a Certain day of winter.







 久々に戻った“Artos”で、セレンは新年を迎える準備の手伝いをする訳でもなく、暖炉の前に陣取ってその温もりを楽しんでいた。勿論里帰りなどという訳ではない。王の薬を取りに来たのだ。だがスネイクは生憎留守にしていた。話では明日には戻るらしく、ならばとセレンは情報収集も兼ねて“Artos”で待つことにしたのだ。
 初めのうちこそ色々話し掛けられもしたが、皆何かと忙しい。すぐにセレンは炉端と暇、おまけにカーフがタータからくすねてきた温かなスープを手に入れた。
「暇そうだな」
 湯気の立つカップを片手に、カーフがセレンの横に腰を下ろした。場所を空けながらセレンはフード越しに意地悪く言う。
「いいのか、サボって」
「ディアナもイリスも買い出し行ったしタータは店が忙しい。皆が忙しいんだから俺が代わりに休んどいてやるんだよ」
 にやりと笑ってそう返され、セレンも笑った。それからすぐに他愛の無い話をカーフが始める。主に、セレンがいない間いかにディアナ達の相手が大変だったかということだったが。
 カーフの愚痴が一通り終わりカップの中身も空になった頃、カーフが不意に真面目な顔になった。
「最近またジャカレーが妙なこと企んでるって話、聞いたか」
「どんな」
 居間には数人がたむろするばかりで、暖炉の周り、声の届くところにはセレン達以外に誰もいない。それでも声を落としたカーフに合わせ、セレンも声を低くする。
「ジャカレーってより、アイオライトの話だ。王の弟の。どうも近頃ジャカレーはアイオライトの行動を気にしてるみてぇなんだ」
 薪が爆ぜる。ジャカレーの行動が妙なのは、ルピから聞いて知っていた。最近になってアイオライトを気にするような行動をしていると。また、城内で以前からジャカレーを良く思っていない者達を警戒しているようだと。本来なら王位を狙う者の行動としては当たり前なのだが、このところそれが顕著になってきている。
 無論、イオにだって今までも申し訳程度だが見張りはついていたのだ。いくら危険因子になりえない、放っておかれているといえど現在の王位第一継承権を持っているのだから、王位を狙おうが狙うまいが、まったくの無関心でいる訳ではなかった。それがあまりにもお粗末過ぎたというだけで。ジャカレーほど頭の切れる男にしては、ということだが。
 今までは、何か妙なことをしていないかと見張っているだけだった。それが今では何か妙なことをしていないかを“探って”いる。何か粗捜しでもしているかのように。イオもそれに気付いてか、最近では書庫に姿を見せることはめっきり少なくなっていた。薬の件はルピが伝えてくれている。
「で、近々人事があるらしい。話じゃアンバー、前ケイルの息子を近衛から外すんだと」
 軽く相槌を打ちつつ、セレンは内心動揺していた。ジャカレーの動きが怪しい。アンバーをイオから離す。まさか、企みに気付かれたのか。企みそのものに気付いていないとしても、“何か”を企んでいる、ということに感付いたのか。それともまったく別の意図からなのだろうか。だとしたら考えられるのは、ジャカレー自身が“何か”を起こすということ。ジャカレーが望んでいる“何か”は言わずと知れている。
「近衛からケイルの直轄に入るって話だ。本当なら出世もいいとこだぜ。奔放な弟王子サマのお目付けから三権の直轄部下ってんだからな。どっちが気の毒なんだか」
 カーフの言葉に反発しそうになり、すんでのところで言葉を飲みこむ。知らない者にとっては今でもイオは“阿呆”なのだ。それが、悔しい。他人のことなのに、まるで自分のことのように悔しかった。違う。違う。あいつは阿呆なんかじゃない。お前も話せばすぐわかる。そう喚きたいのを抑え、セレンはカーフの皮肉に笑った。
「次戻ってくんのはいつだ」
「さぁ」
 とぼけたふりをして言うと、カーフに頭を鷲掴みにされた。そのままぐいと引き寄せられ、耳元で囁かれる。
「お前も関わってるんだろう」
 答えず、けれど動きを止めたことがそのまま返答の意となる。真っ黒な両眼に、暖炉の炎がちらちらと踊っている。
「安心しな。お前は誰にも気付かれてねぇよ。どうにもイリスの様子がおかしいんで、探ってみたらアイオライトに辿りついたんだ」
 手が離れ、カーフが暖炉に薪を足した。一瞬弱まった炎はすぐに餌を呑み込んでいく。
「別に止めようとかそういうんじゃねーけどよ、なんかできることがあんなら遠慮なく言え。“楽しいこと”1人占めしようったってそうはいかねーからな」
 に、と笑うカーフに、セレンはため息の代わりに口の端を吊り上げた。

***

 いつも通りの昼下がり、地下書庫の通路の一つ。傍らにはまだ読んでない資料と、反対側には終わった資料、その上には湯気を立てるのを止めたマグカップ。そして何故か通路の斜向かい、窓から日差しが差し込む場所にはアンバーが腕組みをして不機嫌を隠そうともせずに座っていた。
 イオが来ない代わり、という訳ではないだろうが、このところアンバーはよく地下書庫に顔を見せるようになっていた。もっとも来たからといってセレンと話をする訳ではなく、フォッシルに用がある訳でもない。ただ小部屋に座ってセレンが“勉強”するのを黙って見ていたり、今のように日向ぼっこをしているだけだ。そこにセレンがいようがいまいが関係ないらしい。
 原因は、直接尋ねた訳ではないが知っていた。件の人事異動について相当不満があるらしい。無理もない、とセレンは思う。アンバーがケイルの直下に入る代わりに、ジャカレーの手下がイオの近衛になったのだ。しかもその近衛は大層優秀らしく、常にイオの後ろを影の如くついて歩いている。普通は行動を慎むのだろうが、ルピによればイオは相変わらず街を出歩いているらしい。最近では城前市場の連中にすっかり次期王とその影の顔を覚えられたようだ。もっとも今までも出歩いていたから、“あぁこれがそうだったのか”という認識らしい。
 よくもまぁそんな度胸がある、と初めはイオの行動に呆れたが、それはジャカレーの不審な行動に気付いていない振りをしていることに対してではなく、政治王族にあまり好感情を抱いているとは言えない国民の前にふらふらと身分を曝け出して出歩いていることに、だった。大半は興味がないのだろうが、“自分がジャカレーを倒してやる”という過激な思想の持ち主もいることを知っているセレンからしてみれば胃に悪い。幸い影はよくその仕事を果たしてくれているようだった。
 アンバーの方はといえば、ケイルの直轄とは名ばかりで兵士の鍛錬にも参加できず見廻りもできず、ただケイルの後をついて歩いたり荷物運びをしたりだのというまるで小間遣いのようなことをやらされたらしい。アンバーにとって幸いだったのは、ケイルがその役にしては少々精神的にひ弱だったということだ。人事異動があって1週間経つか経たぬかの内に、不機嫌を隠す努力の欠片も見せないアンバーを傍に置くのは精神衛生上宜しくないということに気付いたらしい。表向きは“城内見廻り”だったが、実質1日の殆どは自由時間を与えられている。
 かと言ってイオに会いに行く訳にも行かず、鍛錬場にも先の人事異動によりジャカレーよりの者が配置された為あまり入り浸ることもできず、結果この地下書庫で自由時間の大半を過ごすことに決めてしまったようだった。
 セレンからすればあまり歓迎するとは言えないが、追い出す理由もない。むしろ薄く同情さえしていたから、アンバーの好きなようにさせていた。
 始終眉間に皺を寄せているアンバーに、初めのうちこそ良い気持ちはしなかった。けれども面白いもので、こうも毎日顔を会わせているうちに僅かながらもその機嫌の良し悪しがわかるようになってきた。機嫌の良い時は滅多にないから、その表情の僅かな違いに気付くのは大抵機嫌が悪い時だったのだけれど。例えば今は抑えてはいるが、相当虫の居所が悪いようだ。
 触らぬ神になんとやらとは言ったもので、セレンは時々アンバーを窺う以外はずっと資料に集中していた。膨大な資料はいくら時間があっても全てに目を通すには到底足りず、それらを分析比較し整理して頭に仕舞いこむのには尚更だった。余計なこと、例えば今にも爆ぜそうな薪をつつくような暇はない。その合間合間にだって、ルピが城内の情報を運んでくるのだ。
 靴の中で縮こまった足指を曲げたり伸ばしたりしながら、セレンは一段落ついた資料を膝においてマグカップを両手で包み込んだ。
「おい」
 生温い液体で渇いた喉を湿らせていると、低い不機嫌丸出しの声が斜め前から聞こえてきた。
「なんだ」
 目を向けぬまま答えると、アンバーは腕組みを崩さぬままセレンをじっと見据えて言った。
「何か知らねぇのか」
 言いたいことはわかるが言葉が足りないと、セレンは余程言ってやりたかったが、下手につつくのも面倒だと感じた。アンバーが言いたいのは恐らくジャカレーの妙な行動についてだろう。
 答えようかどうしたものか、セレンは暫し思案した。ほぼ確定した、けれどまだ直接確認した訳ではない情報。まず間違いはないのだが、確認をしていない以上は不確定な情報となる。そんな曖昧なものを扱うのはいくらこれが仕事ではないとはいえ生理的に嫌だった。
 心底面倒だという心持ちを隠そうともせずに、セレンは真っ直ぐこちらを睨みつけている―といってもただ見ているだけなのだろうが―アンバーを見遣った。
「不安になったんだろう」
 思案の末、セレンは結局当たり障りの無い答えを返した。不満気なアンバーに、セレンは「だから」と言葉をつぐ。
「手を打たないと不安になるようなことが起きたんだよ」
 すっとアンバーの目が細くなった。
「バレたのか」
「違う」
 イオ達の目論見が知られたのならこんな回りくどい方法は取らない。“奔放な弟王子暗殺される”という号外が街を飛び交う方が無駄を嫌うジャカレーらしい。元々イオはふらふらと街を出歩いているのだから、いつ殺されても不自然ではないのだ。けれど今は優秀な護衛が絶えず付きまとっている。それもジャカレーのお気に入りのだ。そんな中でイオが殺されれば護衛の不届きということになりまず間違い無く処分され、ジャカレーは手駒をひとつ失うことになる。
 そんなことではない。もっと、ジャカレー自身についての問題だった。
「報いがきた、ってとこだろうな」
 半ば独り言のように言った言葉に、アンバーが説明しろと無言の威圧感を発してきたが、セレンがこれ以上話す気がないと悟ったのかそれとも自分で納得の行く答えを見つけたのか、再び棚に深く寄りかかり肩の間に頭を埋めた。流石に寒いのだろう。
 セレンは新しい資料に手を伸ばしながら、先日の“Artos”以来入ってきた情報を思い返していた。
 ジャカレーは病んでいる。体ではない。心をだ。前々からその気はあったのだが、近頃はそれがどんどん進行しているようだった。そしてそれにはとある薬が絡んでいる。
 裏切り者を信頼する者はそういない。裏切り者はまたいつ何時裏切るかわからないからだ。なるほど確かにジャカレーは政治者としては有能だった。けれど人としての信用がなければどんなに能力が高くとも意味はない。今回のことはジャカレー自らが招いた結果だろう。同情の余地はなかった。
 裏切り者には臆病者が付き従い、その臆病者はいつか自分も裏切られ捨てられるのではないかと恐れたのだ。だから“薬師”を頼った。対価を差し出せばどんな薬でも作る薬師を。
 勿論スネイクは足がつくような真似はしない。証拠は残さない。だが知っている者にとっては、それが何よりの証拠となる。
 もっとも、とセレンは再びマグカップに手を伸ばしながら思う。スネイクが何をしようがセレンには関係のないことだ。彼は彼自身の仕事をしているだけなのだから。
 すっかり冷めたそれを飲み干し、セレンはいつものようにアンバーを放置したまま小部屋へ暖を取りに戻った。

 湯気の立ち上るマグカップを持って戻ってくると、アンバーはやはり先ほどから少しも体勢を変えぬまま座っていた。その脇に立ち、セレンは腰を屈めて片方のマグカップをアンバーの横に置いた。不審そうな目で見上げられ、「先生からだ」とだけ告げる。マグカップを手に取ったのを見て、セレンはさっきの場所に腰を下ろした。資料を手に取りながら、セレンの目は両手でマグカップを包んで暖を取っているアンバーをじっと見据えていた。指の感覚が戻ったのだろう、ふとその表情が和らいだ。そして間を置かずに目が合う。和らいだ表情は影も形もなく消え失せて、「なんだよ」と唸るような声が低く飛んできた。それが怒っているのではなく、照れているのだとセレンは理解できるようになっていた。
 別にと短く答え、セレンは垂れた髪を後ろに払う。隠しきれなかった笑いに目敏くアンバーが気付いたようで、鼻を鳴らしてマグカップに口をつけていた。熱さに慌てる様子が可笑しく、セレンは資料を顔の前に持ってきて震える肩を懸命に堪えた。
 てめぇ、とアンバーが大声をあげた。
「笑われんならいっそ大声で笑われた方がましなんだよ、なんださっきから微妙にばっか笑いやがって」
「気ぃ遣ってやってんだろうが」
「それが要らねぇっつってんだ」
 とうとう堪えきれなくなり笑いながらセレンが言うと、アンバーはそう最後に怒鳴りつけ、前に乗り出していた体を棚に寄り掛けた。その様子が余計に可笑しく、セレンは立てた膝に顔を埋めて腹を押さえた。ばらばらと髪が肩を滑り落ちていく。笑いの波がようやく引いたところで、セレンは体を起こして髪を掻き揚げた。そっぽを向いているアンバーにまた吹き出しそうになったがそこはなんとか堪える。これ以上笑うのは可哀想だったし、本気で怒らせかねなかったからだ。
 もう一度髪を掻き揚げ、セレンはそれを紐で緩く結わえた。すっきりとした首元が少し寒いが、邪魔になるよりはましだろう。フードを被った方が暖かいのはわかっていたが、セレンはフードを下ろしたままにしていた。
 拗ねてしまったような雰囲気のアンバーをどうしようかと思案していると、フォッシルが棚の合間をうろついているのが見えた。目が合い、フォッシルが柔らかな笑みを浮かべて近付いてくる。
「こんなところにおったのか。寒いから中に行きなさいといつも言っておるじゃろうに」
 アンバーが近付いてくるフォッシルを見上げ、軽く会釈をした。そこで初めて彼に気付いたかのようにフォッシルがアンバーを見下ろした。
「おやアンバー、久し振りじゃのう。今日も来ていたのかね」
 しまったとセレンが思うのとアンバーが不審そうに眉根を寄せたのは、ほぼ同時だった。アンバーがセレンをじっと見ているのには気付いていたが、セレンは敢えてそちらには目を向けずに立ちあがってフォッシルを見た。
「何かご用ですか」
「なに、そろそろ夕ご飯じゃから一緒にどうかと思っての。温かいものは温かいうちに食べる方がよかろうて」
 一緒にどうかとフォッシルがアンバーを誘ったが、アンバーは断り腰をあげていた。それからぐいとマグカップを煽るとそのまますたすたとセレンに歩み寄り、にやりと笑ってマグカップを押しつけた。
「ごちそうさん」
 フォッシルに会釈をして去っていくアンバーを、セレンは直視できなかった。






'08/02/22


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