MOON WHITE AND OCEAN BLUE.1






 視界いっぱいに広がる赤に飛び起きた。途端全身を引き攣るような痛みが走り、セレンはそのまま膝に顔を埋める。長く伸びた髪が、肩を滑り落ちてシーツへと広がるのがわかった。浅く早く、段々ゆっくりと深く息を吸い、吐く。あらかたの痛みが収まったところで、ようやく辺りに気を配る余裕ができた。
 知らない場所。滑らかなシーツに、柔らかで大きな、赤い天蓋つきの今の今まで寝かされていた豪奢なベッド。サイドテーブル、その上の見覚えのある服。セレンの服だ。それに赤い布のはられた丸椅子が2脚。絨毯までが深い赤。対照的に白い壁、それから大きな暖炉。1つだけある大きな窓には、白いレースのカーテンが引かれていた。人の気配はない。それにひとまずは安堵し、セレンは自分の身体に目を落とした。
 きっちりと巻かれた清潔な布が、上半身の至る所を覆っている。シーツを捲れば、ズボンの裾から右足に添え木がされているのも見えた。誰によってかは知らないが手当てされている。セレンは状況を把握しようと記憶を手繰った。

 何をしていたのだろう、自分は。確か“Artos”へ向かっていた。そう、スネイクの元へと。先にルピを行かせ、雨の降る中屋根を走っていて、それで足を滑らせた。伸ばした手までが空をかいて宙に投げ出され、そして薄れる視界の中、それでもはっきりと映ったもの。きれいな、あお。
 発作的に右腕を掴む。急に動いた為に再び走る痛み。あお。気を失う前確かに見た。深く澄んだ、綺麗な蒼。そう、覚えている。あの蒼を見て、見たからこそ自分は意識を手放した。あの時感じた、安堵とは違う“何か”。なんだったのだろう。ただ、あの不思議な感覚に自分は身を任せ、意識を手放した。

 ゆっくりと腕から手を離し、セレンは小さく息をついた。確かにあの感覚、それに“蒼”の正体は気になる。ただそれよりも考えなければならないのは、ここが何処なのかということ。怪我をしている、つまり自在に動くことの出来ない中で独り見知らぬ場所にいるこの状態は、あまり良いものとは言えなかった。
 まずは状況の把握と、セレンはゆっくりと身体に響かぬようにしてベッドから降りる。添え木をされた右足にもゆっくりと体重をかけ、両の足で身体を支えた。立つことはできる。ゆっくりとした動作のまま、セレンはサイドテーブルの上に置かれた自分の上着を手に取った。シャツとフードマント。マントのポケットには愛用の折りたたみナイフ。足りないものはなさそうだ。シャツを着るのには腕があがらず、取り敢えずマントをフードごとすっぽりと被る。窓辺に寄って外を窺おうとした時に、人の気配に気付いた。
 足音がひとつ。軽い。子供だろうか。忍ばせているようだが足音を隠しきれていない。素人だ。窓から逃げるのはあまり得策とは言えない。隠れるか、時間が足りない。不意をついて襲うべきか。一瞬のうちに展開するいくつもの行動、今一番の良策は。
 セレンはナイフに手を伸ばしたままいつでも行動をおこせるようにして、ベッドを挟み窓の反対側にある扉に向き直った。キィ、と遠慮がちに開く扉。光が射し込み、気配の主を影にした。息を呑む。
「あ、起きた」
 入ってきたのは、セレンとそう歳の変わらぬように見える子供だった。癖のある金髪に健康的な肌、一目で上質と判る衣服。それよりもセレンの目を惹いたのは、きれいなきれいな深いあお。最後に見たあの蒼。驚きで目を見張る。
「あーあんま動くなよ。座ってろって。足怪我してんだから」
 身構えるセレンを他所に、少年はトレイを持ったまま部屋の中へ入ってきた。真っ直ぐ、なんの警戒も無しにセレンに近付いてくる。セレンは2、3歩後ずさって距離をとったが、少年はそんな行動を気にする様子もなくトレイをサイドテーブルに置くと、屈託のない笑顔をセレンに向けた。
「よかったー、ずっと起きねぇのかと思ったもん。俺イオ。お前は?」
「い、あ、セレン」
 言って、我に返って口を押さえる。何をしている、知らない人間に対して。けれど少年――イオは気にする様子も無く、つかつかとセレンに歩み寄ると腕を伸ばした。飛び退き手を避け、着地の際に走った痛みに顔を顰める。イオが困ったような顔をした。
「痛いんだろ。座れよ、なんもしねぇから」
 な、と言ってイオがベッドに腰掛け両手を挙げるのを見て、セレンは呆れてしまった。油断させる罠かもしれない。けれど、そんなことを微塵も感じさせない自然な動き。いや、疑うことすら馬鹿らしくなるような雰囲気。セレンはつい流されて、手近の丸椅子に座ってしまった。離れた位置に座ったセレンにイオが苦笑し、トレイに手を伸ばしてパンを放ってくる。片手でそれを受け取って、セレンは観察を兼ねイオを見た。
「食えよ。腹減ってるだろ」
 何を考えているのかわからない。悪意はないようだ。今までと違う、慣れない応対に戸惑う。おそらく自分を運んだ、もしくは運ばせたのはこの少年だろう。何の為に。
 パンに目を落とし、少し千切って口に含む。柔らかな甘みが口に広がり、そこで初めて自分がひどく空腹なことに気付いた。パンは冷めているというのに柔らかく、美味しかった。ひとつ食べ終えるとまたイオがパンを放った。受け取り、それも食べる。「水は」と聞かれて手を突き出せば、ゴブレットを渡された。それを一気に煽ると、冷たい水は染込むように喉を流れ、セレンは手に残るパンを口に押し込み流し込んだ。
「落ち着いたか」
 答える代わりにセレンはぐいと口元を拭い、ゴブレットを突き返した。
「も少ししたらもっとちゃんとしたもん持ってこれっからさ。もーちょい待っててくれよ」
「お前」
 へらりとしながら言うイオに、セレンは半ば呆れ混じりに言った。警戒する気も起きない。変な奴。
「何なんだ。ここは何処だ、お前が俺を連れてきたのか?」
「俺は俺だよ。アイオライト。長いからイオ。ここ、俺の部屋。連れてきたのも俺。手当てしたのもな」
 アイオライト。何処かで聞いたことがある。何処でだったか。記憶を探るセレンを他所に、イオがベッドから降りた。無意識に強張る身体を気に掛ける様子も無く、イオはセレンの横を通って窓を少し開けただけだった。隙間から入る風がイオの金髪を翻らせる。少し強い風。
「びっくりしたぜー、変な音がして見に言ったら人が倒れてんだもん。死んでんのかと思った。何してたんだ?」
「別に。そっちこそ、あんなところで何してたんだよ」
 セレンの言葉にイオが振り返り、小さく笑った。
「べーつに」
 からかわれている気がして、セレンは少し苛立った。イオが窓枠に手をついて寄りかかっている。
「どうして助けた」
 セレンがいたのはスカンダロンと呼ばれる、治安が良いと評判のヘリオット王国で一番治安が悪いとも言われている地区。そんなところにイオのような子供がいたのも不思議だが、そんなところにいた人を助けるのも理解できなかった。仲間ならわかる。だがまったくの見知らぬ人間を連れ帰って手当てするなんて、馬鹿だとしか思えない。けれどイオはセレンの問いに、逆に不思議そうな顔をした。
「どうしてって、普通だろ」
 どうにも警戒心というものがないらしい。こんなところに住むくらいだ。貴族か、それに準ずる箱入りなのだろうとセレンは予測をつけた。自分達とは真逆の存在だ。
「あそこがどこだか、わかって言ってんのか」
「んー……だってさ、俺自分の勘とかすっげぇ信頼しちゃってんだよね。あ、こいつだって思ってさ」
 何の含みも感じられない、ただそのまま思うことを口にしただけ、という様子のイオに、セレンは戸惑うことしかできない。
「何が、だよ」
「え、ああ、なんかさ、お前見たらすとんって、うーん……なんだろ」
 一人首を傾げるイオを、奇妙なモノであるかのように――といっても実際奇妙だったのだけれど――見て、けれどそれに納得している自分に驚いた。急に真っ直ぐ、イオがセレンを見る。フードが影を落とし向こうに顔はほとんど見えていないはずなのに、何故か落ち着かなかった。
「セレン、だっけ。お前は、俺見てなんか思わなかった?」
「……なんか、って」
「なんつーのかなぁ……安心、じゃなくて、えーと」
 感覚だけで話そうとするイオを、セレンは馬鹿にできなかった。
 あの時の、不思議な感覚。まるで足りない何かが見つかったかのような、錠に鍵がはまったかのような、奇妙な充足感。あ、とイオが短く叫んだ。
「ごめん俺もう行かなきゃ。あんま遅れると勝手に入ってくるから」
「何が」
「1、2時間したら戻ってこれっから、それまでこっから出んなよ。お前がいんの内緒なんだからな」
「あ、おい待て」
 急に走り出すイオに、思考に沈みかけていたセレンは不意をつかれる。そのまま部屋を出ていったイオを、ただ見送る形になってしまった。
 変な奴だ。今まで出会った中でも格別に変な奴。奴のペースに巻きこまれたことが、セレンは妙に腹立だしかった。苛々としたまま立ちあがり、窓辺に寄る。そしてカーテンを少しめくり、藍色に染まる空の下、墨色の街を見下ろした。何処か、違和感を感じる。
「……嘘だろ」
 違和感の正体に気付き、思わず呟く。街を一望できる高さの建物。そんなもの、セレンは1つしか知らない。
 クリスタウロ城。この国の、ヘリオットの王城。聞いたことのある名前の筈だ。アイオライトといえば現国王カイアナイトの弟、つい先日小耳に挟んだばかりじゃないか。兄が暗殺されかかっているのに何も知らずにふらついている無能の次期王。ディアノイア“考える者”、ジャカレーがカイアナイトの毒殺に成功すれば、次の人形になる予定の可哀相な男の子。
 だが何故、何故王族があんなところにいたのか。セレンが落ちたのは、カイアナイトが病気で伏せてから、ジャカレーが国を仕切るようになってからますます治安の悪くなったスカンダロン。普通ならば避けて通りたい場所。そんなところに何故。そこらの子供が度胸試しと称して入り口付近で遊んでいるのは度々見掛けたが、セレンがいたような、あんな奥にまで入り込むなんて。
 考えれば考えるほど訳がわからなくなっていき、セレンは思考を一旦止めてベッドに戻ると倒れこんだ。その拍子にフードが外れる。柔らかなマットが沈み込み、優しく身体を押し戻した。ふわふわとしたその感触が気持ち良い。
 ルピが戻れば、何かわかるはずだ。赤い瞳がこちらを見上げ甘える様子を思い出し、セレンはふと笑みを漏らす。今のうちに逃げる、“Artos”に帰る、という考えは無かった。理由としては、窓からは逃げられないし、第一まともに動かぬこの身体では王宮の警備を抜けるのは難しいだろうというもの。だが本音としては。
 興味、だろう。イオに対する興味。あの不思議な感覚。蒼く深い瞳。噂に聞いた馬鹿ではないと、そう思った。
 確かに何を考えているかはわからないし、無邪気と言えば聞こえはいいが物知らずのようにも見えた。けれど、ただの馬鹿ではないと思う。矛盾している、それはわかっている。疲れてるのだろう。まともに頭が働かない。段々と薄れゆく意識の中、最後に思ったのは、何故かあの蒼だった。

'07/06/02('13/09/24加筆修正)

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