"if"is nothing but "if".







 7時18分。いつもの交差点でいつも見かけるあの人が、いつものようにヘッドホンを着けて青信号を待っている。沙帆は横断歩道の向かいで、携帯を弄る振りをしながらこっそり彼を窺った。

 初めて彼に気付いたのは夏の前、合唱祭に向けた朝練の為に、いつもより30分早く登校した時だった。沙帆の高校は駅に近く、バス代がもったいない為にいつも駅から歩いて通っている。その道中いくつかある交差点のひとつで、彼は青信号を待っていた。
 込み合ってはいないけれど人がいないという訳ではなく、沙帆の位置からだと彼の肩口までしか見えない。やや茶色っぽい髪が俯きがちな彼の顔にかかり、目元を隠してしまっていた。
 駅から歩いてきた沙帆とすれ違うということは、きっと彼は電車に乗るのだろう。
 信号が青になり、沙帆は携帯を閉じてから流れに沿って歩き出した。彼が向こうから歩いてくる。並ぶ。すれ違う。その瞬間に「行ってきます」と心の中で呟いて、沙帆は今自分が来た道を行くのだろう彼へ、「行ってらっしゃい」と口の中で贈るのだ。
 妄想だと言い聞かせてはいるけれど、もしかしたら彼も自分の存在に気付いているのかもしれない、だなんて、交差点から学校までの間考える。
 寝癖が直し切れなかった日は電車に乗る前からブルーになってみたり、新しいシュシュを着けた日には、鏡の前で何度も具合を確かめたりなんかして。
 好きな人でもできたのかと友達にからかわれても、当然理由など話せない。そもそもこれは『好き』と言うのだろうか。沙帆にも好きなアーティストなどはあるが、その『好き』と友達の言う『好き』が別物というのくらい理解している。他人の恋愛話に花を咲かせるのは楽しいし、一時期いた彼氏は優しい人で、好きかと問われれば頷いた。

 結局すれ違いが増えて別れたのだけど、と今では顔もおぼろげな元彼のことを思い出し、香ばしい香りのするパン屋の前で男が煙草を吸っていたのに気付いて沙帆は顔をしかめた。毎朝すれ違うというなら、地味なスーツのサラリーマンやランドセルの小学生もいる。なのに気になるのはいつもあの、ヘッドホンの彼なのだ。
 何を聞いているんだろう。どんな声をしているんだろう。学生なのか社会人なのか、どうしていつも同じ時間にあの場所にいるのかとか、そんなことを考えるのは彼以外にない。
 けれどすれ違う以外に接点などない自分に、まさか話しかけるなんて機会が訪れる筈もなく、妄想は妄想でいつも終わる。
 学校への最後の信号で赤色に引っ掛かり、沙帆は右手から渡ってくる友人に手を振った。
 『いつか』に期待しても仕方無いし、あの交差点を使うのは残り僅か。自分が彼の記憶に残ることはなく、いずれは自分の記憶からも彼は姿を消していく。
 そしてこの子も。横に並んだ友人に歩調を合わせ、沙帆は彼女の話す他愛ない事柄に笑った。
 ならば後先考えず、『今』だけを楽しめばいい。楽しめればそれでいい。
 7時48分。「課題やった?」と訊く友人に、沙帆は「まさか」と笑って返した。


'09/05/14


SS.