With a Stump.
小部屋に戻ると、机の上にルピがとぐろを巻いていた。「お帰り」とフォッシルが微笑む。イオが空の食器を持ち、「じゃあな」と言って小部屋を出ていった。
2人きりの狭い部屋の中、まずフォッシルが口火を切った。
「さて、セレン。色々一人で考えていたのじゃがの、まずやらねばならぬことは仲良くなることじゃという結論に達したのじゃが、どうかのう」
「仲良く、ですか」
意味がわからず、セレンはそのまま言葉を繰り返した。フォッシルが頷く。
「わしは君のことを何も知らないし、君もわしのことを何も知らない。そうじゃろう? 君がこれから勉強するのは、ただ知識を詰めこめばいいというものではない。まずはお互いの考え方を理解し合うことが、重要じゃと思うのじゃが」
「はぁ」
にこにことするフォッシルにどう返すべきなのかわからず、セレンは曖昧に頷いた。城にはイオやこの老人のように、読めない輩がごろごろしているのだろうか。
「ところでセレン」
フォッシルに座るよう促され、近くの丸椅子に腰掛ける。向かいに掛けているフォッシルは、皺に埋もれた栗色の目でセレンを眺めた。
「物を教えるにも教わるにも、時間というものは実に大きく関係しているのじゃ。それでできるだけ多くの時間を取るために、君にはここでしばらくの間生活して欲しいと考えておるのじゃが、どうじゃろうかの」
「はい。俺も自分にできる限りのことをしたいと考えています」
「親御さんか、それに代わる方にそのことは伝えてあるのかな?」
肘をつき、組んだ指に顎を乗せてゆったりと座っているフォッシルに、セレンは軽く首を横に振った。
「戻らない覚悟で出てきたので。向こうもそれは承知しています」
セレンの脳裏には最後に見た、マダムの頭を掻くスネイクの姿が浮かんでいた。戻る場所がある、そんな逃げ道を作る気はない。少なくともしばらくの間は“Artos”へ帰るつもりはなかった。
フォッシルは相変わらず穏やかな視線でセレンを眺めている。またフォッシルがゆっくりと口を開いた。
「仲良くなる必要があると言ったが、特にどうこうする、という訳ではない。ここが資料庫のようなものであるということは聞いたじゃろう。君にはここで色々な資料を読んでもらうことになる。その中でわからないことがあったり、不思議に思ったことがあったらわしに訊きなさい。まずはこれを読むと良いじゃろう」
言って、フォッシルが机の下から大きな分厚い本を取り出した。あ、とセレンの口から声が洩れる。フォッシルが出したのは、以前イオの部屋で読んだことのある本の一冊だった。
「それ、読んだことあります。前にイオ―アイオライト様の部屋で読みました」
ほう、とフォッシルが軽く驚いたように声をあげた。
「珍しい子じゃのう。全て目を通したのかね?」
「はい、国の歴史について記した本ですよね。ただ、1ヶ所掠れて読めない箇所があって」
「ディアノイアと国王の特権についての箇所かな?」
セレンは驚いてフォッシルを見た。髭に埋もれた口が思案するようにもぐもぐと動いている。フォッシルが本を開き、問題のページを出した。
「君は、何に関する権利だと思ったかね?」
「……ディアノイアは政治を司ります。だから何か政治に関することだろうと思いました」
「ふむ、間違ってはおるまいの」
フォッシルは長い髭をくるくると指に絡ませ、それからセレンをじっと見た。
「王を除き、ディアノイアは唯一地下牢の鍵を扱う権利を持つことのできる人物なのじゃよ。」
「牢……ですか?」
セレンは眉根を寄せた。牢ならば知っている。罪人を裁くのは国王やディアノイアの仕事で、牢管理はケイルの管轄だ。勿論鍵の責任者はケイルで、普段は牢主の部屋においてある。
「今ではもう使われていないがの。いや、使われるべきではないのじゃろうが……これが最後に使われたのは、7代目国王の時だったかのう」
言われ、セレンの頭に以前読んだ歴史書が蘇る。7代目は悪政を行ったことで、ディアノイアとケイルにより国を追放されたと載っていた。
「公式の記録では、7代目は国外追放ののちに自害したと書いてある。しかし、本当は違うのじゃよ。7代目はこの地下牢へ閉じ込められたのじゃ。本来は三権のうちの一人が暴走をし掛けた時に頭を冷やさせるための場所じゃった。だから地下牢と言えど普通の部屋のような造りになっておる。窓も暖炉もないがの。仕置き部屋、と言った方が良いのやも知れぬ。結局7代目は自らの悪行を悔いることなく、気が狂って自害なされてしまったのじゃがのう。」
少し寂しそうに語るフォッシルを、セレンは観察するように眺めた。
いくら資料庫の管理をしているとはいえ、わざわざ表の歴史から消された出来事を何故こんな老人が知っているのか。7代目の時代といえば、もう200年以上昔のことではないか。いくら博識だったとしても、その情報をどこから手に入れたのか。そんな出来事、いくら資料庫とはいえ抹消されているだろうに。
「では、こっちのを読むといいじゃろう。こっちはまだ読んだ事がなかろうて」
不意にフォッシルが動き、また机の下から今度はさっきの半分の大きさの、けれど厚さは同じ位ある深緑の本を取り出した。差し出されて受け取ったそれは、表紙には何も書かれてなく、背表紙の上のあたりに金の箔で『T』とだけおされていた。
「それには、言うなればディアノイアになるために必要なことの基礎が記してある。全6巻じゃ。読み終われば次のを渡そうぞ」
「はい。ありがとうございます」
言いながらフォッシルを観察する。何者なのだろう。かなりの高齢だとは思うが、具体的な年齢はわからない。セレンは本に目を落とし、表紙をめくった。フォッシルがじっとセレンを眺めている。目では文字を追いながらも、セレンは多少居心地の悪い思いをしていた。普通に見られる、観察される分には自分もよくやっていることだし一向に構わないのだが、どうにもフォッシルの視線にはそれ以外のものが入っているように思えてならない。それが居心地の悪さの原因だろう。
「好きな食べ物はあるかね? セレン」
本文を3ページほど読み解いた時、唐突にフォッシルが口を開いた。セレンはフォッシルを見上げ、少し間をおいてから「特には」と答えた。
「では、食べたい物はあるかな」
皺に埋もれた栗色の眼を凝視する。柔らかな笑みを浮かべたそれ。何処かで見たことがある。何処でだったか。「いえ」とセレンが短く答えると、フォッシルは「ではお昼はサンドイッチにしようかの」とにこにこしたまま言った。
「わしはのう、セレン、ジャムを挟んだサンドイッチが好物なのじゃよ。たっぷりの砂糖と一緒に、季節の果実をとろとろになるまで煮詰めるのじゃ」
「……そうですか」
この口ぶりを聞く限り、ジャムはお手製なのだろうか、とセレンは思った。甘いものは苦手ではないが、好んで食べるというわけでもない。カーフは甘いものが大好物だったが。それでよくディアナと2人して菓子の取り合いをしていたものだった。
フォッシルは相変わらず柔らかな視線でセレンを眺めている。ようやくセレンは、その視線が広場でよく見かけるものだと思い出した。日向ぼっこをする老人が、駆けまわる子供達を眺める目。
黙々とページをめくるセレンを、飽きもせずに眺める老人。それでもセレンは頭の中で、“仲良くなる”のに協力すべきかどうかを悩んでいた。適当に話を合わせ、人の気を引く技術なら持っている。でもそれは“仲良くなる”のとは違う。どのあたりまで歩み寄るべきか、セレンは距離を測りかねていた。そもそも馴れ合うつもりなど毛頭ない。
無理に話を合わせ“仲良く”するふりをしても、この老人には通用しないだろうという妙な確信があり、何故かセレンはこの老人に、どこかスネイクに似たものを感じていた。スネイクは何をどう間違っても“仲良くしよう”などとは言わないが。
結局互いに黙ったまま、セレンは本を半分ほどまで読み進んだ。居心地の悪さはさておき、この本はかなり面白かった。言葉遣いは古臭く、読みにくい箇所もいくつかあったが、そもそもの存在意義や性質を丁寧に書き連ねてあり、後半は他の二権との違いについての説明が始まるところだった。
フォッシルが「セレン」と相変わらず柔らかな声音で呼びかけた。セレンは本から目を上げ、「なんですか」と丁寧に返した。
「わしはこれからちと出掛けるでのう。ここに訪ねてくるのはイオくらいのものじゃから、大丈夫とは思うが、少し留守番を頼めるかな?」
「わかりました」
セレンが答えると、フォッシルは机に手をついて立ち上がり、それでも背筋はしゃんと伸ばしてゆっくりと部屋を出ていった。扉が閉まるまで見送り、再びセレンは本に目を落とした。
***
国王についての記述が終わり、これからケイルについての説明に入ろうかという時、ゆっくりと扉が開いた。同時に流れ込んでくる美味しそうな匂い。セレンの口の中に唾がわいた。トレイを持ったフォッシルが、にこにことしながら部屋の中に入ってきた。
「そろそろお昼の時間じゃからのう。一休みしようぞ」
机に置かれたトレイには真っ白のパンで作られたサンドイッチが山程と、湯気を立てる紅茶が乗せられていた。フォッシルが座るまで、セレンはじっとサンドイッチを見つめていた。
ここに来たのは朝早くだった。その後イオと書庫内をうろうろし、それからずっと本を読んでいた。そんなに時間は経っていないと思っていたが、もう昼になっていたらしい。今食べ物の匂いがして、それで初めて自分が空腹なことに気付いたくらいに、セレンは本に没頭していた。
「食べなさい。頭を使った作業は腹が減るでのう」
にこにこと言う老人に、セレンは今にも鳴りそうな腹をなんとか抑え、サンドイッチに手を伸ばした。
ふわふわとしたパンは甘く、それ以上にジャムの甘みが食欲を煽った。今までに食べたことのない味のジャム。だが、とても美味しかった。一度食べ始めると、セレンは勢いのままパンを口に運んだ。ただ座って本を読んでいただけなのに、こんなに腹が減るなんて。
フォッシルがサンドイッチを貪るセレンを眺めながら、自分でもサンドイッチを頬張っている。しばらく無言のまま食事を続け、熱い紅茶でサンドイッチを押しこみ、ようやくセレンの腹は落ち着いた。フォッシルは紅茶にも砂糖を何杯も入れていた。見ているだけで胸焼けをしそうなほどに。
「美味しかったかね?」
「はい。御馳走様でした」
セレンが言うと、フォッシルは嬉しそうに笑った。がつがつと、子供のような食べ方をしていたことをセレンは恥ずかしく思ったが、フォッシルのしわくちゃな顔を見ているとこれはこれで良かったのかもしれない、とも思った。
人はあまり来ないと言った。尋ねる者はほとんどいないと。だが人嫌いというわけではなさそうだ。つまりは人がいるというだけで嬉しいのだろう。それに加え、セレンの知る限り大抵の老人は子供らしい子供に嫌悪の情を抱くことは少ない。勿論子供というだけで毛嫌いする者も中にはいるが、先ほどからのフォッシルを見る限りでは一般的な老人の部類に入るらしい。嫌われるよりは好かれる方がいい。これから共に生活をする間柄としては尚更だ。
「随分と読むのが早いようじゃの。どんな些細なことでも尋ねておくれ。わからないまま進むのは、お互いあまりやりやすいとは言えないからのう」
「はい」
セレンは短く答え、未だ眠り続けるルピを横目で見ると再び本に手を伸ばした。
'07/11/16
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