隣諸国から一目置かれてはいたが、交流は少なかった。閉鎖的な国は発展しない。だからセレンは諸々の業務に追われつつ、頭の固い年寄り共を説得にかかっていた。
「お疲れ」
 夕方、執務室でセレンが今日の話し合いのまとめをしていると、イオが湯気を立てるマグカップをトレーに乗せてノックもなしに入ってきた。
 セレンはちらと視線をやり、すぐに手もとの書類に目を戻す。イオは気に止める様子もなくトレーを執務机に置き、机に手をついてセレンを上から覗き込んだ。
「お前また俺の机から勝手に仕事持ってったろ」
「どうせ俺も目を通さなきゃいけない物だ、俺がやっても支障ない」
 食事処で働けるのではないかという笑顔で、イオが「セレン」と呼んだ。声音は穏やかだが怒っている。セレンはため息をつき、サインをしてからペンをインク壷に立てた。
「お前はこんな紙切れと遊ぶよりやらなきゃいけないことがあるだろう」
「お前もこんな紙切れと遊ぶよりやらなきゃいけないことがあんだろうが」
 セレンの目の前に置かれている書類を指の背で叩き、イオが言った。
「脅しすかしはするなっつったのはお前だろう。折角人がネタを集めたってのにフイにしやがって、お陰でじじい共はこっちの話を」
「そういうことじゃない」
 イオがセレンの言葉を遮る。セレンは、紙切れと遊ぶより優先すべき事柄と言えば、セレン達の意見と反対のことを言いたがる古参の年寄り共の説得くらいしか思い当たらなかったので、視線をイオから泳がし他に思い当たることを探した。400年近く細々とした交流が続いているレグホーンへの世代交替の報告状はすでに出したし、長年冷戦状態が続いているウィスタリアの動向も把握している。財政にも問題はない。以前ジャカレー側についていた奴等への対策もついている。
 何が、とセレンが尋ねようと口を開ける前に目の前に指を突きつけられた。
「最後に飯食ったのいつだ、ベッド入ったのは?」
「は、えっと」
 考え込んだところで我に返る。考えないと思い出せなかったセレンの頭上でイオが満面の笑みを浮かべているのがわかり、セレンはため息をついた。
「でもルピがさっきフォッシルのサンドイッチを」
「今朝はさっきとは言わねーよな」
「今日は寝たし」
「朝の2時寝で4時起きは寝たうちに入らん」
 黙りこむセレンにイオが腕組みをして深いため息をついた。「セレン」と呼ぶ声はさっきのとは違い、呆れたような困ったような声音だった。
「確かにやらなきゃいけないこといっぱいだし大変なのもわかるけどさ、全部全部を今日やらなきゃいけない訳じゃねーだろ。頑張ってくれてんのはいいんだけど、お前は頑張り過ぎ」
 気遣っているのが痛いほどにわかるセレンは何も言い返せない。言いたいことは山ほどある。時間はあってもあっても足りないし、やらなければならないことは山積みだ。今日どうしてもやらなければならない分だけを済ましていけば食事や睡眠も取れるには取れるだろうが、そんなギリギリの状態では新しいことに手をつけられるのがいつになるかわからない。
 それに、イオの負担もできるだけ取り除いてやりたかった。セレンも忙しいが、イオはそれ以上に忙しい。顔にも行動にも見せないが、イオも連日ろくな食事や睡眠を取っていないのをセレンは知っていた。
 少しでも楽にしてやりたい。少しでも些事に割く時間を減らして、今やらなければならないことに集中させてやりたい。
 セレンは小さく息を整え、イオを見上げた。
「だったらこれとこれ、後これの目通しとサイン、それからこの前渡したモーブへの親書にサインと押印しておけ、何日経ったと思ってる。人に文句つけるくらいなら自分のやるべきことをやれ」
 言葉と共に書類をイオの手に押しつけてやれば、イオは怒ったように口を開き掛けた。けれどフードの下で笑っているセレンに気付いたのだろう、イオが呆れ混じりに一息をつく。そして書類を小脇に抱え、トレーからマグカップのひとつをセレンの前に置いた。セレンがマグカップを手に取ったのを見てから、イオがもうひとつのカップを手に取る。
「つーか寝た時間はお前にベッドに押しこまれたからともかく、なんで起きた時間まで知ってるんだよ」
「最近朝はアンバーの鍛錬に付き合ってんだろ。あいつも早起きだよな」
「あれは夜が早いからだろ。つっても最近は事務仕事ができたから遅くまで起きてるみてーだけど」
 やるのはいいが間違いが多過ぎる、とセレンが文句を言えばイオが笑った。アンバーが慣れない書類仕事に四苦八苦しているのは、セレンだけでなく兵士達の悩みの種でもあることを知っているからだ。
 書類の山を前に机に向かって不機嫌を隠そうともしないアンバーは、セレンとイオからしたら面白いことこのうえなかったが、扉を開けた途端鳥でも射殺さんばかりの、それも本人曰くただ見ただけの視線で睨みつけてくる様子は、彼の部下である兵士達にとっては恐怖そのものらしい。
 温かな液体を一口すすり、セレンは机に腰を掛けているイオを見上げた。視線に気付いたのか、イオがセレンを見下ろす。揺れる蝋燭の灯りを受けてイオの金髪がきらきらと光った。
「王―カイアナイトは元気か」
「あー、大分な。ひ弱いのは元々だから仕方ないけど、かなり回復したみたいだ。早くフォッシルのとこに行きたいって言ってた」
 退位したら地下書庫でフォッシルの手伝いをしたい、というのは、カイアナイトが前々から言っていたことだったらしい。
 カイアナイトを“王”と言ってしまうセレンに苦笑し、イオが書類を一冊取った。それを流し読むイオから視線を外し、セレンは口を開く。
「本当に良かったのか、ジャカレーのこと」
「おう」
 すぐには返ってこないだろうと思っていた問い掛けに即答され、逆にセレンが言葉に詰まった。イオは書類から目を上げようともしない。1枚を捲りながらイオが続けた。
「許せない、けどさ。正直殺してやりたいとか思ったけど。順当だろ」
 手もとのマグカップを見つめ、セレンはイオの胸中を推し量った。
 ジャカレーはヘリオットから永久追放された。共犯であるケイルも同じだ。一切れのパンと一瓶の水だけを持たせ、イオはジャカレーをヘリオットの領地から追い出した。
 死刑のないヘリオットにおいて、最も重い刑罰は終身刑か永久追放だった。ただ終身刑は死ぬまで監視下に置かれるのに対し、永久追放は国内に入らなければ野垂れ死のうが他国へ入りこもうが関与しない。だから、滅多にいなかったが、人殺しは終身刑になるのが慣例だった。けれどイオはジャカレーを追い出した。
 顔すら見たくない、できるだけ遠くへ離れたい。そんな気持ちなのだろうと思ったが、なんとなく釈然としなかった。
 待っていてもイオはそれ以上話す気はないようで、セレンもこれ以上深く尋ねる気はなかった。殺してやりたいと言うものの、実際イオはジャカレーの、他者の命を奪うことはできないだろう。
 イオはカイアナイトいうところの王としての資質に恵まれているが、如何せん甘過ぎるとセレンは感じていた。腹で何を企んでいるのかそれとも何も考えていないのか未だに読めないが、行動の一つひとつが厳しさに欠けている。そのあたりはアンバーとセレンとで補わなければ、とセレンはこの1ヶ月感じていた。
 半ば落とすようにして、見ていた書類を積み上げられた紙の上に置き、イオが机から降りた。
「よし決めた。お前には毎日最低4時間の睡眠と2回の食事を取る事を命じる。命令だからな、従えよ」
「政務に支障をきたすので従いかねます陛下」
 即答してやれば、イオはなんとも言いがたい目でセレンを見下ろし、呆れたように笑った。
「もうちょいだから。もうちょっとで全部すっきりする。それまで辛抱してくれよ」
 蝋燭が揺れるイオの両眼は、けれどどこまでも蒼く澄んでいて思わずセレンは息を呑む。もう寝ろよ、と言い残し部屋を出ていくイオにセレンは頷くことしかできなかった。

***

 まだ陽が昇るか昇らないかの頃、冷たい空気が漂う鍛錬場ではアンバーが1人素振りをしていた。セレンは何も言わないまま中へ入り、しばらくその様子を眺めた後唐突にナイフを投げる。金属特有のよく響く音を出しナイフが弾かれ、最早恒例となった身体慣らしが始まった。
 気付かず夜通し仕事をしていたセレンが気分転換に散歩をしていた時、1人稽古をしているアンバーを見てちょっかいをかけたのが初めだった。始めたばかりのころはセレンの身体が鈍っていたこともあり負けてばかりだったが、今では3回に1回は勝てるようになってきている。5回に一度は引き分けだ。
 真正面から剣での勝負では万が一にもセレンが勝つことはない。元々セレンは相手の隙をつく狡い戦い方をしてきた。いくら慣れた得物を使っていても、このようにだだっ広い場所では戦いにくいのに変わりない。もっともそれは、セレンのような相手との戦いに慣れていないアンバーにとっても同じようだった。
 小気味良い音を立ててセレンのナイフが宙を舞い、床に突き刺さる。フードを下ろしナイフを拾い、セレンは剣を腰に収めるアンバーを見上げた。今日もセレンの負けだ。
「お前、しばらくは来ない方がいいかもな」
 唐突なアンバーの言葉にセレンは眉をひそめる。言い方がアンバーらしくない。来て欲しくないなら来るなとはっきり言うだろうアンバーが、わざわざぼかした言い方をするなんて。
「何かあったか」
 少しの間の後、フードを被れと言ってからアンバーは答えた。
「うちの奴らがうるせーんだ。最近お前が兵舎の近くをうろついてるって」
 セレンはアンバーとイオの前、それから1人の時以外は決してフードマントを脱がずにすっぽりと身を隠していた。当然城中で妙な噂が経っているのは知っている。実は齢100を越えた老人だとか中身は毎日入れ替わっているとか、流石に女だと言われているとルピにからかい混じりに言われた時はその腹だか尻尾だかを結んでやりたくなったが。
 兵士達が、およそディアノイアには似つかわしくない場所でセレンを見かければ、気になるのが道理だろう。
 普段は被っていると露骨に嫌な顔をするフードを被れと言ったことも考えると、もしかしたら興味を持った兵士たちが何か嗅ぎまわっているのかもしれない。ただでさえ娯楽の少ない日々だ、それも仕方ないと言える。
 しばらくは控える、と言い残し、セレンは鍛錬場を後にした。

 陽が昇り、兵舎の内外で慌しく動き回る兵士達を眺めながらセレンは城へと歩いていた。もう1時間もしないうちにアンバーの号令がかかり、中庭にずらりと兵士が並んで回り稽古を始めるのだろう。
 ちらほらと見知らぬ、セレンと対して変わらぬ年齢の兵士の顔が見える。新しく入った兵士達だろう。新入り兵士の一覧は隊ごとにまとめられ提出されていたが、まだ目を通していなかった。
 城につき、途中見掛けた給仕に食事を運ぶよう頼むとセレンは執務室に戻った。山積みの、それでも初めに比べると随分減った書類を前に大きく深呼吸して、セレンは気持ちを切り替える。最近では仕事を楽しむ余裕も出てきた。年寄り達がようやく会話をしてくれ始めたお陰でもあるのだろう。
 何をしたのかは知らないが、イオが動いてくれたお陰で年寄り達は少しずつではあるが政務に参加してくれるようになった。ジャカレーが抜けた後の大幅な人事によって入った若い者たちも、積極的にイオやセレンを手伝ってくれている。
 新入り兵士達の簡単な表を眺めていると、給仕がトレイに簡単な朝食を乗せて持ってきた。
「ありがとう。朝早くから済まなかった」
 セレンは礼を言ったが、給仕は固い表情のままトレイを執務机の端に置き、そのまま去って行こうとした。常にフードを被った得体の知れないセレンは、警戒されても仕方ないだろう。
「そうだ、ロベル」
 ふと思い出してセレンは扉に手を掛けていた給仕を呼び止めた。給仕は一瞬動きを止め、驚いたような顔をしてセレンを振り返った。もう自分の仕事は終わったものだと思っていたのだろう。
「掃除係のトリカを知っているか。いつもは彼女がここを掃除してくれているんだが、昨日は別の者がやったらしい。何かあったのか」
「いえ、あの子、トリカはお暇をもらって家に帰ってまして、明日には戻ると思います、はい、昨日はペルマが、その、ディアノイア様のお部屋のお掃除を、今日も多分ペルマがお掃除をすると」
「そうか、ありがとう。ではペルマに伝えておいてくれ、掃除は執務室まででいい、奥は自分ですると」  給仕は大きく頷き、慌しく部屋を出て行った。閉められた扉を見て、セレンは湯気を立てるカップを持ち上げる。そろそろ冷たい飲み物でいい陽気だろうか。
 トリカはディアナと同じくらいの年頃で、豊かなオレンジ色の髪が印象的な明るい掃除係だ。セレンのフードを気にしない貴重な1人でもある。
 掃除をしてくれるのはありがたかったが、普段自分が生活するところは自分で片付けるようタータに躾られてきたセレンにとって、ベッドまでが丁寧に整えられているというのは落ち着かないどころか気持ちが悪かった。それに部屋ではルピが寝ていることもある。トリカには言ってあったのだが、ペルマという代わりの掃除係には伝えてくれなかったようだ。
 表を流し読みながら朝食を済ませ、朝会までに山を少しでも減らそうとセレンはペンに手を伸ばした。


'08/04/21


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