ヘリオットの領土自体は広い。北の草原は山岳まで、西から南にかけては山が広がっていて、レグホーンとの国境になっている。東には大きな河が流れていて、その向こう、更に森を抜けた場所にイローネが横たわっていた。
しかし居住区は全て、城を扇の要とした塀の中に収められている。塀の外から国境までは、数は少ないが牧畜が行われたり、畑が広がったりしていた。そして一番外側、橋や山道の際といった要所に、国境警備の軍が常駐している。
そして第二兵宿舎が建設されているのは、やや国境側、東よりの平地だった。
「もう直に仮宿舎が見える筈です」
先導していたセインドが、器用に馬上で体を捻り、セレンにそう告げた。彼にひとつ頷き、セレンは左手に広がる畑、そこで作業をする農民を眺める。セレン自身は畑仕事をしたことはない。精々“Artos”の裏庭で栽培されている香草の世話を手伝ったりだとか、蛇小屋の薬草畑で雑草を刈ったりしたくらいだ。
小隊を成すセレンたちに気付いた農民たちが、わざわざ作業を止めてこちらに深く礼を向けるのには、塀を出てから幾度もされたことだというのに、セレンは慣れることが出来なかった。
昼の少し前に出発し、今はもう夕暮れになろうかという頃合いだ。これほど長く馬に乗ったのは、セレンにとって初めての経験だったが、ポーレが上手く歩いてくれているお陰だろう、あまり疲労は感じていない。労わりの気持ちを込めてポーレの首を軽く撫でると、彼女は嬉しそうに鼻を鳴らした。
軽くざわついた空気に前方を見やれば、薄くなった空の下に仮宿舎と、建設中の建物があるのがわかった。向こうから、馬が2頭駆けてくるのが見える。セインドがルチルに目配せをして、1人馬を走らせた。
「ラベイ殿でしょうか」
「恐らくは」
ルチルが額に手をかざし、目を細めながら答える。他の兵士たちも、心なしか表情が明るくなった。セレンは再び前方に視線を戻し、軽くポーレの腹を蹴る。わずかに足を速めさせると、ルチルが少し驚いたような顔をした後に、苦笑をしてからセレンに続いた。
彼らが乗馬に慣れないセレンを慮って、かなり馬を遅くしていたことには当然気付いていた。本来ならば、もう1時間は前に到着していた筈なのだ。
けれど無理をしては、逆に彼らに迷惑が掛かる。だからセレンは、彼らの思いやりに甘えていたのだ。
馬を軽く走らせていけば、すぐにラベイたちのところへ着く。ラベイが馬から降り、手綱を引いたセレンに向かって敬礼の姿勢をとった。
「遠路お疲れ様です。ここから先は私がご案内いたしましょう」
「お願いします」
軽やかに馬へ飛び乗ったラベイは、以前に見たときから更に逞しくなったように思える。セレンを囲おうとしたセインドたちを抑え、セレンはラベイに馬を並べた。
「建設は順調のようですね」
「畑も、農民の助力あってか、来春には使えるようになります。兵舎も宿舎部は概ね出来ておりますので、その他の設備はこの冬のうちに完成するでしょう」
正直、ここまで早くに進むとは思っていなかった為に、セレンは素直に驚いた。畑は確かに、張るから使えるようになればとは思っていたが、宿舎は夏まで掛かるだろうと踏んでいたのだ。
素直に「予想以上です」と感嘆すると、ラベイは「皆のお蔭です」と謙遜した。
「国の中での三権に対しての評価が上がるほどに、農民や大工はより協力的になっていきます。それを見た兵士達の自意識が高まる。そして、その兵士の姿を見て子供たちが育つ。とても好ましい連鎖が起こっています」
「つまり、現場でのあなた方の姿あってこそ、という訳ですね」
笑顔で付け加えてやれば、照れたのかラベイが咳払いをした。
仮宿舎の周りには兵士たちだけでなく、農民やその子供の姿も見えた。どうやら夕餉の時間だったようだ。セレンたちが近付いていくと、兵士たちが慌しく整列を始め、子供たちが興味深そうに1ヶ所へと集まっていく。馬を降りる頃には、1000人がすっかり整列していた。
馬をルチルに預け、セレンは兵士の前に立っているラベイの横に並んだ。
「到着が遅れてしまい申し訳ありません」
開口一番、セレンは頭を下げた。隣りのラベイが慌てた様子で、セレンに頭を上げるよう促す。見物の農民たちもざわついていた。
「今回は、既にラベイ殿から話が通っていることとは思いますが、あなた方が普段どのように過ごされているかを見る為に参りました。難しいとは思いますが、どうか私のことは気にせず、普段通りに振舞ってください」
セレンが言い終えた後、ラベイが解散を告げた。兵士は戸惑っていた様子だったが、重ねて言ったラベイの「食事が冷めるぞ」という言葉に、慌てた様子で元の場所へ戻っていった。
セレンはルチルたちに、夕餉に混ざるように告げ、自身はラベイについて仮宿舎の一角へ向かった。
子供がいる、というだけで、なんと賑やかになることだろう。自分もまだ子供であることを忘れそうになりつつも、セレンは聞こえてくる音を楽しんだ。
「今宵はこちらでお休みください。明日は畑の様子をご案内しましょう」
「ありがとうございます」
馬や荷物、それも大した物は入っていないのだが、それらがきちんと収められているのを確認してから、セレンは外へ出た。
宿舎には柵が巡らされていて、入り口と宿舎の間は広場のようになっている。皆はそこで炊き出しをしていた。自分の姿を見るたびに畏まろうとする兵士を宥めつつ、セレンはルチルたちを探す。兵士だけでも1000余人いるのに、そこへ農民や大工が紛れるものだから、とても見つけられそうにはない。大人しくラベイについているかと諦めた矢先、子供がじっと見つめてきていることに気付いた。セレンが気付いたことを悟ったのか、その子供、少年がこちらに駆け寄ってくる。
「アンタがセレン?」
開口一番の少年の言葉に、すぐ横に居たラベイが目を剥いた。セレンは気にせず地面に膝を付き、少年と目線を合わせる。
「そうだよ」
明るい色の目をした、まだ10歳にも満たないだろうが利発そうな少年だ。
「王様が言ってたよ。もうすぐイジワルな兄ちゃんがくるって。王様いじめたらいけないんだよ」
少年につられたのか、わらわらと子供が集まってきた。少年を叱ろうとしたラベイを諌め、セレンは少年に答える。
「王様のことが好きなんだね」
「うん。たまにしか来ないけど、一緒に遊んでくれるよ。だからアンバー様も好き」
集まってきた子供が、我も我もと同意の声をあげる。どうやらあの2人は、自分がわかっているよりも頻繁にここを訪れているらしい。ラベイがわざとらしく咳払いをした。
「どうして2人がたまにしか来ないか、知ってる?」
知らない、と少年は言った。子供の中から「忙しいんだよ」との声が上がる。物珍しさから、だろう、兵士や農民が遠巻きにしているのがわかった。
「そう。王様もアンバー様も、とってもお忙しいんだ。本当なら、眠るお暇も殆どないんだよ」
少年は黙ったままセレンの言葉を聞いている。少年だけでなく、周りの子供、ラベイ、兵士達に至るまで、静かにセレンの話を聞いていた。
セレンは少年の日に焼けた肌、豆だらけの手を一瞥する。
「皆の手伝いをするのと遊ぶのは、どっちの方が楽しいかな」
唐突だったろうが、少年は元気良く遊ぶ方と答えた。セレンは少年から見える位置、口元でにっこりと笑う。
「でも手伝いも大事だよね。例えば君が、朝に遊びたかった時、洗濯を頼まれたとしたらどうする?」
やるよ、と少年は当然のことであるかのように答えた。
「何もしない子は何ももらえないもん。当たり前だよ」
「でも、洗濯をすればいいんだよね。すればいいのなら、朝は遊んで、夕方に洗濯をすればいいじゃないか」
少年が、馬鹿にしたような顔をした。周りの子達が口々に反論してくる。
「夕方に洗濯物を干したら、ちゃんと乾かないよ」
そう、とセレンは頷いた。
「もし君が朝に洗濯をしなかったら、誰かがお昼になる前に洗濯物を干すよね。ちゃんと乾かないと困るから。仕事も同じなんだ。後でやったても構わないけど、後回しにすると誰かが困る。誰かの負担が増える」
少年も、子供達も黙りこんだ。少しの間の後、少年が迷いがちに口を開く。
「……王様は、サボってるの?」
違うよ、とセレンは首を横に振り、少年の頭を撫でた。
「王様もアンバー様も、皆の為に毎日毎日頑張ってるよ。私も、王様達が少しでも楽になるようにってお手伝いをしている。でも、自分のお仕事はちゃんとやって欲しいよね。それって意地悪なのかな」
セレンが言い終えた後、少年はゆっくり首を横に振った。そして、小さな、けれどはっきりとした声で「ごめんなさい」と言った。セレンはもう一度少年の頭を撫でた。
「でも、私も少し言い過ぎていたのかもしれない。いつもいつも、私だけお城に置いてけぼりだからね」
言って立ちあがると、ラベイの呆れた表情に見下ろされた。口の片端を上げてみせると、諦めたのか再びラベイがため息をつく。それから彼は取り囲んでいる子供たちに道を開けるように促し、セレンを輪から連れだそうとした。けれど少年が、ラベイに続こうとしたセレンの裾を掴む。立ち止まって見下ろせば、明るい目が見上げてきた。
「ね、セレン、様も来ていいんだよ。俺、今度王様が来たらちゃんと怒っとくからね」
今度は腰を屈めるだけにとどめ、再度セレンは少年と目線を合わせた。フードと仮面で見えないだろうに、少年は真っ直ぐセレンの顔を見つめてくる。
「怒るのは私の役目だから、君達は目一杯遊んであげていいんだよ。王様もアンバー様も、まだ子供なんだ。お仕事ばっかりだとつまらないだろう?」
わかった、と元気の良い返事を聞き、セレンは今度こそラベイに続いた。隊長、副隊長の席の席に近くなった頃、ラベイがため息と共に謝罪の言葉を吐いた。
「陛下からは固く口止めをされていたのですが」
構いませんよ、とセレンはラベイに笑った。
「私は陛下のお疲れを癒す手伝いをした少年に、たまたま陛下とアンバー殿が何故か私が知るより頻繁にここを訪れていることを教えてもらっただけですから」
苦笑したラベイは、恐らくセレンが戻った城で何が起きるのかを想像でもしたのだろう。セレンとしては、次にイオとアンバーがここへ来た時に何が起きるか、の方が楽しみではあったが。
第11分隊から第20分隊の隊長、副隊長との面通しを済ませ、セレンはありがたく夕食を頂いた。料理係が質素な食事を酷く気にしていたが、セレンにとって黒パンと塩辛いスープは、寧ろ疲れを取り安心させてくれる。日も落ち冷え込んできた今、農民達は各々の作業小屋へと帰っていった。
聞けば、この後兵士達は演習があるのだという。演習、とは聞こえがいいが、要は早朝稽古の娯楽版らしい。かがり火を焚いた広場で、見せ試合をするのだ。セレンがいる、ということで、最初のクジを引いてしまった兵士達は大層恐縮していたが、いざ試合が始まってしまえば、野次怒号が平気で飛び交ういつもの様に成り果てた。始めのうちこそラベイが注意していたが、セレンが楽しんでいるのを見て諦めたらしく、自ら試合場の中へ入ってみせた。
その後は就寝となり、セレンはさっき案内された、仮宿舎のもっとも上等な部屋に通された。ラベイにはもう下がってもらい、今扉の前にはセインドが立っている。セレンは部屋の中で、灯した蝋燭が尽きるまでの間、城から持ってきた書類を片付けた。