とある厨房係の話






 奇妙な風体のディアノイアは、城に勤める者ならば誰でも目にしたことがあるだろう。それ程にあの人は城中を歩き回っていたし、また目立っていた。もっともそれは城という特殊な空間での話であり、件の白いフードローブを纏った輩が居酒屋に居た時も、ロゼットは驚きこそしたものの、いてもおかしくないだろう、と思った。現に店の隅の方には、ちらほらと薄汚れたフード姿が見える。
「なあ、あれって……」
 一緒に酒を飲んでいたセインドが、驚きの目でフードローブを見ている。「わかってるよ」と返しながら、ロゼットも目で白を追った。
 ロゼットは遠目からでしかディアノイアを見たことがない。つい2月前から厨房で働き始めたロゼットにとっては、ディアノイアよりもアイオライト王の方が見慣れていたし、ディアノイアが王を探して厨房にやってくる時は、偶然が重なりいつもロゼットは外に出されていた。
 そんな訳で、思っていたよりも大柄だったディアノイアが周りの囁きを気にせず近くのテーブルに座った時は、ここぞとばかりに観察した。
 何となく薄汚れているように感じるのは、お忍びだからなのかもしれない。子どもたちの憧れの的である制服がどこにも見当たらないというのもあるし、遠目からでも感じるあの不思議な雰囲気を今は纏っていないこともある。あの人間味のない雰囲気がロゼットは好きではなかったので、給仕が彼の前に置いた酒と肉料理を見て、彼も人間だったのかとこっそり安堵した。
 人間ならこっそり息抜きもしたくなるさ、と自分を納得させ、厨房仲間に言いふらしてやろうと考えていたロゼットは、ひたすら首を傾げているセインドを見て「どうしたんだよ」と足を蹴った。
「蹴るなよ、痛いだろ」
「ディアノイアだって人間なんだから、見て見ぬ振りしてやるのが人情だろ」
「いや、だからさあ……」
 はっきりしない友人に眉根を寄せる。再度促せば、セインドは首をひねりながら答えた。
「何か、違うんだよなあ」
「何が」
「セレン様じゃ、ないぞ、あれ」
 顔もわからない輩をどう見分けているのだろう。そもそもディアノイアを名前で呼ぶなんて、それも略称で、とか、言いたいことは色々あったが、それらが口を突く前に、怪しい輩がディアノイアに近付いた。
 職業柄だろう、休日だというのに席を立ちかけたセインドを無理矢理座らせ、ロゼットは耳を澄ませて会話を窺った。
 居酒屋というのは総じて賑やかなものだが、それでも聞こえてきた言葉の端々を繋げば大体の話はわかる。
「……へえ、やっぱりセレナイトサマも人の子って訳だ」
 怪しい男からディアノイアに、ぎっしり中身の詰まってそうな革袋が渡される。「これからもお願いしますよ、ディアノイア様」なんて聞こえてくれば、これが初めてではないと知れた。
 お偉いさんてのは大抵そうだ、とがっかりした気持ちになりつつ酒を煽る。セインドが愕然とした顔で例の2人を見比べていた。
「なあ、お前がディアノイアに首ったけなのは知ってるけどさ、やっぱそんなもんだって」
 その顔があまりに見ていられなくてそう言葉を掛ける。するとセインドは聞こえているのかいないのか、急にきょろきょろと辺りを見回し始めた。
「早いとこ知らせないと」
「誰に何を」
「セレン様の偽者が出たってことをだよ!」
 だん、とセインドがテーブルを叩いた。素直で正直なこの男が滅多に声を荒げないのを知っていたロゼットは当然、急に大声を出した彼に注目した客らも静まり返ってセインドを凝視した。気まずい静寂にロゼットは、セインドを座らせるべきか店を出るべきか迷った。
「……おい貴様、今なんと言った」
 その迷いの間に、ディアノイアに革袋を渡していた男がこちらを睨み付けながら立ち上がった。ディアノイアの方も席を立ち、こっちを睨み付けている。勘弁してくれ、と天を仰ぎたい気分だったが、ロゼットはせめて場を収めようと笑みを浮かべてセインドを後ろに押しやった。
「いやすんません、こいつだいぶ酔っ払ってるみたいでして」
「ロゼット!」
「落ち着けって、大体あの格好、どう見てもディアノイアじゃねーか」
 店中が自分たちの一挙一動を見守っているとわかっていて、ロゼットは泣きたくなった。もうこの店には来れないだろう。ロゼットの言葉に客たちが、口々に同意しているのが聞こえてくる。尚も言い募ろうとするセインドの口をふさぎながら、ロゼットは愛想笑いを浮かべて勘定の為の給仕を捜した。
「……いや、でもなあ……」
 けれどそんな時に聞こえてきた言葉は、妙に店内で良く響いた。ロゼットがついそちらに目をやれば、どこかで見たような2、3の顔がディアノイアの方を訝しげに見ている。セインドが塞がれたままの口で何か呻いた。
「なんだ貴様ら」
 男の注意がそちらに逸れたことに僅かばかりの安堵を覚えつつ、ロゼットは雲行きを窺った。睨まれているテーブルには見覚えのある男が1人と、知らない男が2人。どこで見たのだろうかと考えていると、ディアノイアが一歩前に出た。
「私が、偽者だと? 何を根拠にそのようなことを言う」
 その声に、静まり返ったのは一般客達だけだった。睨まれている男達、それにセインドはディアノイアへはっきりと敵意を向けている。ロゼットですら、状況を忘れて思わず首を傾げそうになった。あのディアノイアは、こんな下品な声だっただろうか。確かに側に行ったことはないが、声くらいならば耳にしている。その違和感は、続く言葉で確信に変わった。
「貴様らが誰だか知らないが、兵士か何かだろう。アンバー殿に処罰してもらわねばなるまいな」
 ロゼットはセインドの友人だ。休日にはこうして共に酒を引っかけるくらいには。そのセインドが口にするのは、もっぱら奇妙なディアノイアの話だ。
 セレン様が名を呼んでくださった俺を覚えてくださった、今日は早朝稽古を眺めておられた誰それが名指しで誉められていたお前もきっとあの方を好きになる、なんて、それはもう嬉しそうに。
 なのにこの薄汚れたフードローブは、セインドを知らないと言った。他の連中は知ったこっちゃないが、他の兵士たちに笑われるくらいディアノイアに心酔していてそれなりに目をかけてもらっているセインドを、本物のディアノイアが知らないなどと言う筈がない。ロゼットが偽者を睨み付けた時、動向を窺うばかりであった客の中から声が上がった。
「なら、アンタは自分がディアノイアのセレナイトだって言い張んのか」
 声に目を向ければ、そこに居たのは薄汚れたフードをすっぽり被った2人組だった。テーブルには酒とつまみが乗っており、声を上げたと思われる方が挑発するかのようにゴブレットを揺らした。目に見えて偽者の怒りが膨らむ。
「誰だ貴様」
「質問したのはこっちだ」
 どこか笑みを含んだその声は、酔っているのだろうことを窺わせる。連れは何をしているんだ、と他人事になったロゼットが目を向ければ、そちらはそちらで頬杖をついて傍観者面を決め込んでいる。偽者が舌打ちをして床を蹴りつけた。
「私を侮辱する気か!」
「そもそもそいつは『偽者が出た』って言っただけで、アンタが偽者だなんて言ってないだろ。心当たりがあったのか?」
「っ黙れ無礼者!」
 怒鳴り声をあげたのは、偽者の連れの方だった。テーブルにあった酒のカップをフードの男に投げつける。悲鳴を上げたのは誰だったか。中身を飛び散らせながら飛んでいったカップは、フードの連れが叩き落とした。再び静寂が訪れた中、激昂したらしい偽者の連れが尚も声を張り上げる。
「この方はディアノイア様だぞ、貴様の様な輩が軽々しく口をきいて良いお方ではない!」
 そう、偽者の連れが言った瞬間だった。ロゼットは、フードの男が口端をつり上げたのを確かに見た。
「聞きましたか、サーフ殿」
「ええ、確かに」
 交わされた言葉にセインドが息を飲んだ。見覚えのある男たちの方も、はっとした表情でフードの2人組を見る。ロゼットも耳を疑った。今聞こえた声は、それにこの雰囲気は、とても良く知っている。
 偽者の連れが後ずさるより早く、サーフと呼ばれたフードの連れが動いた。
「取り押さえろ!」
 サーフが挙げた腕に合わせ、客の中からフードローブがいくつか飛び出してくる。抵抗の隙もあればこそ、偽者達は一瞬にして床に押さえつけられてしまった。押さえつけた連中がやれやれとばかりにフードを外せば、セインドが驚いたような声をあげた。
「ルチル! それにラリマールも!?」
 その声に顔を上げた連中を見て、ロゼットも「あ」と声を漏らす。確か彼らはセインドと同じ隊の兵士だ。ルチルが手際よく偽者達に縄を掛けつつ、サーフを振り向き「隊長」と呼ぶ。
「捕縛完了です」
 よくよく見ればローブの下には制服を着ているようで、敬礼の姿勢をとった兵士達がサーフに指示を仰いでいる。そのサーフはといえば、1つ頷いてからフードの男を振り向いた。この騒ぎを引き起こしておいて座ったままだったフードの男が、ようやく席を立って偽者達の方へ回り込む。ロゼットは何かの芝居を見ているような気分だった。おそらく他の客もそうだろう。
「さて、カコー。ディアノイアの名を騙った罪は重い。それも、ディアノイアの名を使って無銭飲食までしていたな。この店では1回、“Katoffe”で2回だったか? 金銭のやり取りは4回」
「っ何故それを」
「生憎だが、私は外食するくらいなら家に帰って食事をするんだ。君の取引先も今頃は捕縛されている。ディアノイアを侮り秩序を乱そうとすることは、つまり三権を侮るも同じ。ヘリオットの兵士を甘く見てはいけない」
 淡々と告げられる言葉は耳に入らず、ただその声にロゼットは混乱していた。フードの男がサーフに短く指示を出し、それを受けたサーフがラリマールらに偽者らを連れて行くよう命じている。それからフードの男が一連の出来事を見守っていた給仕の1人を捕まえて、なんだか見覚えのある袋を渡した。さっき偽者らがやりとりしていた袋だとロゼットは気付いた。
「彼らの飲食した代金と割れたカップ、騒がせた詫びです」
 丁寧な物腰は見慣れたもので、だから余計にロゼットは混乱していた。だってこの丁寧な物腰と、さっき偽者を挑発していた態度は、とても同一人物だとは思えない。
 セレン様、と誰かが呟いた。ロゼットが見覚えがあるのに思い出せなかったあの男だ。静まり返っていた店内に、その声は良く聞こえたようで、フードの男がそちらを振り向く。
「ギベオン、それにヤロア。タングストにセインド」
 名前を呼ぶ度にフードの男の頭もそれぞれに向けられ、ロゼットはようやく件の男がギベオンだったと思い出した。名を呼ばれた方はと言えば、それぞれ直立不動の姿勢を取っている。ロゼットは急に居心地が悪くなり、そっとセインドの後ろに下がった。
「畏まらなくても構いません。今日は非番なのでしょう?」
 対するフードの男はと言えば、何が可笑しいのか唯一見える口許を緩ませている。その横ではサーフが、セインドたちと同じように直立していた。フードの男がセインドたちを、再び順に眺めた。
「ありがとう」
 その後発せられた言葉に、ロゼットまでもが呆気にとられた。それに気付いているのかいないのか、フードの男が言葉を続ける。
「貴方たちが、カコー……あの偽者を私と間違えなかったことは嬉しく思いました。ロゼットも途中で気付いてくれましたし」
「っ俺の名前」
 ぼうっとしていたところ聞こえてきた己の名前で我に返り思わずそう口にすれば、彼は不思議そうにロゼットを見つめ返してきた。
「厨房の、ロゼットでしょう? 2月前から働いている」
「え、いや、そうですけど、なんで」
 頭が真っ白になったロゼットを見つめていた彼が、小さく笑った。
「では尋ねましょう。小腹が空いた兵士たちにこっそり菓子を分けているのはどなたですか。昨日は陛下も菓子をねだりに行かれたそうですが」
 にこにこと問いかけられて、ロゼットは真っ赤になった。まさか自分のことをディアノイアが知っている、とは思っていなかったのだ。
 ロゼットを振り向いたセインドが、どこか誇らしげな視線を寄越す。その目は「だから言っただろ、セレン様はすごいんだ」とでも言いたげだ。
「さて、私たちも行きましょうか、サーフ殿」
「はい」
 店を後にした2人を見送った後、呆然としているロゼットを余所にギベオンたちがこちらのテーブルに移動してきて如何にディアノイアがすごいのかを語り始めてからも、ロゼットは明日からどうしようと頭を悩ませるのに精一杯だった。


10/09/13


(どんな顔して会えばいいんだ!)
みたいな。
情報提供及び協力は蛇。