そうして鱗の一部となる
「ルチル?」
いつもの食事処で知った声に振り向けば、細い目を弧に歪めた馴染みが片手を上げていた。手を一振りすることで応え、ルチルは向かいに掛けるように促す。遠慮する素振りも見せなかったスイは、通りがかった給仕に酒を頼んでから示した椅子に座った。
「久し振りだねえ。生きてたんだ」
「人を勝手に殺すなよ」
失礼な冗談に、けれどルチルは笑って返しつつ自分のゴブレットをあおる。彼の言葉の理由がわかっているからだ。
半年前から、ルチルの所属していたヘリオット国軍第27分隊と第28分隊は、レグホーンの要請で彼の国に派遣されていた。ヘリオットとレグホーンの国境付近に出没していた族の討伐の為だ。ただの族にしては強い、ヘリオットの差し金ではないのかという含みのある向こうの言い分はたちまちのうちに国中に知れた。当然国民のレグホーンに対する悪感情が膨れ上がったのだが、それ以上にそんな狼藉を働く族への成敗を望んだ。
大陸一と名高い、ヘリオットの兵士達に。
族の討伐自体はさっくりと終わったからこそのスイの言葉なのだろうし、ルチルも軽口を返せたのだ。
「帰ってきたのって6日前だろ? 随分早くに外出られたね」
「事務処理が一月前に粗方完成してたらしいからな。まったく、上の人も適当過ぎじゃないか」
「そりゃまあ、“ヘリオットの兵士”が族ごときに手間取る筈ないってわかってたからじゃない?」
それもそうだと返しながら、ルチルは新しいゴブレットを給仕に頼む。
今回の出来事で、ヘリオットはレグホーンに対して今までよりも有利な交易規約を取り付けた。ヘリオットの兵士に対する侮辱への罪は重いし、いくら同盟を組んでいるといっても、他国からの侵略に対しての援軍ならともかく、たかが族の討伐に兵士を貸し出したのは義理よりこちらの理由が大きい。
そんな理由で遠方へ送られたこちらとしては迷惑なことだが、ルチルには特定の待たせる相手はいないし、腕は鈍らないし、見聞が広がるということで不満は抱いていなかった。何よりレグホーンの乳酒は美味い。
それでもヘリオットの、というよりこの店の果実酒に勝るものはないだろうと思いながらゴブレットを空けていると、スイがおもむろに頬杖をついた。ただでさえ細い目が、笑んでいる所為で糸のようになっている。
「ご帰還祝いってことで、今日は俺が奢ってやるよ」
その言葉に、ルチルはスイへ疑いの目を向けた。
「何企んでんだよ、気色悪いな」
「あれ? 人の好意は素直に受けとるもんだよ」
「気持ちだけな。ご心配なく、特時給金たんまり貰ってるから」
もっともその気持ちとやらも、この男は小指の爪ほどすら込めていないのだろうが。
ルチルがスイと出会ったのは、かれこれ7年ほど前のことになる。飄々とした子供とは妙に気が合い、以来ルチルが軍に入隊してからも付き合いが続いている。彼の仕事は知らないが、ガキの時分はともかく、スイをこの店以外で見た覚えがない。
何とも今更ながら疑問が浮かんだ時、スイがまた口を開いた。
「ルチルは結構活躍してたらしいもんねえ。後方援護はあんまり評価されないっていうけど」
「弓矢は安全な位置にいるからな。直接剣振り回した奴よりは少ないさ」
ヘリオットでは戦いに優れた者が皆評価される。それは敵であっても変わらない。とはいえ弓矢と剣では剣に優れた者の方が評価は高かった。ルチルも剣が扱えない訳ではなかったが、人には得手不得手というものがある。
「にしたって多すぎじゃない? やっぱり奇襲のこと読んだのが評価されたんだろ」
そう言ってゴブレットを新しいゴブレットを注文したスイを見ながら、ルチルは動きを止めていた。
「何で知ってんだ?」
半分は驚きで、半分は呆れで。確かにルチルの褒賞の大半は、族の企んでいた奇襲を位置から時刻からぴたりと当てたことに対して支払われている。けれど一兵卒にそれを看破されたとあっては外聞が悪いということで、表向きの手柄は隊長のものになっている。多すぎる金は口止めも含まれていたというのに。
当然事実を知る連中にも褒賞が上乗せされている筈だし、首を取ったというならいざ知らず、相手の作戦を看破したことは戦闘に重きを置く軍の中でどうしても己の手柄にしたいことでもない。だから話が洩れていたとは思えない。
ルチルの疑問に、スイはいつもの食えない笑みを浮かべた。
「“蛇”って知ってる?」
「へび?」
言われて浮かぶのは、のたうつ細長い生物だ。けれどスイはルチルが何か言う前に「そっちじゃなくて」とまた笑った。
「他の“蛇”って言ったら……あの?」
「そ。あの“蛇”」
弧に縁取られた目だけがすうっと冷たくなる。ルチルは思わず唾を飲んだ。
“蛇”。知ってる奴は知っている、情報屋。ルチルも幾度か耳にしたことがある。金さえ積めばどんな情報も売ってくれるが、契約を違えた時は容赦がない。情報のみならず、時には盗みや殺しも請け負うとか。
更にその正体は謎に包まれていて、組織なのか個人なのかも曖昧だ。また、腕の良い薬師だとも言われている。
たったひとつだけ確かなのは、一度請けた依頼は完璧にこなすということ。
何故スイがこの場でそんなことを、それも滅多に見せない真剣な顔で言ったのかが理解できず、ルチルは僅かに眉をひそめた。
「……それで? 知ってたらなんだってんだ」
「ならない? “蛇”に」
は、と間抜けな声が漏れた。取り落としそうになったゴブレットをなんとか掴み直しつつ、ルチルは咄嗟にスイに身を乗り出した。
「前々から思ってたけど、ほんとお前何を考えてんだ?」
当然声は潜めてあり、賑やかな食事処内で先のスイの言葉は紛れてしまったと思いたい。
ルチルはヘリオットの兵士だ。つまりは国に属している。対する“蛇”は噂を聞く限り、到底国と仲が良いとは思えないモノだ。そのくらい、この無駄に頭の回る男に理解できない筈がない。
けれどスイは両肩を竦めただけだった。
「いいじゃん。どうせ今までだって似たようなことしてたんだし」
「声下げろって……つーかそれどういう意味だっ?」
ぎょっとして辺りを見回した首を勢い良くスイに戻す。返されたのは呆れ顔だった。
「今更? 散々情報流しといて」
「頼むから声下げろ! 大体流すって嫌な言い方すんな、あんなもんただの愚痴とか噂しかなかったろうが」
「お陰様で内部の人間関係知るのに役立ったよ。まあルチルはその辺りほんとに口堅かったから、あいつも欲しがったんだろうけど」
飄々という悪友に、ルチルは開いた口が塞がらない。唯一言えたのは「あいつって?」だけだった。
「うちの頭」
簡潔な回答に、ルチルは目を閉じ頭を抱えた。
とりあえずわかったことは、噂の“蛇”は実在する組織であること、スイがその一員であること、自分がスイに利用されていたらしいこと、この食事処は“蛇”の縄張りであるようだということ。
あのな、とルチルは頭を押さえていた手を外した。
「……俺、一応兵士な訳だ」
「うん」
「掛け持ちっつーか内職っつーか、他の仕事は禁止されてんだ」
「うん」
「それでもやれって?」
「うん」
一息ついてゴブレットに手をのばしかけ、ルチルはその手をそのまま握った。
「……つーか、あれだよな。お前、俺が断るとか考えてないよな」
「じゃなきゃこんな話出さないって」
へらへらと笑うこの男の脛をテーブルの下で蹴ろうとしたが、ルチルの足は空振った。
自分で言ったことだが、確かに“断る”という選択肢はない。それは、断った時には己の命がないだろうという消極的な理由からではなく、単に断ろうという考えが浮かばなかったからだ。先の言葉だって、職業柄言っておかねばならぬだろうと思ったからに過ぎない。
再度深く息をつき、ルチルは「ひとつだけ」と目をあげた。
「何で今?」
手柄を非公式にとはいえ挙げて、評価も非公式ながらに受けて、国に対する忠誠心的な何かが育っているかもしれないのに。
何故“今”なのか。その問い掛けに、スイがニィっと笑った。
「お前、第7分隊に移転すんだ。ルチルってば職業意識高いから、これまで以上に口堅くなりそうじゃん? ……何てな」
つとスイが視線を外した。成る程、と頷きかけていたルチルは拍子抜けしつつ視線を辿る。
「そんなの、本人にしかわかんないよ。なあ?」
「……さあな」
そう返した男が、断りもなくルチルの右手前に座った。すると給仕が何も言わずに男の前にゴブレットを置く。
長い髪の所為で顔の大半が見えない。良く通った鼻筋と整った口許、細い顎から想像するに、それなりに見られる顔なのだろう。何処か東国めいた雰囲気だ。体つきの判りにくい、ゆったりとした服を纏っている。
それらを一瞬で見て取って、ルチルは改めてスイに目をやった。それからすぐに男へ視線を戻す。黒々とした瞳が右だけ見えた。
「……“本人”?」
「会うのは初めてか。話は聞いている」
「俺は噂しか聞いてないけどな」
そう返せば真っ黒の目が僅かに笑んだ。見間違いかと思うほどの一瞬だったが。
顔の筋肉を操ることに関しては、悪友には及ばないものの、そこそこ自慢できる。今だって自分の表情はスイに向けた呆れ顔のままの筈だ。しかし内心では、これまで生きてきた17年間でさえ一度もなかったと言えるほど動揺していた。
やはりこの店は“蛇”の縄張りだったらしい。それどころか本拠地と言っても過言ではないかもしれない。昔からスイには度肝を抜かれてきたが、今回のはそれらの比にもならない。今眼前に座る、恐らく自分よりいくつか年嵩だろう線の細い男が噂の“蛇”の頭だという。
スイが嘘をついている可能性がない訳でもなかったが、それはないと自分の勘が告げていた。不思議な空気を纏うこの男は、九分九厘“蛇”の頭とやらなのだ。
す、と真っ黒の両眼がルチルを見据えた。
「強いてあげるならば……足場を増やしたかったからだ」
唐突な言葉に瞬き、『何故今なのか』という己の問いへの答えだと思い当たる。足場、とは城内部に対してのものだろう。
「……ここで本来なら『何の為に』って問い質さなきゃならないんだろうけどなあ」
それが己の仕事なのだから。目の端でスイの笑みが深くなる。
ルチルはあえて無視し、男にだけ焦点を合わせ、空のゴブレットをくるりと回した。
「俺、この店気に入ってんだ」
ニィ、と笑えば男の口端が僅かにあがった。音もなく男が立ち上がり、その足元にどこから出てきたのか、見たこともないような大蛇が付き従う。思わずそれに目をとられかけ、ルチルは背を向けた男を慌てて呼び止めた。
「なあ、あんたのことは何て呼べばいい?」
ルチルの問いに男が首だけこちらに向ける。長い髪がその肩口を流れた。
「好きに呼べ」
ルチルとしては名を尋ねたつもりだったのだが、どうやら流されてしまったらしい。重ねて問うほど愚かではない。
男が奥に消えた途端、店内が一斉にルチルのテーブルを見た。それらの顔つきで、ルチルはやはり己の推測が正しかったことを知る。歓迎の言葉を耳にしつつ、ルチルは向かいの悪友を見た。
「やっぱお前嫌い」
「蛇は1つの生き物なんだ」
脈絡のない言葉に胡散臭いと目で告げる。相手に効果がないのは長年の経験からわかっていた。
「つまり?」
「自分を偽ってはならない。自分の手足を切り捨てない。トカゲとは違うってこと、理解しときなよ」
ニィ、と笑って告げられた言葉の意味を真に理解したのは、半年後のことだった。
10/03/29 21:02
ルチルは“Artos”内では珍しく移動組。ルチルとスイの話もいつか書きたい。'10/05/05修正&UP