苦手だと、初見で感じたのを覚えている。そしてセレンは基本的に己の勘を信用する。特に危険危機回避に関するものへのそれは、当たろうが当たるまいが勘を信じることにしていた。
そして、やはりヴェルデライトは苦手な類だった。
「おお、セレン殿! 今日こそ手合わせする気になられたか」
「書類を回収しに来ただけです」
警備隊が交代して半月が経った。第21分隊から第25分隊は、第50分隊副隊長が迎えにきた為に先週のうちに国境警備に向かっている。問題は、第50分隊長ヴェルデライトが兵宿舎に入り浸り、何かにつけてセレンと試合おうとすることだった。
ラベイを第2兵宿舎建設の責任者につけたお陰で滞りがちなアンバーの仕事を未処理のまま回収し、セレンはヴェルデライトを振り向いた。
「ヴェルデライト殿。久方振りの古巣で懐かしいのはわかりますが、そろそろ職分を思い出されてはいかがですか。貴方は国境警備の責任者でしょう」
ため息をつけて言ってやったが、彼に反省の色は見られない。「セレン殿との手合わせが済み次第戻りましょうぞ」などとのたまっている。彼も兵士である以上、ケイルの管轄下にある筈なのだが、父親という肩書きの手前か何なのか、アンバーの「さっさと帰れクソ親父」という言葉は右から左状態になっていた。
「私は文官です。常日頃から第一線に立っている貴方と、どうして手合わせができましょうか」
けれどこれでは他の者に示しがつかない。ただでさえアンバーは若すぎるのだ。今までは彼の人柄で統率がとれていたが、そこに例外があってはならない。セレンは身体ごとヴェルデライトに向き直り、声色を冷ややかなものに変えた。
「私が貴方に刃を向けたのは、貴方が陛下に刃を向け、本来陛下をお護りする筈であった兵士が職を忘れていたからです。大陸に誇るヘリオットの兵士が文官如きに遅れをとるなどあってはならないことですが、責任者がその意識を持たないというのであればそれも致し方ないことなのでしょう」
話を聞いていた周囲の兵士の間に剣呑な空気が流れたが、すぐにそれは反省へと変わる。この妙に素直なあたりは良いところだとは思うが、肝心のヴェルデライトは感心するばかりだった。
「これだけしっかりした方がいるともなれば、小僧も愚息も下手な真似はできんなあ。いやはや、年の割にしっかりしておられる」
それに、これ。うんざりとしつつ、セレンは「ヴェルデライト殿」と返した。
「私への言葉遣いを改めるのであれば、陛下に対するものも改めてください。貴方にとっては幼少より見知りおく方なのでしょうが、アイオライト様は今や一国の王であらせられます」
何故かヴェルデライトは、あの頭を撫でた時以来、セレンに一目置いた態度をとっている。地位でいうのであればそれは正しいのだが、如何せんイオやアンバーに対する態度が態度だ。けじめというものをつけなければ、国内はもとより国外に対する示しがつかない。
セレンの何度目になるかもわからない言葉に、やはりヴェルデライトはいつものように返してくる。
「自分より強い相手に敬意を払うのは、武人として当然のことですので」
「私は貴方の長男に劣っています」
ここでいつもはセレンが諦めて話を打ち切るのだが、今日こそは彼に帰ってもらおうと決心していたので、セレンはフードの下から真っ直ぐヴェルデライトを睨み付けた。
「今日は邸へ下がり、明日の朝国境警備へお戻りください。クリソコラ殿がわざわざ迎えに来てくださるそうです」
第50分隊副隊長の名を出した途端、ヴェルデライトの顔が歪んだ。彼が交代の隊を引率して国境へ帰る際、ヴェルデライトに「すぐに追いかける」と言われていたことは知っている。あの神経質な男の扱いにヴェルデライトが困っていることなど、承知の上だ。
「彼をあまり困らせませんよう」
ヴェルデライトが何も言い返さぬうちに、セレンはさっさと踵を返した。
***
ルピの尾が首筋を撫でる。寒さを感じる指先を擦り合わせ、セレンは眼下の書類にため息をついた。国政に関する書類であれば、こうも気疲れすることはないだろう。現にモーヴからの親書に対する返信や第2兵舎進捗状況のまとめなどは順調に進み、後は担当に渡すのみとなっている。
ヘリオットで寒さを感じる程なのだから恐らく向こうは冬真っ盛りなことは明白であるのに届いたこの手紙。送り主を聞いた途端にうんざりするのは許して欲しい。誰にという訳でもなく弁解しながら、セレンは返信を考えるべく文面に目を通した。
グレーネ王弟、ぺぺル=スピーシー。華やかな飾り枠に華やかな言葉遣い。飾り文字でないのは読み易いようにとの配慮なのだろう。夏のあの出会い、セレンにとっては遭遇から冬の今、やっと自分は“氷月の君”から“麗しの友人”へと昇格したらしい。そのことに僅かながらも自分を慰め、セレンはペンに手を伸ばした。
頬の引き攣りを禁じ得ない言動や行動からは軽薄な印象を受けるが、中々どうして彼の頭の働きは良く、意地が悪い。手紙に染みこませられた香水1つとってもそうだ。原料となっている花はある特定の地にしか生えず、故に国章の一部にもなっている――大陸の北端に構える大国、ウィスタリアの。
それをヘリオットへ送りつける茶目っ気という度胸もさながら、セレンにはまるで挑戦状を送りつけられている気がしてならない。この花に気付く筈がないだろうという彼の嘲りなのか、敢えて気付かせ何らかの反応を狙っているのか。普通ならば前者で取るだろう。国章に用いられている以上、花はウィスタリアの管理下にあり、加工や用途も制限されている。つまりヘリオットの民が知っている筈がないのだから。けれどセレンは知っていた。何しろ蛇小屋は、セレンの今の立場からすれば取り締まらねばならぬものに大半を占められている。押し花になっても強い匂いを放つそれに顔を顰め訳を家主に尋ねたのは、小屋に出入りするようになってからまもなくのことだった。
香りに触れず返信するのが無難であることはわかっているのだが、それでは彼の人と文を交わす意味がない。何しろぺぺルは、ウィスタリアに協力的な立場にあるとセレンに、ヘリオットに宣言しているのだ。その上で手紙には毎度毎度飽きることなく、セレンも自分と同じ場に立つよう勧誘してきている。初めは罠か弄ばれているのか、と端から疑ってかかっていたが、蛇からぺぺルの話を聞く度にそれは別のものへ変わっていった。グレーネ王弟の、珍品への執着は並大抵のものではない。気に入った物はなんとしてでも手に入れているのだ。それが例え誰かの所有物であっても、人であっても。
薄気味悪さと呆れ。それが、セレンのぺぺルに対する感情だ。もっと正直に表現するのであれば、気持ち悪い。
ぺぺルから送られてくる手紙の端々から窺えるウィスタリアとの繋がりは、セレンの気を惹く一環に過ぎない。動機はさておき、その情報は蛇がもたらすそれと照らし合わせても偽りがない。つまりどんなに不快な思いをしても、彼との文通を絶やす訳にはいかないのだ。それは蛇としても、ディアノイアとしても。
幾度目になるかわからないため息をついてペンを走らせたセレンは失念していた。それが思い出されるのは、手遅れになってからのことだった。
自分自身も、彼の執着の対象であったということを。