I don't like him.
珍しいこともあるものだと、セレンはそれでも気にも止めない風に横目でアンバーを眺めながら紅茶をすすった。フォッシルは珍しく出掛けている。
朝いつものように本棚の間で起きて小部屋に戻ると、フォッシルの“出掛ける”といった意味合いのことが書かれたメモが、カバーを掛けられたポットとサンドイッチと一緒に机に乗っていた。寝起きのまだぼんやりとした頭でそのメモを読み、頭が起きたところで遅い朝食を取っていた時に人の気配がし、ずっと扉の外で動こうとしないその気配の主がアンバーだと気付いてセレンは不本意ながらも扉を開け、相も変らぬ仏頂面のその人を部屋に招き入れた。
何の用かと尋ねても、口を開きかけてはきつく結ぶを繰り返され、何か話があるのだろうがそれが何かわからないままセレンは朝食をとった。その間中アンバーはずっと落ち着きなさ気な様子だったが、緊急を要するものではないようなので放っておいた。
セレンの遅過ぎる朝食が終わっても、アンバーは腕組みをしたまま眉間に皺を寄せたまま口を開こうとしなかった。セレンとしても、アンバーはあまり好きではないから話を振るような真似をしたくはない。セレンは持ってきた資料を、アンバーを放ったまま読み始めた。
「………」
「………」
聞こえるものといえばセレンが紙を捲る音と、壁に掛かっている壊れ掛けた時計の針の音だけ。これがイオだったなら意味もなく口を動かし続け相槌を要求されるのだろうから、邪魔をされないというのは本来ありがたいことだろう。けれどその相手がアンバーだ。黙々と視線を手を動かしながら、セレンはだんだん苛立ち始めた。
「おい」
紙を捲りかけた手を止め、セレンは視線をあげて真向かいに座っているアンバーをフード越しに睨みつけた。
「何か用があるんじゃないのか」
はっきりと不愉快だということがわかるような声音でセレンが言うと、アンバーは反発するようにセレンを睨み返し口を開き掛けた。が、すぐに視線をそらし舌打ちをすると「なんでもねぇよ」と吐き捨てるように言った。
「用がないなら帰れ。邪魔だ」
にべもないセレンの口調は、確実にアンバーを苛立たせるものだった筈だ。けれどアンバーはセレンの挑発に乗ることはしなかった。肩透かしを食らった気分のセレンの方が逆に苛立つ結果となる。その事実に余計苛立ちながらも、セレンは向こうがそう出るならばと意地でもアンバーの存在を無視することに決めた。
1つ目の資料を読み終え、2つ目も読み終わった。3つ目の半ばに差しかかった時、急に時計が鳴った。セレンは思わず肩を竦める。はっとしてアンバーに目をやると、驚きに固まった顔が見えた。目が合う。逸らし、なんとなくばつが悪くなりながらセレンは資料に集中しようとした。
時計が鳴るのは15時と18時、それに21時と4時の4回。それぞれの時を打つのではなく、一度ずつ鳴る。今のは15時のものだった。
アンバーが来たのはまだぎりぎり午前といった頃だったから、とうに3、4時間は経ったということになる。いつまでいるつもりなのだろうか。そもそも何の用で来たのだろうか。結局それに戻ってしまって、セレンはまったく頭に入ってこない資料にただ惰性で目を通した。
「おい」
低い声。無視する。もう一度、若干苛立ちの見え隠れする声で「おい」と言われ、ようやくセレンは顔を上げた。
「なんだ」
「お前、いつもこうなのか」
微妙に目が合わない。けれど顔はこちらを向いているアンバーにそう言われて、セレンは敢えて「何がだ」と返した。
「そうやっていっつも本を読んでるのかって聞いてんだよ」
「そんなことお前に関係ないだろう」
資料を捲りながらそう言ってやると、アンバーの目の端がぴくりと動いた。セレンは文字を目でなぞり、アンバーのことなどどうでもいい、といった風を装った。
相当暇なのだろうかとふと思う。16の、まだまだ子供とはいえ仮にも王族近衛兵、その小隊長を任されていた筈だ。イオに何かあったらいの一番に責を問われる身。それが何故何時間もこんなところで時間を無駄に過ごしているのか。
それに、とセレンは悟られないようこっそりとアンバーを観察した。
腰に剣を下げているとはいえ軽装だ。胸当てすらつけていない。休みでももらったのだろうか。ならば余計にここにいる意味がわからない。家にでも帰って羽根を伸ばせばいいようなものを、こんな寒い地下で過ごすなんて。
考えれば考えるほど、沈黙が重くセレンにのしかかった。居心地が悪い。資料を捲り、セレンはそれが最後のページだったことに気付いた。これ幸いと立ちあがり、持ってきた資料を小脇に抱える。アンバーがセレンの一挙一動を、眉間に皺を寄せたまま睨みつけていた。
「どっか行くのか」
「関係ないだろう」
にべもなく言い放ち、セレンは小部屋を後にした。
***
書庫内で数少ない日差しの当たる場所で、セレンは大きなため息をついた。背中一杯に日差しを受けて本棚の上に寝そべり、頬杖をついて見るともなしに手元の資料を空いてる方の手でなぞる。どうしても集中できなかった。
いったい何のつもりなのか。何の用で来たのか。フォッシルに用があったのならそう言えばいいだろうに。セレンの普段の生活に興味を持った風なことなど聞かずに。セレンがそう感じるように、向こうだってセレンに好印象を抱いていない筈だ。それが何故何時間も居心地の悪い空間に留まっていたのか。また思考が同じところをぐるぐると巡る。アンバーなどの所為で自分の頭が混乱していることが腹立だしい。
アンバーに特に何かをされたわけではない。攻撃・威嚇はされたがそれは向こうの仕事だ。それは理解している。ただ、セレンにとって兵士という存在は敵でしかない。“Artos”にとっては邪魔な―それは向こうにとっても同じなのだけれど―存在だ。それに、自分を嫌っている人間をどうして好きになれというのか。
理由も無しに嫌うという行為は、好くという行為も同じだが時に正常な判断を鈍らせる。だから馬鹿馬鹿しい感情は脇へ捨てなければならない。そう自分に言い聞かせてはいるのだが、どうにも上手くいかなかった。
どこからともなくルピが現れ、セレンの前にとぐろを巻く。余程地下書庫が嫌なのかルピは最近城内をうろついているようで、時々こうして仕入れた情報をセレンに運んできた。
ルピによるとどうやらこの頃、ジャカレーがまた善からぬことを企んでいるらしい。また、イオやその周辺人物を調べ上げている。未だ何を、までは行かないが、王の企みに薄々と感付いてはいるようだ。近々この書庫にも調べが入るだろう。見つかる気は毛頭なかったが、セレンという城にまったく関係のない人物がこんなところにいると知れたら、“何か企んでいます”と教えるも同じだ。できるだけセレンの存在は知られない方が良い。
「お疲れ」とセレンはルピの腹を撫でた。その甲にルピが頭を置く。指であやしながら、セレンは資料に目を通した。ついとルピがセレンの手を頭でつつく。伝え忘れたことがあるらしい。
《あんばー イル ノハ いお ノ セイ》
最近ルピは話すのが上手くなった。暇な時は王に本を読んでもらっているらしい。それより、今アンバーがいるのはイオが仕向けたことのようだ。一体何のつもりなのか。にへらと笑う金髪の男の顔を思い浮かべ、セレンはため息をついた。相変わらず何を企んでいるのか見当もつかない。
とりあえず、とセレンは身体を起こして胡座をかいた。ありそうなことと言えば、セレンとアンバーの仲をどうこうしようかといったところだろう。近頃イオはやたらとアンバーの話題を出していたし、大事を為そうという時に不仲なのは不安になる気持ちもわかる。まだ1年近く、けれどたったの数ヶ月。計画を知ったばかりのセレンでさえ“たった”と思ってしまう程なのだ。何年も前から準備してきた彼等にすれば、それこそあっという間の時間だろう。それがもし、“不仲”の所為で失敗したとでもなったら。この計画の行方はそのまま彼等の生死に繋がるのだから。
膝に登ってきたルピを肩まで導き、重くなったなとぼんやり思う。セレンとしても、一度決めたことを、それも他人の生死に関わる大きな決め事を覆す気は毛頭ない。仲良く、までは行かないが、せめて意思疎通できる程度にはしておかねばとは薄々思っていた。実際今まで行動に移さなかったのだから、その思いもたかが知れていたが。
そんなことを考えながら意味もなくルピの尻尾を指に巻いている時、荒い足音と息遣いが聞こえてきた。アンバーだ。走っている。セレンは本棚の上で、気配があちらこちらに動くのを観察した。一度気付けば、この広い書庫内を満遍なく移動しているということがわかる。やがて足音がどんどん近付いてきて、通路の端に飛び出たアンバーと目が合った。アンバーが何か怒鳴りつけでもしようとしたのか大きく口を開き、そのまま咳き込む。セレンは床に飛び降り、充分な距離をとって深呼吸をするアンバーに向かい合った。
「てめぇ、いつも、そんなとこ、に、いるのか」
まだ大分息が荒い。口振りからするとセレンを探して走りまわっていたらしい。スカンダロンの外れから城までを往復しても然程乱れなかった呼吸が、咳き込むくらい荒れるほどに。
ようやく落ち着いたようで、アンバーが丸めていた背をすくと伸ばした。高い背と、捲り上げられた袖から覗く逞しい腕に、セレンは思わず嫉妬した。あちらの方が年上なのだから身体が発達しているのも当たり前だと自分に言い聞かせても、そんな単純なことではないということが思い知らされる。
セレンは問いには答えず、首に掛かっているルピの尾を撫でた。忌々しそうにアンバーがルピを睨みつけている。白い蛇は、白い髪と同じくらい珍しい。少なくともこの国においては。白い蛇がそう珍しくはない地域もあると以前カーフから聞いた事があった。
「イオに言われて来たのか」
傍目にもわかるほど、アンバーがぎくりと身を強張らせた。舌打ちをし、すぐに「あぁ」と顔を背けてアンバーが言う。セレンは何も言わず、アンバーが何か言うのを待った。けれどアンバーは顔をそらしたまま眉を寄せ、落ち着かなさ気に右腕を擦るばかりだった。セレンはしばらく待ったが、いつまで経っても一向に話しだそうとしないアンバーにいい加減腹が立っていたのもあり、つい「いい加減にしろ」と怒鳴りつけてしまった。
「さっきから何なんだ、用も無いくせに居座ってどうでもいいことは聞いてきて、しかもこっちが席外したってのにわざわざ探しに走り回るとか意味わかんねえんだよ」
それに対しアンバーが一瞬目を見開き、セレンを睨みつけた。
「てめ、気付いてたんならあんな意味わかんねーとこ登ってねぇで降りとけよ、そっちこそ何考えてんだ」
「何で俺がお前に気を使わなきゃならないんだ、そっちが勝手に来て勝手に探してたんだから俺が勝手したって何の問題はないだろう」
怒鳴り合い、睨み合う。アンバーの腰に下がった剣が妙に気になった。屋内、普通ならば小回りの利くセレンのナイフの方が有利なのだが、生憎城は部屋ひとつ、通路ひとつとっても大抵が馬鹿に広かった。それにアンバー自身の腕の問題もある。流石にこんなところで剣を抜くような馬鹿ではないと思ってはいるが、それでもセレンは袖に隠したナイフへ手を伸ばした。ルピはいつの間にか肩を降り、セレンの足元でとぐろを巻いている。
長い沈黙の後、アンバーが舌打ちをして腕組みをした。また視線が合わなくなる。けれどセレンの苛立ちは収まらず、「逸らすな」と弾けるように言ってしまった。
「こっち見ろ、言いたいことがあるなら言え、気分悪い」
まただんまりかと思ったが意外にもアンバーは、
「顔隠してる奴に逸らすなだのこっち見ろだの言われたくねーんだよ」
と反発するように返してきた。
「大体なんでそんなもん被ってんだ、それでよくそんなこと言えるな。こっちこそ気分悪ぃんだよ」
「俺がどんな格好していようと勝手だろう、そんなことを言いにわざわざやってきたとはご苦労なこった。近衛ってのはよっぽど暇なんだな」
吐き捨てるようにセレンが言っても、アンバーはまだ諦めなかった。
「そんなにその白髪が嫌なのか、赤目が嫌なのか。女じゃあるまいし、一々見た目なんか気にしてんじゃねーよ。それとも本当に女なのか、そんなチビじゃ女だっつっても納得行くけどな」
言い終わる前に、アンバーがしまった、と言った顔をした。けれどセレンは手の平を握り締め、それからぐいとフードを外しながらアンバーにつかつかと歩み寄った。アンバーが2、3歩後退る。その胸倉を掴み、セレンは怒鳴った。
「あぁそうだよ嫌だよ何ならてめぇも一回なってみればいい、そしたらどんなに嫌かわかるだろうよ。どこに行っても見世物扱い化け物扱いでロクな目にゃ遭わねぇ、反抗しようにも逃げようにも力が足んねぇからそれもできない。同年代がどんどんデカくなってく中で俺一人だけチビのまんまだ。てめぇはいいよな、年相応それ以上に身長も筋肉もある、そんな奴にいくら努力しても肉がつかない背が伸びない奴の気持ちなんか、わかる訳ねぇじゃねぇか」
それを一息に言い切って大きく息をつき、同時に頭も冷めてきて随分と馬鹿なことを口走っていたと後悔したが、呆気に取られていたアンバーに「そんなのただの僻みじゃねーか」と言い返されて反発心がふつふつと湧きかえった。
「大体な、それじゃそのフード被ってる理由にならねーじゃねーか、しかもその髪嫌いならなんで伸ばしてんだよ意味わかんねー」
「隠すのは目立つからだよ少し考えりゃすぐわかるだろう、じろじろ見られんのが嫌なんだ、俺は見世物じゃない。フード被ってりゃ長さなんか関係ねぇんだよ、伸びるもん放っといて何が悪い」
「んなもん被ってる方が目立つだろうがバカかてめー、いっぺん鏡でも見て見りゃいいんだ」
「どうせ昼間なんか殆ど出歩かねぇから関係ねぇんだよ、今だって外にゃ出ねぇしな」
「だったら余計にそれ被る意味ねーだろ誰もいないんだから」
「煩ぇ関係無ぇだろうが、もう慣れてんだよこれに、ずっとこうだったんだからな」
「てめーがよくてもこっちは嫌なんだよ隠し事されてるみたいで」
いつの間にか胸倉を掴み返されていて、至近距離で睨み合っていた。アンバーの金の両眼にセレンが映っている。アンバーがまた舌打ちをして、セレンを突き飛ばすようにして手を離した。
「終わった?」
アンバーと同時に振り向き、いつの間にかルピを手に巻きつけて立っていたイオを見た。一体いつからいたのだろうか、全く気付かなかった。
「てめーいつから」
「セレンがお前に掴みかかった時から」
唇を噛み締める。耳が熱くなる。ということは聞かれたのだ。どうでもいい勢いに任せて口走ったことが、さっきの比ではないほど恥ずかしかった。
「大体な、なんでそう喧嘩腰でしか喋れないんだよ2人とも」
イオが呆れた風に、セレンとアンバーを見比べながら言う。ルピが全くだ、といった表情なのが妙に癇に障った。じろりと睨むとルピは長い首を竦め、イオの腕から肩に移動した。イオがアンバーに目を移す。
「つーかさ、さっきも言ったじゃん。俺は慣れてるけど、他は違うって。こいつお前のこと知らないんだから、話したいんならちゃんと話さなきゃ駄目だって。なのに何してんだよ」
アンバーが不機嫌そうに鼻を鳴らした。イオが今度はセレンに目を移す。
「じーさん戻ってたぞ。なんか荷物運んで欲しいって」
唐突に言われ、セレンは「あぁ」と短く返しフードを被った。踵を返す前にちらりとアンバーを見ると、アンバーは首の後ろに手をやり、真横の棚をつまらなそうに眺めていた。
'07/12/26
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