IT BIGINS to MOVE.04







 “Artos”には帰らず、セレンは真っ直ぐ“術師”の家に向かった。地下道を抜けると既に日は昇っていた。家には誰も、マダムさえいず、セレンは内心ほっとした。
 火の気のない暖炉を素通りし、埃まみれの寝床に倒れこむ。細かな粒子が舞いあがりゆっくりと落ちきるまで、セレンは身動きひとつしなかった。ルピは既にセレンを離れ、暖炉の脇でとぐろを巻いている。明かり取りのひとつだけある窓から細い光が射し込んで、ようやくセレンは寝返りを打った。
 カイアナイトの言わんとしていたことくらい、わかっている。まさか、目星が自分だったなんて。
 まさか、だった。ありえなかった。生まれも定かではない会って間も無い自分が、まさか。
 けれど、何故かあの時一瞬浮かんだ、ディアノイアとしてイオの横に立つ自身の姿。揺らめく炎のように一瞬だったけれど、確かに思い浮かべることができたあの情景。馬鹿馬鹿しい。わかっている。自分は生きる世界が違う。自分は光を浴びる存在ではない。光を浴びた物体の影を見て、それで光を認識できる程度でいい。
 ローブにくるまり、セレンは静かに目を瞑った。けれども瞼に浮かぶのは、イオと何故かアンバーの姿。袖を掴み引きとめた、頼りなさげなイオの顔と、荒々しい、けれど真っ直ぐなアンバーの金の瞳。どちらも、真っ直ぐにセレンを見ていた。あまりにも真っ直ぐ過ぎる眼。それから続いて浮かぶのは、消え入りそうに薄く白いカイアナイトの姿。白い寝巻きに薄い金髪、けれども深い蒼の両眼。眼。眼。忘れられない。振りきれない。逃げられない。どうして。
 セレンは深く息をついて身体を起こした。立ちあがって棚に近付き、夢もない眠りをもたらす薬を探す。乾いたもの、湿ったもの、液体に粉末、どれもが瓶に密封されている。その中の一つに目当てのものを見つけ、セレンは手を伸ばして小さな瓶を取った。小指の爪ほどの、丸い粒。それを一粒取りだし、小瓶を元の位置に戻す。視線にふと目をやると、ルピがじっとセレンを見上げていた。セレンは何も言わずに寝床に戻り、粒を口に入れる。 柔らかな甘みと、ほんの少しの苦み。奥歯でさらに薬を砕き、香りを口の中いっぱいに広げる。程なく眠りがセレンを包み込んだ。

***

 目が覚めると暖炉に火が入っていた。炉端には見慣れた人影が座っている。ぼうっとしたまま起き上がると、スネイクは振り向いて口の端で笑みを浮かべた。
「顔を洗ってこい。目が覚めるだろう」
 頷き、立ち上がって部屋を横切る。何故いるのか、など聞く意味はない。ルピがスネイクの膝元でセレンを見上げていた。薬を呑んだとスネイクに言いつけでもしたのだろう。マダムはとぐろに頭を突っ込んだまま、動こうともしなかった。
 小屋を出て獣道を少し行くと、渓流の流れる淵がある。小屋の外にある水瓶の水は、ここから汲んできたものだ。水は澄み、深い。一段高くなった場所から水が流れ込んでいる。手を浸すと切るような冷たさが肌を包んだ。セレンは上着を脱いで横に丸めると、ごつごつとした岩に膝をついた。
 澄んだ水面に白い髪が幾筋か垂れ、ゆらゆらと浮く。その奥では赤い瞳がセレンを見返している。ついと手を動かせば水面に細波が走り、セレンの姿をかき消した。揺れる水面はやがてもとの静けさを取り戻し、また鏡の真似事をする。ぐらりと赤い瞳が近付き、セレンは頭から水の中に落ちた。
 膝を抱えて丸くなる。切るような冷たさはやがて奇妙な心地よさとなり、セレンの身体を包み込んだ。閉じていた目をゆっくりと開けば、きらきらとした光が水中を走っているのが見える。水の中ほどまで沈んだ身体は、けれどゆっくりと上昇していった。身体を開いて仰向けに水面に近付く。きらきらがどんどん近付いてくる。水面にあお向けに漂っていると、耳を覆う水が周りの音をぼんやりと遮ってくれた。冷たさが徐々にセレンの頭を覚ましていき、思考が蘇る。
 深い蒼。やつれた顔。ただ一人の肉親を失いたくないと咆える必死の形相。
 何故、自分だったのか。ただ一度会っただけの自分を何故。ディアノイアとケイルは王の腹心だ。昔から、それなりに地位も経験も持った王の身近な人間がその職に就いてきた。アンバーがなるのはわかる。先代ケイルの息子であり、今ではイオ、王族の近衛である。けれど自分はどうだ。親の顔も知らず、スネイクに会う前まではそれこそ獣同然の扱いを受けてきた。今でさえ、セレンの名を知っているのは“Artos”の連中でしかない。素顔を知っている者はその中でも数えるほどだ。それが、どうして。
 水からあがり、水滴を垂らしながら小屋に戻ると、中に入る前にスネイクにタオルを放られた。シャツを脱いで絞り、近くの枝に干す。上着にくるまり暖炉の前で膝を抱えると、スネイクに乾いたシャツと温かなマグカップを渡された。暖炉の前にはパンが暖められている。ぶかぶかのシャツをかぶり、セレンは両手をマグカップで暖めた。
「効かなくなるぞ」
 腕にマダムを絡ませながらスネイクが言った。勝手に薬を飲んだことで叱るつもりはなさそうだ。ルピは丸くなって眠っている。セレンはちらりと棚の瓶を見遣り、ルピの腹を足の先でつついた。
「それで、どうするんだ」
 深緑の細い蛇が、暖炉の上で丸くなっていた。スネイクが暖炉に薪をくべる。大方、昨夜の出来事をこの蛇が伝えたのだろう。小屋の中に入れるのは、マダムを除いて仕事をした蛇か、セレンについてくるルピくらいのものだから。それともずっと見張られていたのだろうか。
 液体を一口すすり、スネイクの方を見ないようにして答える。
「俺はずっとここにいる。…あんたのところにいる」
「それで、いいのか」
 パチと薪が爆ぜた。反応があるとは思ってもなかったセレンは、顔をあげてスネイクを見た。長い指がパンを取り、セレンに寄越す。温かなパンを持ったまま、セレンはスネイクの次の言葉を待った。
「お前は、どうしたいんだ」
 黒い瞳が真っ直ぐにセレンを射貫いた。思わず目を逸らす。スネイクにごまかしは効かない。ほんの少しの動揺も、迷いも、すぐにばれてしまう。
「…わからない」
 正直に言う。始めの一言が出てしまうと、あとは言葉が勝手に流れ出ていた。
「俺はここにいたい。“Artos”が俺の家だし、あんたの傍にいたい。でも、頭からあいつの顔が離れないんだ。どうしてもあの目が忘れられない。なんであいつが俺をディアノイアにしたいのかわからないんだ。ディアノイアに向いてるやつなんか他にいっぱいいるだろ? あいつが何を考えてるのかわからないんだ。何考えてんのか、何したいのか、予想できない。なんで俺なんだよ。……わからないんだ、どうしたらいいかなんて。そんなの俺が知りたい」
 堰を切ったように喋るセレンを、スネイクは遮ることはしなかった。セレンの言葉が途切れた時に、ようやくその口を開く。
「受けたそうだな。依頼」
 意味がわからず、なんの表情も浮かんでいないスネイクを、間抜けだとはわかっていたが口を開いて見つめた。王のことだろうか。ルピがとぐろを解いてセレンの肩によじ登った。半開きの口のまま、スネイクが袖から出した小瓶を受け取る。とろりとした飴色の液体が入っている。
「食事の度に蓋一杯分呑め。毒を中和する。それが空になったら新しい薬を持たせると伝えろ」
「…でも王は断るって、それに」
「ルピが貰ったと言っていたぞ」
 瞬時に昨夜の光景がセレンの脳裏に蘇る。サイドテーブルのブドウ。確かにルピはカイアナイトの手からそれを食べていた。口を閉じ、セレンは尚もスネイクを見つめた。スネイクは薪をくべ、セレンには目も向けずに言った。
「俺の仕事は終わった。それをどうするかはお前次第だ」
 手の中の瓶にもう一度目を下ろす。“お前次第”。持っていったら、今度こそセレンは確実に面倒事に巻きこまれる。“蛇”としてではなく、セレナイト個人として。事務的に薬と伝言を渡し、それ以上の関わりを持たないようにすることは勿論できるだろう。けれど何故かそうはならないだろうという奇妙な確信にも似た何かがセレンの中にあった。
 小瓶をポケットに入れて立ちあがる。まだ湿っている髪をひとつに括り、セレンはフードを被った。
 あの時、あの雨の日にイオに出遭ったその時から、もしかしたら既に決まっていたのかもしれない。いや、もっと前から。物心ついた時からずっとあった渇望感。それがイオに遭った時、始めて満たされたという気分になった。イオも感じていたのだろうか。あの渇望感を。“すとん”と“何か”がはまる感覚。まさにそう。
 スネイクは何も言わず、マダムの頭を掻いている。セレンはひとつ息をつき、扉を開けた。



'07/9/07 11/16 修正


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