It has Started to Begin.02





 ずらりと並ぶ本棚にまず圧倒される。ルピが興味を持ったのか、するりと首元から頭を出した。
 あの後セレンは一旦帰され、翌朝もう一度来るように言われた。来たのと同じ道を通って城の外に出たが、空き腹をかかえて5時間の道のりを帰るのはごめんだったので、ルピに財布を取りに戻らせて自身は塀の外の木陰で一夜を明かした。その後手近な店に入って食事をとり、あのツタの所へ戻るとアンバーが仏頂面で立っていたのだ。
 セレンの姿を見止めた途端無言で歩き出したアンバーの後を、セレンも無言でついていった。昨夜とは違う通用口を通り、真っ直ぐここ、地下書庫へと連れてくると、アンバーは「入れ」と言って姿を消した。
 それでセレンは一人、膨大な資料書籍の並ぶ書庫で何をすればいいのかわからず途方に暮れていた。人気のないここで、一体どうしろというのだろうか。ため息をつき、セレンはとりあえず奥へ進んだ。
 梯子を使わなければ届かぬような高い本棚。地下、といっても棚の切れ目や天井近くに窓はあるから、半地下という状態なのだろう。空気はひやりと冷たいが、昇ってきた太陽の光が射し込んで埃っぽい空気に光の筋を残している。
「勝手だよな。聞かなかった俺も悪いんだろうけど」
 ルピに言うと、瞬きをひとつしてするりと床に降り、そのまま先へ進んで行ってしまった。誰がいるかもわからないというのに、小声で「待て」と呼び掛けても、ルピは何も返さずどんどん先へ進んでいく。小走りで追い掛けながらセレンは焦った。もし誰かがいたら、見つかってしまったら。
 そんなセレンを他所に、まるでルピは楽しんでいるかのように棚を過ぎ乗り越えて行く。
「っいい加減に」
 しろ、という前に、ルピが動きを止めた。じっと何かを見下ろしている。かさりと紙の擦れる音。人の、気配。
「誰かいるのか?」
 しわがれた老人の声がして、セレンが止める間もなくルピがその声の方へ姿を消した。「これはこれは」と楽しむような声がして、本棚の影から小さな切り株のような老人がその肩にルピを乗せて現れた。
「久々の客人じゃ。イオの坊主以外の」
 ほっほと老人は楽しそうに笑った。真っ白の髪に真っ白の髭。口元はすっかり髭で隠れてしまっている。天気の良い日、市場の隅で日向ぼっこでもしていそうな好々爺。それでもセレンはマントの中で握り締めたナイフを放さなかった。
 老人に頭を指でかかれて、ルピが気持ちよさそうに目を細めた。
「実に久しい。わしに用があるのかな?」
 老人は、見るからに怪しいであろうセレンを警戒する素振りも見せずにそう言った。セレンはルピを見、老人に目を移し、ゆっくりとナイフから手を外した。
 ルピが懐いた、ということはセレンにとって害になる可能性が低いということ。それに、かなりの老齢だ。警戒するとすれば老人自身ではなく、老人によって呼ばれるかもしれない兵士の方だろう。
 第一、この老人は“イオ”と言った。城の人間ならば、普通は“アイオライト様”だろう。つまりはイオと比較的近しい人物ということ。確信は持てなかったが、敵ではなさそうだという結論に達したセレンはゆっくりと口を開いた。
「ここにはアンタしかいないのか」
 老人は一呼吸置いてから答えた。
「そうじゃのう……人が来ることは滅多にないわい」
「今言っていた、坊主ってのはどうなんだ」
「あれは最近見ないのう」
 のんびりとしか言い様のない口調にセレンは多少苛つき始めた。次に自分が何をすべきかわからない、そんな焦りを感じる状況だというのに、無駄な時間を過ごすなんて願い下げだ。
 これ以上話していても無駄だ、そう判断したが、ルピが老人の肩にいる手前このまま去るのも気が引けた。そんなセレンの心情を知ってか知らずか、老人が言った。
「お急ぎかな?」
 セレンは当たり前だ、と返したいのを抑えて沈黙を保った。老人は気にしていない様子で続ける。
「もしよければ、朝食に付き合ってはくれんかのう。久々の客人で嬉しくて仕方がないのじゃ」
 セレンはボケた老人に付き合うのなんて真っ平ご免だった。だが、ルピはさっきからセレンの視線に気付いているだろうに老人の肩を離れようとしない。老人はにこにことしたままセレンを眺めている。他にはまったく人の気配というものが感じられない。光の筋が、さっきよりも太くなっている。
 このままどれほどの広さがあるかわからない書庫を1人であてもなく徘徊するか、とりあえずの情報を求め老人の後に続くか。
 セレンが「構わない」と答えると、老人は笑い皺を更に深くした。

***

「遅かったなー、迷ってた?」
 老人の後についていくつもの本棚を通り過ぎ、おそらく彼の私室である小部屋に入った途端に、窓から射し込む光を反射して輝く金髪が目に入った。
「ほっほ。久しいのう。この悪餓鬼め」
「色々あってさ。あ、これ兄貴から」
 呆然としているセレンを他所に、イオが老人に何やら紙切れを渡した。老人は「ほうほう」と笑いながら紙に書かれた何かを読んでいる。イオがセレンを振り向いた。
「飯とってきたんだ。食う?」
「いらねぇ。それより説明しろ。ここは何処だ。なんでここに連れてきたんだ」
 問い詰める口調のセレンに答えたのは、老人だった。
「陛下は君に、ここでディアノイアになる為の勉強をして欲しいと、そう考えておられるようじゃの」
 呆けるセレンに、老人はにこにことしたまま座るように促した。イオがセレンのマントを掴み、自分の横、小さなベッドに座らせた。
 本当に小さな部屋だった。ベッドと机、丸椅子が2脚。セレンとイオと、それから老人でいっぱいになってしまう程に。セレンが座るのを見て、老人は丸椅子に腰掛けた。横の机ではスープが湯気を立てている。
「さてさて、何から話そうかの。わしはこの書庫の管理を任されておるフォッシル、その悪餓鬼たちには先生と呼ばれている爺じゃ」
「……セレナイト、セレンです」
「すげーぞ、先生ここにある本の中身全部覚えてんだからな。俺も色々教えてもらったんだ」
 イオが自慢気に広げた両手がぶつかりそうになり、身体を傾けて避ける。老人―フォッシルは楽しげに髭をゆらした。
「セレン、本は好きかの」
「……はい。勉強とは、具体的に何をするのですか?」
 フォッシルの腕から滑り落ちそうになっているルピを気にしながらセレンは言った。フォッシルはルピの絡み付いている腕を机に乗せ、柔らかな視線をセレンに向けると「そうじゃのう」と反対の手で髭を撫でた。
「それは後でゆっくり、2人で決めるとしようかの。イオ、セレンを案内してあげなさい。迷うことがないように。その間にわしは朝ご飯を食べてしまうからのう」
「わかった。行こう、セレン」
 イオが自然な動作でセレンの手を掴む。セレンは驚いて手を見下ろし、それからいまだ眠りつづけるルピを見た。イオが手を引っ張ってセレンを急かす。フォッシルがセレンの視線に気付いて「ほっほ」と笑った。
「この子はわしがちゃんとあずかっておくとも。さあ、行っておいで」
 促されるままに、セレンは小部屋を出た。

 いくつ棚を越えただろうか。しんと静まり返った書庫にイオの足音が反響した。少し先を歩くイオの肩をセレンは我慢しきれずに掴んだ。イオが立ち止まり、セレンを振り向く。
「ちゃんと説明しろ。わかるように。ここは何処だ。あのじーさんは何者だ」
 イオは目を丸く開き、それから笑ってまた歩き出した。
「ここは書庫だよ。色んな資料とか、歴史書とか、そういうのが全部置いてあるんだ。じーさんその管理してて、時々資料を調べに来る奴の手伝いをするんだ」
 イオの横を歩きながら、「それで」とセレンはまた口を開いた。
「王は俺に、あのじーさんから色々教えて欲しいって?」
「そういうこと。大丈夫、先生は俺たちの計画を知ってる。先生は兄貴が大好きなんだ。兄貴の手伝いになることならなんだってやるっていっつも言ってるくらいだからな」
 聞きたいのはそんなことじゃない。そう言って問い詰めたかったが、軽やかな足取りのイオを見ていると何故か言葉が止まってしまった。
 棚をひとつ越したところで、セレンはまた口を開いた。
「いつ頃、やるんだ」
 何を、までは言わず、セレンはイオが答えるのを待った。イオは「そうだなぁ」と宙を眺め、それからセレンに顔を向けた。
「今年いっぱいは無理だしなー。とりあえず兄貴が落ち着いて、セレンがちゃんと勉強して、それから。俺もしなきゃいけないこといっぱいだし。セレン今何歳?」
「14。次の夏で15だ」
 え、とイオが足を止めた。イオの驚いている理由を察し、セレンは軽く息をついた。
「まじかよ。1コ下?もっと下だと思ってた」
「悪かったな。来年で成人だ」
 確かにセレンは平均よりやや背が低い。だがこの2年は著しく背が伸び始めているし、最近ではディアナと同じ位にまでなった。それでもイオより頭半分は小さいのは確かだった。
 イオは「悪い悪い」とへらへら笑って、続けた。
「じゃあ来年だな」
「は?」
 くるりと前を向いて歩き出したイオの横に並びながら、セレンはイオの言わんとすることを探ろうとした。その横顔は何かを企んでいる時のカーフと何故かだぶって見えた。
「来年の建国式で俺たちは即位する。本当は今年、俺が成人するのに合わせてのはずだったけどディアノイアが見つからなくてさ。でも、今ならお前がいる。来年の秋だ」
 急過ぎるとセレンは思った。今年の建国式はもう終わった。今から約1年後にはもう職に就くなんて。
 けれどセレンは、真っ直ぐに前を見つめているイオに何も言わなかった。イオは長い間、ずっとずっと待っていたのだ。セレンがあれこれ言うべきではない。わかってはいた。イオが興味深そうにセレンの顔を覗きこむ。
「何も言わねぇの?」
「何をだ」
 セレンが返すと、イオは「いや」と言って頭の後ろで手を組み上を見た。
「早過ぎるとか、言われるかと思ったからさ」
「言ったら変えるのか?」
 イオが足を止め、まじまじとセレンを見下ろした。見下ろす、という表現もセレンにとっては癪だったが。セレンが何も言わずにいると、イオが笑い出した。
「多分変えない。わかってんじゃん。俺やっぱお前と上手くやっていける気がする。アンバーと会った時もそうだったんだけど、なんかずっと前から知ってたって気がするんだ。変だよな。なんかさ、アンバーがいて、お前がいて、ようやくホントなんだって思えてきたんだ。今ならできるって、そう思えるんだ。なんの保障もないのにだぜ? 馬鹿みてーって思うのに、わくわくするんだ」
 楽しそうに話すイオに、セレンは何も言わない。ふとイオが真面目な顔つきになり、セレンを真っ直ぐに見た。深い、蒼い両眼がセレンを映す。
「なぁ、本当にいいのか。後悔しないか?」
 一瞬の沈黙の後、セレンは鼻で笑った。イオが呆けたような顔をする。
「何を今更。勘違いするなよ、俺は俺自身の意志でディアノイアになるって決めたんだ。てめぇで決めたことくらい最後までやり通す。自分で決めたことで後悔なんざ、するわけねぇだろ」
 挑むように腕を組み、真っ直ぐに立って、真っ直ぐにイオを向いて。数秒の間の後、イオが半開きにしていた口を閉じてその口角を吊り上げた。
「ありがとう」
 真正面から言われると照れ臭い言葉。けれどセレンは笑い返し、「まだ早ぇよ」と軽口を叩いた。
 まだ早い。今始まったばかりなのだ。
 今、始まったのだ。


'07/10/06 11/16 修正


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