IT has Started to Begin.01






 王城前の市通りは暮れ時ということもあって混み合っていた。もう1、2時間経てば城に入りこむのが楽になるだろう。人の流れに沿って意味も無く通りを歩きながら、セレンは小さく鳴った腹を押さえた。感情にまかせて出てきたが、今になってあの温かなパンが恋しい。感情のままに動くなんて、今まではなかった。全てはイオのせいだ。
 どこかへ寄って軽食を取ろうにも、今の手持ちではスープを一杯飲めるかどうかというところだろう。そもそもセレンは普段金を持ち歩かない。小遣いや稼ぎは部屋に置いてあった。
 露店の前で立ち止まり、ディアナの好きそうな髪留めを見つける。暇があらばディアナはすぐにイリスを誘い込んでセレンの髪で遊ぼうとするのだが、それに使われるのが毎度毎度キラキラとしたものばかりなのだ。正直遠慮したいのだが、どうにもディアナから逃げおおせるのは難しい。あれだけ豊かな髪をしているのだから、自分ので遊べばいいものを。
「土産かい?」
 ニヤつきながら店主がセレンにいくつかの髪留めを差し出す。断り歩き出したところで、前方の店から叫び声と、ガラスの割れる音がした。
 野次馬に紛れて人だかりの中を覗きこむと、店主らしき男が店から叩き出されたところだった。すぐに中から兵士らしき格好をした、頭の悪そうな顔の男が出てきた。顔の赤いところを見ると酔っているのだろう。
「何があったってんだこりゃ」
「あいつが食事代を払わないって駄々こねてたのさ。まったく、ジャカレーがディアノイアになってから随分兵士の質が落ちたもんだ」
「めったなこと言うもんじゃないよ、この前だって酒屋の息子がそれで酷い目にあったっていうじゃないか」
 耳を澄ますまでもなく、そんな会話が聞こえた。と、にわかに反対側の人だかりが騒がしくなる。
「どけっつってんだ、道を開けろ!」
 聞き覚えのある声に、見覚えのある荒々しい赤髪。アンバーが怒鳴りながら人だかりの輪の中に姿を現した。息を呑み、セレンは人影に身を潜めた。アンバーが這いつくばっている店主とあからさまに顔色を変えた兵士とを見比べ、「どういうことだ」と凄んだ。
 蒼い顔になった兵士は、もごもごと言い訳めいたことを口走っている。酔いは一気に醒めたらしい。「無礼な態度」だの「不敬」だのという言葉が聞き取れた。店主が恐れの表情を浮かべながらアンバーに訴える。
「この方が食事のお代を払おうとしなかったんでさ、アンバー様」
「違いますアンバー殿、こいつはディアノイア様の悪口を言っていて、それで自分は」
「うるせぇ黙れ」
 それほど大きい声ではなかったが、店主も兵士も、野次馬達も皆静まり返った。アンバーが兵士を睨みつける。
「いいか。誰がどこで何を言おうが、そんなのは検隊の仕事だ。どうしてもってんなら検隊に報告すりゃいい。こいつが誰の悪口を言っていようが、てめーが飯代を払わなくていい理由にはならねーだろうが」
 一言一言が腹に響く。決して声を荒げている訳ではない。なのに怒鳴りつけられているような錯覚を覚えた。兵士は恐怖に震える唇を噛み締め、じっと俯いている。次にアンバーはまだ座りこんだままの店主を見下ろした。アンバーはあからさまに怯える店主の肩口を引っ掴むとそのままぐいと立たせ、きょとんとしている店主の手に財布を落とした。
「悪かったな。後でちゃんと修理代は持ってこさせるから、今は勘弁してくれ」
「え、あ、はい、あの、ありがとうございます」
「アンバー殿がそんなこと、自分が」
 予想外の行動だったのだろう、兵士が面白いほどに慌てふためいている。アンバーがじろりと兵士を睨みつけた。
「たりめーだ、覚悟しとけ。最近変なところで調子に乗るバカが増えてるんだ、ここらで一発締め上げとかにゃ示しがつかねーからな」
 アンバーの言葉に、また兵士が縮みあがった。まだ店主は呆けた顔をしてアンバーを見上げている。セレンは静かにその場を離れた。
 アンバー、前ケイルの息子。イオ達の企みを調べる傍らに彼等自身についても調べたが、“役立たず”のイオとは違ってアンバーの評判は良かった。
 あれだけの若さで王族近衛になるほどの腕前は、決して前ケイルの威光だけによるものではない。それは対峙したセレン自身がよくわかっている。それに今年の闘技大会でも優秀な成績を上げている。アンバーは兵士達からの信頼が厚く、国民からも“アイオライト様”とは違いかなりの好印象を持たれていた。それはジャカレーに媚びない、さっきのような姿勢によるものだろう。城内でも、前ケイルに世話になっていたものが多いせいか、そこそこの発言力を持っているらしい。それこそイオよりも。
 対してイオの評判は、城内外ではっきりとわかれていた。正確には、兵士たちとそれ以外とで。
 幼い頃から放って置かれていたイオの遊び相手は兵士たちだった。時には兵宿舎で寝食共にすることもあったらしい。そんなことができたのも、ジャカレーがイオを馬鹿だと放置していたおかげだろう。正確に言うのなら、イオはむしろ自分を馬鹿に見せるように行動していた。自分はジャカレーの脅威にはなりえない。そう思わせるように。実際セレンも“アイオライト”はただの馬鹿だと思っていたし、直接話していなかったら今でもそう思い続けていたままだったろう。
 ところが兵士達の間では、“気取らず親しみのあるアイオライト様”で通っている。ふざけて“イオ様”と呼ばれることすらあるそうだ。本来なら不敬の罪で斬られてもおかしくないのだが、誰も―というか裁く立場にあるジャカレーその他ということなのだが―イオに“敬”する価がないと思っている。思わされている。
 知れば知るほど、イオが恐ろしく思えてきた。並以上の頭脳を持っているジャカレーを騙しきり、その目の前でジャカレーを引き摺り落とす計画を進めている。そしてそれを全くといっていいほどに気付かれていない。ジャカレーが、イオにそんな頭も度胸もないと考えているからだ。そう思わせるように幼い頃から行動してきたからだ。ジャカレーが先代の王に毒を盛る前、2人の王子の存在を疎ましく思ったことだろう。事実兄王子カイアナイトは王たるに充分な品格を備えていた。けれど当時からイオは兵宿舎に入り浸って遊んでいた。第2王子として、王位を継ぐことはまずないと考えていたからかもしれない。けれどそれから一度も疑われることなく、かと言って気に入られることもなく絶妙な“放って置かれる”立場を今に至るまで彼は常に維持してきている。
 あのへらへらとした顔の裏で、いったいどんなことを考えているのか。今はいい。少なくともセレンは敵ではない。けれどいつかもし、対峙する時がくるとしたら――
 知らず乾いた唇を舐め、セレンはかがり火に浮かび上がる城を見上げた。目の前には先日のツタに覆われた穴。空は暗い。セレンはポケットに入れた小瓶を上から押さえた。ルピが耳元で囁く。
《イク ノカ》
 答えず、セレンは掌を見下ろした。ここで進んだら、もう後戻りはできない。生活だとか考え方だとか、そんな小さなことじゃない。全てが変わる。それはもう直感だった。
“Artos”での、安穏とは云い難いが心地よい空間を失うかもしれない。6年前にスネイクに拾われ名をもらい、それからずっと過ごしてきたセレンの家。兄弟のように接してきたカーフやディアナ、それにイリス。母親のようなタータ。
 それら全てを失うかもしれないのに、数日の付き合いでしかないイオの元へ行く必要があるのか。反逆の罪で捕まるかもしれない危険を冒す必要があるのか。
 目を閉じれば蘇る蒼。充足感。ずっとずっと、物心ついた時から探し求めていたもの。
 セレンは静かに目を開き、手を握り締め自分に喝を入れるようにして力を込めた。それからツタを持ち上げ、一瞬躊躇してからセレンは身を滑りこませた。
 暗がりの中、かがり火を反射して白刃が迫る。横っ飛びに避け距離をとり、バネを矯めてナイフを構える。普通の衛兵ならば声をあげ仲間を呼ぶはずだ。だが相手はその素振りすら見せない。白刃が伸びてくるまで気配にすら気付かなかった。かなりの手練だ。待ち伏せされていたのか。
 けれど疑問は一瞬にして解けた。暗がりの中白刃は鞘に収められ、威圧感のある黄金の瞳がセレンを見下ろしていた。
「何をしている」
「仕事だ」
 睨み合う。ルピがいつでも飛びかかれるように肩のあたりでバネをつくった。アンバーが口を開く。
「どの面下げてのこのこ出てきやがった。逃げたくせに。それに王は断ったんじゃねーのか」
「生憎品を受け取ったもんでね。仕事はきっちりこなす。それが“蛇”だ」
 身体を起こしながら答えると、アンバーは苛ついた表情を見せた。舌打ちが聞こえる。
「……お前が来たら連れてこいって言われてる。俺の意志じゃない」
「そうか。ならお前が俺を見なかったことにすれば何も問題はないな。わざわざ案内してもらう必要はない」
 念を押すように付け加えられた言葉に、セレンはわざと相手が苛つくであろう言葉を選んだ。狙い通りアンバーが目じりを吊り上げ、今にも怒鳴りそうに口を開き掛ける。けれどもアンバーは口を閉じると、踵を返してセレンに「来い」と短く言った。
 無視して勝手に入ることは勿論できた。城への侵入経路は頭に入っている。アンバーはセレンを捕まえ突き出すような真似はしない、それもわかっていた。けれどセレンはアンバーが気に食わなかった。多少幼い部分もあるが、人望の点で言えば確かにアンバーは上に立つ人間として優れているだろう。けれど、こうも敵意を剥き出しにされ受け流せるほどセレンは大人ではなかった。
 それでもセレンは、暗闇に歩き出したアンバーの後をおとなしく追った。
 無言で進むアンバーの後を無言で追う。背の高いアンバーは歩幅も広く、セレンは悔しいが小走りにならざるをえなかった。植込みをまわり、明らかに使われていないだろう通用口へアンバーが入っていく。後に続きながら、いくら夜目が利くセレンでも、真っ暗闇ではどうしようもなかった。けれど足音は迷わず進んで行っている。セレンは壁に手をつきながら、反響する足音を追った。幅は狭く、天井は低い。
「なんで来た」
 突然アンバーが、歩みを止めようとはせずにぶっきらぼうに言った。セレンは少しの間を置いてから答えた。
「王に薬を届けに来た。そう言っただろう」
「そうじゃない」
 足音が止まった。振り向く気配がする。セレンも足を止め、アンバーの言葉を待った。アンバーが言葉を選びながら、考えながらという風にゆっくりと言った。
「お前は王の誘いを断った。王の言っていた意味くらいわかるだろう。お前がジャカレーに密告すれば俺達は終わりだ。そんな危険な相手を野放しにできるとでも思ったのか? 遭えば殺されると少しでも考えなかったのか?」
 さっき聞いたのとは違う、威圧感も怒鳴りつけられる感覚もない声。静かに響く声。セレンは間をおいてから、同じようにゆっくりと答えた。
「俺は馬鹿じゃない。どっちが得かくらいはわかっているつもりだ。裏切り者にはどう足掻こうが破滅しか待っていない。ならば王に恩を売った方が“蛇”に有益だろう」
「嘘をつくな」
 セレンが最後まで言う前に、アンバーが苛立ちをあらわにした声で押し殺すように言った。けれどセレンよりも、言った本人がその言葉に驚いている風だった。アンバーは大きく息を吸った後、「もうすぐだ」と踵を返した。セレンは何も言わず、さっきよりも早くなった足音に小走りでついていった。
 セレンが言ったことは嘘ではない。けれど、本心でもなかった。
 セレンの本音。それは上手くは言えないけれど、あえて言葉を選ぶとしたら――興味、だろう。それ以外の言葉は思いつかなかった。イオのしようとしていることを見たい。知りたい。それだけだった。こんな単純な、損得すら考えないで動くのは久しぶりで、それが全てイオに関係するところで起きている。イオと会ってからセレンは調子が狂いっぱなしだった。初めはそれが嫌だった。振り回される自分が嫌だった。次に恐れた。自分に理解の出来ない感情を起こさせるイオを。自分を自分で理解できないことが恐ろしかった。
 そして今、それは興味へと変わった。いや、前々からそれはあった。けれど認めることが怖かった。自分の全ては“Artos”で、それ以外に心奪われることが怖かった。でも今は違う。もう決めたのだ。
 真っ暗の通路は急な登り階段になり、螺旋状のそれを2人で黙々と進んだ。アンバーが立ち止まり、横にある扉を薄く開ける。それほど明るい訳ではないのはわかっていたが、それでもずっと暗がりにいたセレンには眩しかった。アンバーがちらとセレンを見て外に出る。後に続いて出ると、そこは物置のような場所だった。アンバーはソファのようなものの上にかけてあった汚い布をとって頭から被り、セレンにも同じものを寄越すと暖炉に入っていった。煤が足の消えた場所から落ちてきている。セレンはルピを先に出し、後に続いた。上に登り、横道を這って進む。セレンはそれほどでもなかったが、大柄なアンバーには狭いのではないかと感じた。しばらく進むとたんと降りる音がして、うっすらと下から明かりが洩れているのが見えた。
 壁に手をつき体勢を変え、足から下に降りる。確かな固い感触が足の裏を伝わった。その場で布を剥ぎ取り暖炉をくぐる。そこは王の部屋だった。
 白を基調とした部屋。ベッドの上に人はなく、暖炉の脇にアンバーと、椅子に腰掛けるカイアナイトその人が微笑んでセレンを見ていた。
「久し振りだね。セレン」
 アンバーはじろりとセレンを睨んでから、隠し扉を抜けて隣りの部屋に行ってしまった。必然的に部屋にはセレンとカイアナイトの2人だけとなる。
 セレンは息を整え、小瓶を取り出した。
「薬を持ってきました。食事の都度に蓋一杯分を飲んでください」
 カイアナイトは穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「ありがとう。でも私は断ったはずだよ。私が治ってしまうと色々面倒なんだ」
「“術師”の薬はただ治すだけではありません。これを飲めばあなたが死ぬことはなくなる、それだけです」
 言って、セレンはサイドテーブルに歩み寄って小瓶をその上に置いた。振り向くと、カイアナイトがじっとセレンを見つめていた。
「それで、私はどう解釈すればいいのかな」
 相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、カイアナイトが言った。セレンはその場から動かず、カイアナイトの言葉を待った。
「正直を言うと私は、また君が来る時はきっと考え直してくれた時だと思っていたのだけど、そう考えてもいいのかな」
 セレンは間を置いてから、ゆっくりと答えた。
「そう、だと思います。前、確かに俺は断りました。でも」
 言葉が続かない。どう言えばいいのかわからない。カイアナイトが手招きをする。
「あの子を嫌いになるのは難しいだろう?」
 椅子の前に立ち、セレンはカイアナイトを見下ろした。くすくすとカイアナイトが笑う。
「あの子ほど王に向く人はいないと私は思っているんだ。王に必要なものが何か、わかるかい? 威厳でも、力でもないんだ。それはね、人に好かれる才能だよ。人を惹き付ける才能。あの子ほどそれに恵まれた子はいないんじゃないかな」
 楽しそうに話すカイアナイトを、セレンは黙って見下ろしていた。
 人を惹き付ける才能。確かにイオはそれを持っているだろう。カイアナイトがふとセレンを見上げる。イオに良く似た深く蒼い瞳。
「考え直してくれた、と言っていたね。でも、と。君はイオのディアノイアになってくれるのかい?」
 一旦息を止める。目を閉じれば、色々なことが一瞬の内に瞼の裏を駆けた。スネイクのこと、“Artos”のこと、苛立ち、不安、金に蒼。
 ゆっくりと目を開き、セレンは確かに頷いた。
「はい」
 後戻りは、もうできない。しないと決めたから。



'07/10/01 11/16 修正


NEXT→