斜め前に座る長島の後ろ姿を、港はシャーペンをくるりと回しながら眺めていた。必修科目である数Uのテストはホームクラスで行われる。出席番号順で座る以上、どうやってもこの並びになるのだ。
とっくに港は解答を書き終えたというのに、時計はまだ10分弱の猶予を示している。右隣に座る――確かノギが、どちらの意味で終わったのか、腕を伸ばして机に突っ伏した。
長島は、真っ暗な髪の下に白い首をちらつかせながらじっと座っている。時折左手が細かく動き、それで初めて港は彼女が左利きであることを知った。
長島から視線を外し、港は監督教師の寝ている教壇、それから廊下側へと見まわした。諦めた者と足掻く者がくっきりと分かれていて面白い。そもそも数学は、理系と文系でクラスが別にしてあるのにテストは共通という制度が間違っているきがする。だからといって、現代文や古文の授業を理文で分けろとは思わないのも不思議だったが。
そんなことをぼんやりと考えていると、10分はあっという間に過ぎてしまった。鐘が鳴り、列の一番後ろの生徒が解答用紙を回収し始める。ノギ――そう、乃木が身体を捻り、港の後ろに座っていた峰崎を振り向いた。
「マジねーって終わったって死んだって確実。どうだった?」
「だっせー。俺なんか始まって10分で終わったもんね」
峰崎が何故か誇らしげに言ったが、港はテスト開始早々に真後ろから聞こえてきた寝息をしっかりと聞いていた。乃木が「結果的な意味でだろ」と笑う。
「港は? 途中からずっとぼーっとしてたけど」
不意に話し掛けられて、港は半分首を振り返らせた。乃木が困ったように、港に話を振った峰崎を見ている。別に、と返して顔を戻すと、乃木がほっとしたように別の話題を峰崎に振った。
無視するよりも適当にあしらった方が楽だというのは、愛里のお蔭で充分過ぎる程わかっていた。
解答用紙の確認を終えた教師の「解散」という言葉で、教室がいつもの騒がしさに包まれた。
***
朝に駅前のサイクリングショップへ預けた自転車を回収し、港は大通りを1本外れた場所にある喫茶店へと向かっていた。明日の教科は理系選択と数B、必修の現代文で、文系志望の港は2限からの登校だ。教科的にも必死になる必要はなく、だったら明後日に待ち構えている化学の勉強をした方がいい。
店の前に自転車を止め、港は“CLOSE”の札が下がったガラス扉を押し開けた。
五月蝿くないドアベルが澄んだ音を鳴らし、カウンターの中から店主がいつものように「いらっしゃい」と迎えてくれる。いつもと違うのは、開店準備中の筈の今、カウンターに大小の背中が1つずつ見えたことくらいだ。小さい方が港を振り向き、「久し振り」と笑顔になる。「どうも」と会釈を返せば、高野につられた大きい方も、港を振り向き破顔した。
「港じゃんか。久し振り」
大きい方、矢原の隣りに腰を下ろして鞄を置くと、店主が港の前に冷えた水を出してくれた。
「元気だった?」
矢原の向こうから高野が首を伸ばし、港を覗き込んでくる。まあまあです、と答えながら化学の教科書を取り出すと、教科書はそのまま矢原の手へと渡ってしまった。
「うわー、懐かし。化学とか何年振りだよ」
「今って中間テストの時期だよね」
矢原の手から教科書を取り上げると、高野が笑いながら言った。肯定で返せば、矢原が「晴樹もテスト?」と高野を見下ろした。
「うん。また合宿開いてるよ」
「今高3だっけ」
2人だけで会話を始めたのをいいことに、港は綺麗な教科書を開く。中には所々の書き込みと、蛍光ラインが引かれていた。
「ここで勉強すんの?」
「港くんは、テスト前はいつもここで勉強していますよ」
高野の質問にはコップを磨いていた店主が答えた。矢原が立ちあがる。立ち上がり際、港の背中を強めに叩いて。
「邪魔になると悪いし、俺らそろそろ行くわ」
「そうだね。漣さん、お邪魔しました」
続いて高野が立ちあがり、先に扉へ歩いていた矢原に続くのかと思いきや踵を返して港の後ろに立つ。何か用かと振り向くと、高野は港の教科書を覗きこんでいた。
「化学の先生ってまだ矢崎さん?」
「はい」
ふーん、と教科書を眺める高野の扱いに困り、港は視線で矢原に助けを求めた。
「私のノート貸そうか?」
矢原が来るより先に高野が身体を起こし、港を見下ろすと言った。間抜けな顔をしていたのだろうか、高野が「ノート」と再度言った。
「範囲、うちらの時と変わらないみたいだし、まだ残ってるし。良かったら、だけど」
昨年まで港と同じ学校に通っていた先輩は、2つ下の港の代でまで有名だった。正確には、彼女達と言うべきだが。
色々としでかしてくれてはいたが、彼女の成績については折り紙つきだ。
お願いできますかと言った港に、「じゃあ明日ね」と高野は笑った。何故か昨日の長島の、小さな笑みが脳裏に蘇る。
カランと鳴った扉を、港はベルが静止するまで見つめていた。
'09/04/02
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