Ocean's blue, and Night blue.
セレン、と呼ばれた気がして目が覚めた。目をこすり、胡座をかいていた足を解いて伸びをする。膝に乗ったままだった分厚い本がどさりと床に落ちて、横に置いていたランプにぶつかった。高い位置にある窓からは、細く光の筋が射し込んでいた。
「いたいた。お前いい加減にしろよ、それ止めろって何回言えばわかる訳?」
ぱたぱたと軽い足音がして、本棚の間からイオがひょっこりと姿を現した。駆け寄ってくる前にセレンは立ちあがり、本を拾い上げる。セレンの横にまで来たイオが呆れ顔で腰に手をあてた。それ、とはセレンがここで本を読んだそのまま眠ってしまうということ。緑の本を読み終えた後、セレンは時間をここにある膨大な資料を読むことに全て費やしていた。
セレンがこの資料庫に来てから、早くも1月が経った。緑の本を読むのに3日かかり、それ以降はただひたすら、それこそ時を忘れて資料書籍を片っ端から読んでいった。食事も眠ることも忘れて。そうなるほどにここの資料は興味深く、またそうしなければいけないほどに膨大だった。本棚の間で眠っているセレンをフォッシルが朝発見するというのが続き、初めのうちこそフォッシルは“ほどほどにしなさい”とセレンを諌めていたが、それが1週間も続くと諦めたようでせめてもとセレンに弁当を持たせるようになった。セレンも、フォッシルが寒い書庫内でセレンが風邪を引くことを心配している、というのがわかっていたから気をつけようと努力はしていたのだが、一度読み出すと止まらなくなってしまうのだ。
「じーさん心配してるぞ。昨日一日中帰らなかったんだって? ルピがいないとじーさんお前がどこいるかわかんないんだから、一日一回は戻れって言ってんだろ」
わかってる、と短く返し、セレンはランプも拾い上げて歩き出した。イオがまだ何か言いたそうな顔でセレンの横に並ぶ。何故かイオは、いつも迷うことなくセレンがいる場所に来た。書庫は広い。なのに、たとえセレンが本棚の影になった壁際で眠っている時でも、常にフォッシルよりも先にセレンを見つけた。勿論ルピには敵わなかったが、そのルピは5日ほど前から何処かへ出掛けてしまっている。
半、といっても地下は地下。冬が近付き、書庫内はどんどん冷え込んできていた。地表はそうでもないのだが。この国の気候は1年を通して変化に乏しい。蛇は寒いのを嫌うため、ルピにとってここはあまり過ごしやすい場所ではない。事実、本に没頭するセレンの横でルピはいつも文句を言っていた。
「あ、兄貴がもうすぐあの薬飲み終わるって」
イオの思い出したような言葉に、セレンははたと足を止めた。とろりとした液体の入った小瓶
。スネイクの薬。すっかり忘れていた。急に足を止めたセレンをイオが振り返った。
「相変わらず顔色悪いし、あんま食べねぇし、でもあれ飲み始めてから大分調子良いんだって。血ぃ吐かなくなってきたって言ってた。ありがとな」
「俺が作ったわけじゃない」
低く答え、セレンは再び歩き始めた。自分のことしか頭になかった自分が恥ずかしかった。イオが並んで歩きながら「でも」と言った。
「やっぱ、嬉しいし。じゃあスネイクに会ったら伝えといてくれよ」
「……覚えておく」
呟くように答えると、イオが笑った。
***
暗い暗い地下道を、セレンは灯りも持たずに走っていた。時折水音が足音に混じって反響する。国を走る地下道はほとんど頭に入っていた。少し、息が弾む。体力が落ちていることに気付き舌打ちをする。この1ヶ月ほとんど運動らしい運動をしていなかったのだ。当然かと思いつつも、セレンは苛立ちを抑えられなかった。
所々、上へと続く道から光が洩れている。その点々と在る微かな明りを頼りにセレンは走った。しばらく走ればなだらかな上り坂に変わる。地上へ出れば、色とりどりの蛇たちが出迎えてくれた。纏わりついてくる蛇を踏まないように、セレンは小屋の扉を開く。暖炉の前にはスネイク、その横にはマダムといつも通りの光景。スネイクがセレンに目を向け、小さく笑みを浮かべた。
「来たか」
小さく頷き、セレンは小屋の中に入った。腰は下ろさず、スネイクの前に立つ。久々の懐かしい空気に、少なからず安らぎを覚えた。けれどそのためにここへ来たわけではない。「薬、もうすぐなくなるらしい」とセレンが言うと、スネイクは傍らの小さな瓶を寄越した。前の瓶より少し大きい。「同じだ」とスネイクが言い、セレンは瓶を一瞥した。黒い、どろりとした液体が詰まっている。それを受け取り、セレンはそのまま去ろうとした。扉に手を掛けたところで、セレンは思い出したように言った。
「ありがとう、だとよ」
そして振り返らず、そのまま扉を開けた。
「気をつけろ」
セレンの背中にスネイクが言った。気遣うような言葉をスネイクが発するなんて天変地異も良いところだと、セレンは驚いて振り返った。スネイクはそんなセレンに目を向けることすらなくマダムの腹を撫でている。
「どうしたんだよ急に。熱でもあるのか?」
わざとおどけた口調で返すと、スネイクが口端を吊り上げた。
「お前は馬鹿だ」
ますます意味がわからない。途方に暮れてセレンはその場に棒立ちになった。
一体スネイクは何を言いたいのか。確かに元々口数は少なく、お互いに最低限の、けれども通じるだけの言葉は発してきた。だが今はさっぱり訳がわからない。しかもスネイクは棒立ちのセレンを見て笑い始めた。
「何なんだよ。気色悪いな」
「いい。早く行け」
笑いを含んだままの声でそう言われ、セレンはしぶしぶながらも小屋を後にした。
再び地下道を走りながら、セレンはまだスネイクの言葉の意味を考えていた。だが、すぐにその意味を知った。
考え事をしていた、というのもあり、一瞬反応が遅れた。セレンが理解するより早く、真横から伸びてきた腕がセレンの肩を掴んで湿った壁に叩きつけた。痛みに短くうめき、セレンはナイフを取り出そうとし、腕の主を見て動きを止めた。
暗がりの中カーフが、静かな冷たい表情でセレンを見下ろしていた。
「カーフ」
ナイフから手を離し、セレンはただただ驚愕してカーフを見上げた。けれど腕は緩むことなく、セレンの肩を締め上げた。
「離せ、痛い」
そう言うと腕はゆっくりと外れ、けれどカーフは以前として冷たい表情でセレンを見下ろしていた。真っ黒の、いつもならあたたかな両眼が今は威圧感を与えている。
「久し振りだな」
ようやく口を開いたカーフの声は、表情と同じく硬く冷たかった。その声を聞き、セレンは自分が何をしたのか、スネイクが何を意味していたのかを理解した。
「あぁ。久し振りだ」
ぎこちなく答え、セレンは喉に重い何かが詰まったような感覚を覚えた。それと同時に、冷たい重石がずしりと腹に詰められる。とつとカーフが口を開いた。
「お前さ、いい加減にしろよ」
今朝イオから同じことを言われたはずなのに、それとは違いカーフの口が動くたびにセレンの重石はその大きさを増した。
「お前はいいかも知れねぇよ。けどさ、どうして周りのこと考えらんねぇの?」
「ガキじゃあるまいし、一々どこに何しに行くかなんて訊かねー。1週間やそこらいなくたって、どうせ帰って来るってわかってるからな。けどそれにだって限度があんだろ」
一言一言が胸に刺さる。申し訳ない気持ちで一杯になる。自分のつま先を見つめながら、セレンは黙って重石に耐えた。
「イリスがどんだけ苦しい思いしたかわかるか? お前が『言うな』っつーから、1人でずっと悩んでたんだ。イリスは元気がない。元気がなくなった日からお前がいない。イリスは何も言わない。スネイクも何も言わない。お前が気にしなくたってこっちは気にすんだよ。心配すんだよ。なんでそのくらいわかんねぇの?」
「……ごめん」
絞り出すようにセレンはそれだけ言った。それしか言えなかった。
似たような事が前にも一度、あった。セレンが“Artos”に来てから2年ほど経ったある日、セレンに“蛇”としての仕事が増えてきた頃。認められた事がただ嬉しくて、必死に働いていた頃。
そんな時、怪我をした。結構大きかったと思う。まだ傷跡が残っているくらいだから。けれどその時セレンは姿を消した。地下道に身を潜め、傷が塞がるのを待った。折角認められ始めたのに、怪我なんてしたら信用を失う。邪魔になる。そう考えて。
確かあの時もイリスに見つかったのだ。だがセレンからしてみれば仕事はきっちりこなしたのだから関係ない、という考えだったから、何故あんなにイリスが必死な表情で、悲しそうな顔をしていたのかわからなかった。そしてあの時も黙っているように言った。
その時もほどなくカーフにも見つかり、姿を消していた理由を問いただされるままに答えると、言われた。「怪我して仕事しないよりもな、そういうことされる方がよっぽど迷惑だ」と。
あの頃はその意味がわからなかった。けれど以来、できるだけ遅くなる時は遅くなると伝えるようにした。“いけないこと”なのだと認識したから。
今ならわかる。あの時カーフが、イリスがどんな気持ちだったのか。だから、言葉が出なかった。あの時よりずっとずっと、今のカーフの気持ちがわかるから。
カーフの腕が動き、セレンは身をすくめる。ぽんとその手がセレンの頭に乗った。
「いっつも言わねぇから、余計に心配なんだよ。いつもいつも。ちったー考えろ馬鹿」
「…ごめん」
重石が一気に昇華でもしたかのように、熱いものがさっと腹を昇っていった。「わかればいい」とカーフが笑う。
自分のことばかりが頭を巡り、周りのことをすっかり失念していた。今朝だってそうだ。自分で受けた仕事だというのに、言われるまで毛ほども気に掛けなかった。
頭の上の重さがすっと離れる。見上げるセレンを、カーフが仁王立ちになって見下ろした。
「で、しばらくは帰ってこないんだな」
「……あぁ」
しっかりとカーフの眼を見てセレンは答えた。満足そうにカーフが口元を緩める。段々スネイクに似てきたなと、セレンはどうでもいいようなことを思った。
「じゃ、行け」
肩を押され、毒気を抜かれたセレンはそのまま2、3歩進んでカーフを振り返った。「訊かないのか」と尋ねると、「何を」と返された。
「どこ行くのかとか、いつ帰るのかとか」
カーフが「ばーか」と一笑した。
「何聞いてたんだお前は。それとも訊いて欲しいのか」
首を横に振るセレンに、「ならいいじゃねぇか」とカーフが言う。まだ戸惑った表情のセレンに、カーフは呆れ混じりのため息をついてから言った。
「お前が何処行こうが何しようが関係ねぇよ。帰る場所さえ忘れてなければな。俺らはいつでもあそこに、“Artos”にいる。それで充分だろ」
急に苦しくなる。さっきのとは違う、目の奥が熱くなる苦しさ。深く深く息を吸い、セレンは「あぁ」と答えた。
***
王の部屋につくと、ベッドの上で本を読んでいた王がセレンを見るなり微笑んだ。
「やぁ」
軽く会釈をし、近付く。瓶を渡し用法を伝えている間、王はじっとセレンを見つめていた。あまりの居心地の悪さに「何か」と問い掛ければ、「良い顔だ」と言われた。
「何か良いことがあったのかな。前よりも、明るく見える」
「そう、ですか」
うん、と言って微笑む王は、何を考えているのかわからないという点では確かにイオに似ていた。用が済み、また書庫へ戻ろうとしたセレンを王が呼び止める。
「少しお喋りをしたいんだけど、いいかな」
断る理由も特にない。セレンはベッド脇の椅子に腰掛け、王と向き合った。王が足の上の本を横に置く。少しの間を置いて、王が言った。
「“勉強”は、順調なのかな」
「ディアノイアになる為の、という意味ならばわかりません。けれど、知識は以前と比べ格段に増えました」
王は「そう」と呟くように言い、相変わらず穏やかな眼差しでセレンを眺めた。
「イオがね、とても楽しそうなんだ。殆ど毎日話すのは君のことばかりだよ。お陰でまるで私まで書庫にいるかのような気分になるんだ」
「王は、書庫に行かれたことはあるのですか」
「あるよ。まだずっと幼い頃……父上がご存命の頃はよく訪ねていた」
懐かしそうに蒼い目を細め、王は続けた。
「フォッシルは素晴らしい人だ。幾度、彼がディアノイアであったらと思ったことか。けれど彼は私がそれを言うと決まってこう言った―“わしはキノコじゃからのう、日陰でないと居心地が悪いのじゃ”って。“それに、ディアノイアになったらジャムサンドを食べる時間がのうなってしまう”って。イオはその頃はまだまだ今よりずっと幼くて、フォッシルのどこにキノコのカサがついているのかと追いかけ回していたよ」
くすくすと笑う王を、セレンは不思議な気持ちで眺めた。
どうしても、王が幼かった頃というのが想像つかない。蒼白い肌、痩せた頬、隈のある目。これで20前半というのが驚きなほどだ。イオとはかなり歳が離れているが、その分イオが子供のような存在になるのだろう。それが、子供の頃はセレンが今いる書庫に行っていたと言う。フォッシルと話をしたと言う。頭ではわかっているが、どうしてもその光景が想像できなかった。
「彼はまだジャムサンドが好きなのかい」
「はい」
「懐かしいな。夜中にこっそり遊びに行った時、よく出してくれたんだ」
セレンは内心驚いた。今の姿しか知らないからだろうが、とても夜中に部屋を抜け出すような、“やんちゃ”な人には見えない。王は思い出すように宙を眺めていた。
「また会いたいよ。昔のように。私はね、セレン。引退したらあの書庫に住みたいんだ。あそこで資料書物に囲まれて過ごせたらいいのにって思うんだ」
唐突な言葉に、セレンは王をまじまじと見つめた。王が目で笑う。
「私は王には向いてない。フォッシルやイオはそんなことないと言ってくれたけど、私自身はそう思うんだ。私には、荷が重過ぎる」
「……だから、イオに押しつけるのですか」
言って、セレンは言葉が過ぎると後悔した。失礼過ぎる。けれど王は悲しそうに笑い、「そうかもね」と呟いた。
「でも、このまま私が王位にいても何も変わらないこともまた事実だ。だから私はイオに託す。未来をね。彼なら、きっと変えてくれる気がする。そうだろう?」
深い深い、けれど明るい蒼い両眼。時折その色味を変える不思議な眼。彼、イオとなら、なんだってできる気がする。それは確かにセレンも感じていた。
「そう、彼ならきっと」
どこか遠くを眺める王を、セレンはただ黙って見つめていた。
'07/12/12
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